最近NBAを観ていて、ケガで休んでいるスター選手が多いことに気づきます。
レブロン・ジェームズ、ケビン・デュラント、ザイオン・ウイリアムソン、ポール・ジョージ。
とにかく、多くのスター選手がケガでお休みしています。
一生に一度しかないNBA観戦の日に、自分の大好きな選手が試合に出ていないとガッカリ感半端ないですよね。
もちろん、NBA選手にとって、ケガは選手生命を縮めることにもつながります。
わたくしリトルも、腰のヘルニアや、捻挫癖と戦ってきましたが、NBA選手ともなると、直接莫大なサラリーに影響するわけですから、問題は深刻です。
今回は、ケガによって、本来の力を発揮できなかった、悲しきNBA選手を3人紹介します。
もし、ケガがなければどんな栄光を勝ちとっていたのか・・・想像しながらお伝えしていきたいと思います。
それではどうぞ。
ケガさえなければ…なNBA選手3選
ケガさえなければ・・・なNBA選手3選
ブラッド・ドアティ(1987-1994)
アンファニー・ハーダウェイ(1994-2008)
グラント・ヒル(1995-2013)
ほかにも、多くの「ケガさえなければ・・・」というNBAスター選手がいると思いますが、今回はNBAを35年間観つづけて来たわたくしリトルが思い入れのある3人を取り上げたいと思います。
3人とも、ケガさえなければNBAの勢力図を大きく変えていたかもしれない選手たちです。
ケガに泣かされた選手①ブラッド・ドアティ
NBAを35年間観つづけてきた、わたくしリトルが「ケガさえなければ・・・」でまず思い出すのが、213㎝のオールラウンドなセンター、ブラッド・ドアティです。
マイケル・ジョーダンが大学3年生の時に、同じノースカロライナ大学にスーパールーキーとして加入。
ジョーダンがNBAに去ったあと、ノースカロライナ大学のエースを引き継いだ選手です。
ブラッド・ドアティ 1986-1994(クリーブランド・キャバリアーズ)
通算 514試合 19.0得点 9.5リバウンド 3.7アシスト
オールNBAチーム(3rd)1回(1991-92)
オールスター出場 5回(1988, 89, 91-93)
1986年のNBAドラフト、1巡目全体1位でクリーブランド・キャバリアーズ(キャブス)に指名されると、同ドラフト2巡目全体25位(当時は23チーム)でマブスが指名し、ドラフト当日にキャブスにトレードされたマーク・プライスと強力なコンビを結成します。
1年目に二人ともオールルーキーファーストチームに選出されると、キャブスを強豪チームへと押し上げる活躍をみせました。
この年、キャブスはロン・ハーパー、ジョン・ホットロッド・ウイリアムスも新人で大活躍をみせ、オールルーキーファーストチームの4人をキャブスの選手が占めるという大躍進。
2年目の1987-88シーズン、ドアティはキャブスが42勝40敗をあげる原動力となり、9シーズン勝ち越しのなかったチームをプレーオフに導きます。
プレーオフ1回戦でマイケル・ジョーダン擁するシカゴ・ブルズに2勝3敗で敗れるものの、ドアティとキャブスの未来は明るいと感じたシーズンでした。
翌1988-89シーズン、キャブスはリーグ2位の57勝25敗をあげ、(同じディビジョンに全体1位のピストンズがいたため)イースタンカンファレンス第3シードでプレーオフに進みます。
対するは第6シードのシカゴ・ブルズ。
前年敗れたブルズに、今回は上位シードの立場で挑んだものの、最終第5戦、マイケル・ジョーダンのハイライトとなる、〝ザ・ショット″で、劇的な逆転負けをくらい、キャブスはジョーダンの引き立て役のイメージがついてしまいました。
ドアティは、強豪チームのオールスターセンターとして、1990-91シーズンから3年連続で平均20得点、10リバウンド以上を記録。
シュート力もあり、パスもうまい、オールラウンドなスキルを持つドアティは、同じ時代に活躍したパトリック・ユーイング、アキーム・オラジュワン、デビッド・ロビンソンらと互角に戦うことのできる、リーグでも数少ないセンタープレイヤーでした。
プライスとのコンビプレーは年々精度を増し、自身は5回のオールスター選出。
誰もがキャブスの明るい未来を想像してた1994年2月、以前から痛みを抱えていた椎間板ヘルニアが悪化し戦列を離れると、再びプレーすることはできませんでした。
ドアティ28歳のシーズンのことです。
その後2年間懸命なリハビリを続けたものの、1996年正式に引退を発表。
溢れる才能と、肉体を誇るオールスタープレイヤーは、わずか8シーズンでNBAを去ることになったのです。
もしも腰を痛めなければ、ドアティの名前はもっと多くの人々に知れわたっていたのかもしれません。
ドアティの背番号43は、マーク・プライスの背番号25と共に、キャブスの永久欠番となっています。
ケガに泣かされた選手②アンファニー・〝ペニー″・ハーダウェイ
かつてまばゆいほどの光を放ち、誰もがNBAの未来を夢みた男、アンファニー・〝ペニー″・ハーダウェイ。
育ての親でもある祖母がつけた〝ペニー″の愛称で知られるハーダウェイは、地元のメンフィス大学で活躍します。
ペニーを一躍有名にしたのが、大学2年生の時に参加した、バルセロナオリンピックに出場する初代ドリームチーム対大学学生選抜の練習試合。
初代ドリームチームについては、説明不要かと思われますが、マジック・ジョンソン、ラリー・バード、マイケル・ジョーダンをはじめ、当時のスーパースター11人と、大学生代表のクリスチャン・レイトナーを加えた12人のスーパースター軍団です。
そして、初代ドリームチーム初めての実戦練習の相手に選ばれた学生選抜には、ペニーをはじめ、クリス・ウェバー、グラント・ヒル、アラン・ヒューストンなど、のちにNBAでも活躍する、スターの卵たちが揃っていました。
初の実戦で20分のミニゲームを行い、なんと学生選抜チームは62対54でドリームチームに勝利してしまったのです。
201㎝と長身のポイントガードとして活躍していたペニーは、マジック・ジョンソンとマッチアップ。
試合後にマジックから、「まるで自分を鏡で見ているようだ。」と最高の誉め言葉をもらったペニーは、マスコミやスカウトから注目を浴びるようになります。
メンフィス大学3年生のシーズン、1試合平均22得点8リバウンド6アシストの成績を残し、NBAドラフトに挑むと、1巡目全体3位でゴールデンステイト・ウォリアーズに指名されます。
アンファニー・ペニー・ハーダウェイ
1993-08(オーランド・マジック フェニックス・サンズ他)
通算 704試合 15.2得点 4.5リバウンド 5.0アシスト
オールNBAチーム 1st 2回(1995,96)
3rd 1回(1997)
オールスター出場 4回(1995-98)
同日、全体1位でオーランド・マジックに指名されたクリス・ウェバーと、トレードされたペニーは、最強のチームメイトとタッグを組むことになります。
前年のNBAドラフト1巡目全体1位でマジックに指名され、ルーキーシーズンから一大旋風を巻き起こしていたシャックことシャキール・オニールです。
最強のセンターシャックをあやつる司令塔として、鮮烈なデビューをかざるものの、オーランドのファンは、シャックとクリス・ウェバーのツインタワーを望んでいました。
ホームコートでもブーイングを浴びせる、心ないファンを、ペニーは実力で見返していきます。
ルーキーシーズンに16.0得点、5.4リバウンド、6.6アシストとオールラウンドな活躍をみせ、オールルーキーファーストチームに選ばれると、2年目の1994-95には、20.9得点、4.4リバウンド、7.2アシストと大ブレイク。
なんとNBA2年目で、数々のスタープレイヤーをおさえ、オールNBAファーストチームに選出されました。
チームも57勝25敗のイースト1位と大躍進します。
プレーオフでは、マイケル・ジョーダンが野球から復帰したばかりのシカゴ・ブルズを倒し、ファイナル進出。
ファイナルでは、アキーム・オラジュワン、クライド・ドレクスラー擁するヒューストン・ロケッツと対決します。
若きマジック有利と予想する人が多かったものの、マジックは0勝4敗で完敗。
ペニーはチャンピオンリングを手にする最大のチャンスを生かすことができませんでした。
翌1995-96シーズン開幕前にシャックがケガで長期離脱。
マジックの低迷を予想する声が多い中、ペニーは2年連続NBAファーストチーム入りする大活躍をみせ、チームを牽引しました。
マジックは60勝22敗、イースタンカンファレンスの第2シードでのプレイオフに進出します。
結果的にはシャックが不在の時に、ペニーが大活躍したことで、2人の間に確執が生まれることになるのですが・・・。
マジックはカンファレンスファイナルまで進みますが、この年から2度目の3連覇を果たすことになるシカゴ・ブルズに4連敗で敗れ去りました。
シーズンを終えると、シャックは「ブライアン・ヒル(ヘッドコーチ)の元では優勝できない。」とレイカーズへ去り、オーランド・マジックはペニーを中心としたチームづくりに舵をきります。
ナイキのCMで、自身の人形〝リトル・ペニー″も話題となり、ペニーの人気はNBAでもトップクラス、ジョーダンの後継者として期待されるようになります。
1996-97シーズン、マジックのフロント、ファンの期待を一身に背負ったペニーでしたが、その後長く苦しめられることとなる、膝のケガで23試合を欠場。
プレーオフでは、1回戦でマイアミ・ヒートを相手に、平均31.0得点と非凡な得点能力を発揮し、輝きを放ったものの、最終第5戦で敗れ、シーズンを終えました。
1997-98シーズンには、ペニーは膝のケガで19試合の出場にとどまり、オーランド・マジックは41勝41敗と奮闘したものの、5シーズンぶりにプレーオフを逃します。
マジックのエースとして期待されながら、欠場を繰り返すペニーに、地元のファンからもブーイングが飛ぶようになり、ペニーは苦しい立場へ追い込まれていきます。
そして1998-99年、ロックアウトによる50試合の短縮シーズン、久しぶりに膝で欠場することなく、全試合出場したペニーでしたが、1試合平均15.8得点、5.8リバウンド、5.3アシストと、ファンが求める、〝絶対的エース″としては物足りない成績でした。
オーランド・マジックは33勝17敗と好成績をあげ、プレーオフに進んだものの、1回戦でアレン・アイバーソン擁するフィラデルフィア・76ersに1勝3敗で一蹴されます。
ペニーは、繰り返す膝の痛みで、ファンが思い描く、「スピードとジャンプ力と創造性あふれる、ワクワクするプレーヤー」のイメージからは、ほど遠い選手となっていました。
当時のマジックのヘッドコーチ、名将チャック・デイリーとの対立もあり、サンズへトレードされ、ジェイソン・キッドとのコンビが話題を集めたものの、その後ペニーが輝きを取り戻すことはありませんでした。
ニューヨーク・ニックス、マイアミ・ヒートでプレーしたぺニーは、2007年12月に解雇され、ユニフォームを脱ぎました。
デビューしてからの3年間で、NBAの頂点まで駆けあがったペニーは、ひっそりとNBAから去っていったのです。
しかし、ペニーの物語はここでは終わりません。
プレーヤーとしての役割を終えたペニーが、次のステージとして選んだのは、「選手を育てる」ことでした。
地元のメンフィス・イースト高校を指揮した後、2018年から母校であるメンフィス大学のヘッドコーチとして、4シーズンで85勝43敗と高い勝率をあげています。
2021-22シーズンには、22勝11敗で、母校を8シーズンぶりのNCAAトーナメントに導きました。
2022年10月13日、メンフィス大学は、アンファニー・〝ペニー″・ハーダウェイ ヘッドコーチと、6年間総額1650万ドル(約24億2450万円)+インセンティブでの契約を結びます。
かつて、NBAの未来を託された男は、現在若きプレイヤーの未来を託されています。
現役時代は、奔放な発言や、わがままな態度から、ヘッドコーチ(ブライアン・ヒル、チャック・デイリーなど)とのトラブルが、頻繁に取り上げられていたペニー。
まさか、あのペニーが優秀なヘッドコーチになるとは、誰も想像していなかったんじゃないでしょうか。
ケガに泣かされた選手③グラント・ヒル
NBAの長い歴史の中で、ただ一人、ルーキーでオールスターファン投票で全体1位となった男、それがグラント・ヒルです。
サラブレッドのような血筋と、圧倒的な身体能力、知的でやさしい笑顔。
トラッシュトークや激しく相手を威圧することが常のNBAの世界では、異質な存在でした。
アンファニー・ペニー・ハーダウェイと同じように、NBAの未来を託されたオールラウンダー、グラント・ヒル。
ケガさえなければ、レブロン・ジェームズのようなキャリアを築きあげていたかもしれなかった男です。
元NFLのスタープレイヤーである父と、のちに大統領夫人となるヒラリー・クリントンのルームメイトである母の間に生まれたグラント・ヒルは、裕福な家庭で育ちます。
高校でバスケ選手として突出した能力を発揮したヒルは、名門デューク大学へ進み、2年連続NCAAトーナメント優勝など、大学最強チームのエースとして注目を集めました。
グラント・ヒル
1994-13(デトロイト・ピストンズ オーランド・マジック他)
通算 1026試合 16.7得点 6.0リバウンド 4.1アシスト
オールNBAチーム 1st 1回(1997)
2nd 4回(1996、1998-00)
NBA新人王 (1995)
オールスター出場 7回(1995-98 2000-01 2005)
バスケットボール殿堂入り (2018)
1994年のNBAドラフト1巡目全体3位でデトロイト・ピストンズに指名されNBA入りすると、1年目から19.9得点、6.4リバウンド、5.0アシストをあげ、ジェイソン・キッドと共に、2人同時のルーキー・オブ・ザ・イヤーに選出されました。
前述したように、ルーキーながら、オールスターファン投票で全体1位の得票を集めるほどの爆発的な人気を誇ったグラント・ヒル。
ヒルのプレーは、とにかく優雅でした。
全身バネのようなアリーウープ、手を抜かないディフェンス、しなやかな身のこなし、ほかの選手にはない独特なスタイルを持った選手でした。
2年目の1995-96シーズン、20.2得点、9.8リバウンド、6.9アシストをあげると、大リーグ挑戦から復帰してきたマイケル・ジョーダンをおさえ、2年連続でオールスターファン投票全体1位の得票数を集めます。
しかし、デトロイト・ピストンズは、46勝36敗で4年ぶりにプレーオフ進出するものの、1回戦でシャキール・オニール、アンファニー・ペニー・ハーダウェイ擁するオーランド・マジックに、0勝3敗でスウィープされてしまいました。
翌1996-97シーズンは、シーズンMVPの投票で、カール・マローン、マイケル・ジョーダンに次いで3位となるインパクトを残し、オールNBAファーストチームに堂々選出されます。
1試合平均21.4得点、9.0リバウンド、7.3アシストとオールラウンドな活躍をみせ、トリプルダブルを13回記録。
ヨキッチや、ドンチッチがトリプルダブルを量産し、ウエストブルックが年間トリプルダブルを達成する現在のバスケでは、ピンとこないかもしれませんが、1996-97シーズン、リーグ全体でトリプルダブルは35回しかありませんでした。
オールラウンドな活躍をみせるヒルが牽引し、ピストンズは54勝28敗と好成績を残すと、イースタンカンファレンス5位でプレーオフ進みます。
1回戦の相手はアトランタ・ホークス。
スティーブ・スミス、ムーキー・ブレイロック、クリスチャン・レイトナー、ディケンベ・ムトンボ擁するホークスと、最終第5戦まで熱戦を繰り広げたものの、2勝3敗で敗れてしまいました。
その後も毎年平均20得点以上を記録し、個人の能力は見せつけるものの、チームはプレーオフに進んでも1回戦を突破できない状況が続き、次第にヒルは「チームを勝たせられないがよい選手」と認識される存在になっていきます。
1999-00シーズンに、ヒルは1試合平均25.8得点を記録するものの、ピストンズは42勝40敗と勝ち星をのばせず、イースタンカンファレンス7位でプレーオフに進出。
1回戦でアロンゾ・モーニング擁するマイアミ・ヒートに0勝3敗とあっさりスウィープされました。
ピストンズでの優勝は無理と判断したヒルは、トレードを希望。
2000年8月に、チャッキー・アトキンス、ベン・ウォーレスとのトレードで、オーランド・マジックに移籍します
この年、オーランド・マジックは、トロント・ラプターズから後に得点王となる、若きトレイシー・マグレディも獲得。
ヒルとマグレディのコンビは、大きな期待を集めました。
しかし、ヒルは開幕4試合目で足首を骨折。
NBAの舞台で、華々しい活躍を続けて来たヒルの、選手生活が一変した瞬間でした。
2000-01シーズンは結局復帰することはなく出場4試合に終わります。
2001-02シーズンは14試合、2002-03シーズンは29試合と、チームへの貢献ができない状態が続き、ファンからのブーイングも聞かれるようになっていきます。
反対にトレイシー・マグレディは期待以上の大活躍をみせ、マジックは完全にマグレディのチームとなりました。
2002-03シーズンから2年連続で得点王となったマグレディ。
しかし、チームは3年連続でプレーオフ1回戦負け。
2003-04シーズンには21勝61敗と低迷し、マグレディはトレードで、ヒューストン・ロケッツに去っていきました。
低迷の理由は、マグレディが得点王狙いで強引に1on1を繰り返したためとも言われています。
2004-05シーズン、リハビリが進み、久しぶりに思い切りプレーできる状態となったグラント・ヒルは、67試合に出場。
1試合平均19.7得点、4.7リバウンド、3.3アシストと見事なカムバックをみせ、オールスターにファン投票で選出。
ファンは、ヒルを見捨てていませんでした。
しかし、マジックはプレーオフに進めず。
翌2005-06シーズンは、腰のヘルニアに悩まされるようになり、ヒルはわずか21試合しか出場できませんでした。
ヒルは腰の手術を決断。
引退も囁かれていました。
しかし、2006-07シーズンに復帰したヒルは、マジックのスターターに復帰。
2004年のNBAドラフト1巡目全体1位でマジックが指名した、エースのドワイト・ハワードを支える、ロールプレイヤーとして堅実なプレーをみせました。
マジックは40勝42敗のイースタンカンファレンス8位でプレーオフに進出。
敵はイースタンカンファレンス1位、グラント・ヒルの古巣デトロイト・ピストンズ。
ヒルのトレード相手だったベン・ウォーレスは、無名のビッグマンから、NBAを代表する守備型ビッグマンへ進化していました。
結果は0勝3敗のスウィープで、マジックは敗れ去ります。
オフにフリーエージェントとなったヒルは、フェニックス・サンズに移籍。
スティーブ・ナッシュを中心としたアップテンポなサンズのスタイルにマッチしたヒルは、有能なベテランロールプレイヤーとして、チームを支えます。
ピストンズ時代のような、圧倒的な身体能力から繰り出すハイライトプレーは観れなくなったものの、懸命にディフェンスをし、確実にシュートを決め、ヒルはチームの勝利のために戦い続けました。
結局フェニックス・サンズで5シーズン、ロサンゼルス・クリッパーズで1シーズンプレーした後、40歳で引退。
腰の痛みと闘いながら、18シーズンに渡る長いNBAでの生活を終えたグラント・ヒルは、2018年にバスケの殿堂入りを果たしています。
ちなみにわたくしリトルのグラント・ヒルのイメージは、〝さわやかなぼっちゃん″と〝FILA″ですね。
当時のNBAにはなかなかいなかった、圧倒的な身体能力、献身性、人間性を持ち合わせた、稀有なプレイヤーでした。
おかげで、ヒルが契約していたFILAのシューズは、ちょっと上品に感じてしまって、小汚い大学生だった自分には手が出せなかったですね。
まとめ
今回は、「ケガさえなければ・・・」なプレイヤーを3名紹介しました。
ブラッド・ドアティ、アンファニー・ハーダウェイ、グラント・ヒル。
3人とも、ケガさせなければ、NBAの勢力図を大きく変えたかもしれない実力者たちです。
この3人以外にも、ブランドン・ロイ(ポートランド・トレイルブレイザーズ)、デリック・ローズ(シカゴ・ブルズ他)など、ケガによって、若くして引退した選手、エースからロールプレイヤーと役割を変えた選手、たくさんのケガに苦しんできたプレーヤーがいます。
願わくば、この「ケガさえなければ・・・」のリストに、圧倒的な能力をもつ、ザイオン・ウイリアムソンが入らないことを望みます。
皆さんもケガには気を付けて、元気にNBAを楽しみましょう!