【歴代高身長選手まとめ①】ウェンバンヤマ超え ボル、ミュアサン、ヤオ・ミン

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毎日熱い戦いが繰り広げられているNBA。

2023ー24シーズン、一番の衝撃は、〝超大型新人″、ビクター・ウェンバンヤマでしょう。

224㎝という規格外のサイズながら、ガードのようなドリブルスキル、パス能力、シュート能力を持つ異次元の才能を発揮しています(3ポイントは、15試合終えた時点で27.5%と厳しい結果になっていますが)。

ウェンバンヤマの凄さは、オフェンスだけでなく、ディフェンスも超一流なこと。

その類まれなる高さと、体に似合わぬスピード・ジャンプ力で、敵のシュートをことごとくブロックしてしまいます。

ゴールデンステイト・ウォリアーズがスモール・ボールで一時代を築き上げ、NBA全体もガード中心のチーム造りが流行していましたが、今年の新人ウェンバンヤマや、ホルムグレン(216㎝)が、リーグの流行を変えてしまうかもしれませんね。

NBAの歴史を振り返ると、ウェンバンヤマを超えるとんでもない長身選手がいます。

今回は、35年間NBAを観つづけてきたわたくしリトルが、実際にこの目でみてきた選手の中で、ウェンバンヤマを超える思い出の高身長選手をまとめてみました。

みんな印象深い選手ばかりです。

当時のことを思い出しながら語ります。

レッツラゴー。

目次

NBA 歴代高身長選手ランキング

まずは歴代高身長ランキングを発表します。

NBAで100試合以上出場した選手の中で、ビクター・ウェンバンヤマ(224㎝)以上の身長を誇る選手のランキングです。

NBA歴代高身長ランキング
1位 231㎝ マヌート・ボル
       ジョージ・ミュアサン
3位 229cm ショーン・ブラッドリー
       ヤオ・ミン
5位 227cm チャック・ネビット
6位 224cm ラルフ・サンプソン
       マーク・イートン
       リック・スミッツ
       ボバン・マリヤノビッチ(現役)  

これまで、NBAで100試合以上出場した224cm以上の高身長選手は9人。

2019-20シーズンから、NBAの登録身長は靴を脱いだ状態で計測するようルール変更があったため、以前の選手は少し低い可能性もありますが、NBAの登録身長なんてサバよみ放題なので、実際のところはわかりません。

ランキングをみて意外だったのは、ソ連&リトアニアの英雄アルビダス・サボニス(ドマンタス・サボニスの父)が入っていないことです。

横幅もあるので、メチャメチャ巨大な印象があったのですが、調べてみると221㎝登録でした。

それでも、十分大きいですけどね(笑)

今回の9人をみると、みんな強烈な印象がある選手ばかりですが・・・

5位のチャック・ネビットだけは、まったく記憶にありません。

1982年のNBAドラフト3巡目全体63位でヒューストンロケッツに指名され、1993-94シーズンスパーズで現役引退(スパーズでは1試合のみ出場)するまで、155試合に出場していますが、1試合平均5.3分出場、平均1.6得点、1.5リバウンド。

当時NHKのBSで放送された試合は全試合チェックし、NBA雑誌も隅から隅まで熟読していたわたくしリトルでも、さすがに覚えていないですね。

ネビットさん、すみません。

前編後編、2回に分けて、チャック・ネビットと、以前記事にしたショーン・ブラッドリーを除く、7 選手について熱く語りたいと思います。

第1回は、1位のマヌート・ボルとジョージ・ミュアサン、そして3位のヤオ・ミンについて語っていきます。

レッツラゴー!

1位 マヌート・ボル 231㎝

1試合でなんと15ブロックしたマヌート・ボル!

マヌート・ボル 231㎝ 91kg
1985年ドラフト2巡目全体31位(ワシントン・ブレッツ)

624試合 2.6得点 4.2リバウンド 0.3アシスト 3.3ブロック FG40.7%

NBAオールディフェンシブ2ndチーム 1986
NBAブロック王 1986 1989

古くからのNBAファンが、「背の高いNBA選手」と聞いて、一番に思い浮かべるのは、〝マヌート・ボル″ではないでしょうか?

そのヒョロヒョロの身体で、相手のシュートをたたき落とす姿は、まさに〝ハエたたき″という言葉がぴったりでした。

NBAの歴史上、唯一通算得点数より、通算ブロック数の方が多い選手です。

ス―ダン南部のディンカ族の酋長の息子という、映画の設定みたいなバックボーンを持つマヌート・ボルは、面白逸話には事欠きません。

ディンカ族は世界一の長身民族と言われていて、マヌートの父親は203㎝、母親は208㎝、曾祖父は240㎝あったそうです(ほんとかい!)。

地味に、お父さんよりお母さんの方が5㎝高いところも気になります。

現在フェニックス・サンズに所属する、息子のボル・ボルは218㎝ 100㎏ですから、ディンカ族としては、そんなに大きい方ではないのかもしれませんね。

ちなみに、マヌート・ボルの誕生日は1962年10月16日とされていますが、スーダンから渡米した際に適当につけられたもので、ボルや両親含め、誰も本当の誕生日を知らないそうです。

ライオンを槍で仕留めていたなど、ほんとかどうかわかりませんが、数々の逸話を76ers時代のチームメイト、チャールズ・バークレーにいつもいじられていました(笑)。

マヌート・ボル NBAデビュー~引退

マヌート・ボルは、ワシントン・ブレッツ(現ウィザーズ)でのルーキーシーズン、いきなり1試合平均5.0ブロックを記録し、オールNBAディフェンシブ2ndチームに選出される活躍をみせます。

惜しくも受賞はなりませんでしたが、最優秀守備選手賞の投票で、2番目に票を集めたボル。

圧倒的な高さを武器に、NBAでの未来は明るいかと思われましたが、ブロックショット以外の能力・スキルがあまりに低く、3年目のシーズンを終えたあと、ボルはゴールデンステイト・ウォリアーズに放出されてしまいます。

ウォリアーズでは、突然3ポイントシュートに目覚めたボルでしたが、その確率は22.0%と、有効とは言えないものでした。

それでも、私たちファンは、ボルの見たことないようなフォームから繰り出される、まったく回転のない3ポイントシュートに熱狂しましたね。

ウォリアーズの後に所属した76ers時代、1試合6本の3ポイントシュートを決めたことは、大きな話題になりました。

しかも、対戦相手は前年まで76ersに所属していたチャールズ・バークレーが加入し、リーグ1位の勝率をほこっていたフェニックス・サンズ。

6本目の3ポイントが決まった時のバークレーのガックリ具合と、その後のボルとのハイタッチが、なんともほっこりさせてくれます。

マヌート・ボル 引退後

マヌート・ボルは、NBAの世界で記録よりも記憶に残る活躍をみせてくれましたが、引退後の活躍はもっと大きなものでした。

現役時代から母国スーダンの平和のため私財を投じていたマヌート・ボルは、引退後本格的に平和活動を開始します。

当時のスーダンは宗教をめぐる内乱が起こり、数百万人に及ぶ犠牲者を出していました。

難民救済や奴隷解放の財団を設立し、祖国のために尽くしたボルでしたが、ディンカ族がキリスト教を信仰していたため、イスラム教への改宗を政府から迫られるなどし、自身も危険な目にあったため、2002年にアメリカへ脱出。

アメリカに移ったボルは、母国スーダンの内戦による悲惨な状況を世界に伝えるため、啓蒙活動に全力をつくします。

スーダン難民の援助団体を設立し、自身がNBAで稼いだ財産をすべて注ぎこんだボルは、スーダン難民への寄付を放送で促すことを条件に、有名人のボクシング大会に出場したり、競馬のジョッキーとしてレースに参加したり、様々な取り組みを行いました。

かつてのチームメイトだったチャールズ・バークレーは、「不幸な人たちのために金を使う人間が英雄でなかったら、他に英雄と呼べる人間はいないだろう。」とボルを称えるコメントを残しています。

バスケットボール選手として、そして母国スーダンの人権問題に取り組む活動家として、大きな足跡を残したボルは、2010年6月19日、腎不全のため47年(実際は何歳か不明ですが)の短い人生を終えました。

マヌート・ボルの葬儀は、スーダンの国葬として、多くの人に惜しまれながらとり行われています。

マヌート・ボル 最高のプレー

マヌート・ボルのプレーで、最も強烈に残っているのは、76ers時代のオーランド・マジック戦で飛び出したこのプレー。

なんと5秒間で4ブロック!

マヌート・ボルのNBAでのハイライトといって間違いないでしょう。

記録よりも記憶に残るNBA選手、ナンバー1かもしれませんね。

1位 ジョージ・ミュアサン 231㎝

ジョージ・ミュアサン 231㎝ 153kg
1993年ドラフト2巡目全体30位(ワシントン・ブレッツ)

307試合 9.8得点 6.4リバウンド 0.5アシスト 1.5ブロック FG57.3%

MIP賞(最成長選手賞) 1996
NBAフィールドゴール成功率1位×2回 1996 97

NBAの歴史上、最も背の高い選手は231㎝のマヌート・ボルとジョージ・ミュアサン。

2人に共通するのは、どちらもドラフト2巡目でワシントン・ブレッツ(現ワシントン・ウィザーズ)に指名されたことです。

ミュアサンがドラフトで指名された当時は、「ブレッツのフロントは、客集めのために231㎝をまた指名した」と、好意的ではない記事もみかけましたね。

1985年のドラフトで231㎝でNBA歴代最高身長のマヌート・ボルを、1987年のドラフトでは160㎝で歴代最低身長のタイロン・〝マグジー″・ボーグスを指名していたブレッツですから、本当に話題作りだった可能性もありますが。

ジョージ・ミュアサン NBAデビュー~引退

ルーマニアで生まれたミュアサン。

父親は175㎝、母親は170㎝と、ごく普通の身長でした。

小児期に成長ホルモンが過剰につくられる「巨人症」と診断されたミュアサンは、その類まれなる巨体を武器に、フランスのプロリーグで活躍し、1993年のNBAドラフト2巡目全体30位でワシントン・ブレッツに指名されます。

1年目はケガもあり、54試合の出場、平均5.6得点 3.6リバウンド 0.9ブロックにとどまりますが、2年目には73試合に出場。

58試合に先発し、平均10.0得点 6.7リバウンド 1.7ブロックと期待以上の活躍をみせました。

そして3年目の1995-96シーズン、ミュアサンは出場した試合、すべてで先発出場。

82試合中76試合に出場し、平均14.5得点 9.6リバウンド 2.3ブロックと、一流センター並みのスタッツを残し、見事MIP賞(最成長選手賞)を受賞します。

マヌート・ボルは231㎝の高さをブロック・ショットに生かしましたが、ミュアサンはゴール下でのシュートに生かしました。

フィールドゴールの成功率は58.4%で、NBA1位。

大きな飛躍を遂げたミュアサンでしたが、翌1996-97シーズンは平均10.6得点 6.6リバウンド 1.3ブロックとスタッツを落とします。

それでも自己最高の60.4%と、2年連続NBA1位のフィールドゴール成功率を記録し、まだまだ成長できると多くの期待を集めていたミュアサンでしたが、バスケ人生の終焉は突然にやってきました。

膝と背中のケガで1997-98シーズンを全休すると、翌シーズンも1試合しか出場できず。

1999-00シーズン、ニュージャージー・ネッツ(現ブルックリン・ネッツ)で30試合に出場したものの平均3.5得点 2.3リバウンドと、ケガ前の状態に戻ることはありませんでした。

231㎝ 153㎏の巨体を支えてきた膝の状態は、NBAで闘うレベルに戻ることはなかったのです。

ジョージ・ミュアサン 引退後

2000年にNBAを去ったジョージ・ミュアサンの姿を、久しぶりに目にしたのは昨年のジャパンゲームズ。

ワシントン・ウィザーズのレジェンドとして、ドリュー・グッデン、アントワン・ジェイミソンとともにさいたまスーパーアリーナに登場したミュアサンは、優しい笑顔とお辞儀で、元気な姿をみせてくれました。

現在ワシントンD.C.でバスケットボールアカデミーを経営し、未来のスターを育成しているミュアサンは、ウィザーズのスタッフとしても活躍しているとのこと。

ケガで満足な選手生活ではなかったと思いますが、ジャパンゲームズでの笑顔は、ミュアサンが現在幸せな人生を歩んでいることをあらわしていましたね。

3位 ヤオ・ミン 229㎝

ヤオ・ミン 229㎝ 140kg
2002年ドラフト1巡目全体1位(ヒューストン・ロケッツ)

486試合 19.0得点 9.2リバウンド 1.6アシスト 1.9ブロック FG52.4%

オールNBA2ndチーム×2回 2007 09
オールNBA3rdチーム×3回 2004 06 08
NBAオールスター選出×8回 2003 -09 11
ヒューストンロケッツ永久欠番 11
バスケの殿堂入り 2016

ヤオ・ミンは、今回の高身長ランキングに上がった9人の中で、最も成功をおさめた選手と言えるでしょう。

229㎝ 140kgの巨体からは想像できないテクニックとスピードを持ち、柔らかなシュートと迫力のあるダンクで得点を量産していました。

残念なのは、やはりケガの多さでしたね。

もし、ヤオ・ミンのケガがなければ・・・。

ロケッツでチームメイトとなったトレイシー・マグレディもケガがなければ・・・。

NBAの勢力図は、大きく変わっていたかもしれません。

ヤオ・ミンとT-MACが、自由自在に走りまわるプレーオフでの戦いをみてみたかったなあ。

ヤオ・ミン 誕生~NBA入り

ヤオ・ミンはバスケットボール選手として活躍した両親の元に生まれました。

父は208㎝、母は188㎝。

特に母親は中国代表チームでプレーしたエリートプレイヤーでした。

9歳でバスケットボールを始めたヤオ・ミンは13歳の頃には2mを超える身長となり、17歳で中国のプロチーム「上海シャークス」と契約、プロ選手となります。

上海シャークスでは5シーズンプレー。

圧倒的な活躍で上海シャークスを優勝に導き、自身もMVPに輝くと、ようやくNBA挑戦の夢をチームに認めてもらえました。

2002年のNBAドラフト、アジア人初の1巡目全体1位でヒューストン・ロケッツに指名されたヤオ・ミン。

当時のコミッショナー、デビッド・スターンがヤオ・ミンの名前を読み上げた瞬間、会場に響き渡ったブーイングは、同じアジア人として、心が痛かったですね。

それまでアジア人がNBAで活躍した例はなかった上、229㎝のわりにウイングスパン(両腕を横に広げた時の指先から指先までの長さ)が短い(身長と同じ229㎝)ことも、懸念されていました。

NBAでは、ウイングスパンが異常に長い選手がたくさんいますからね。

身長231㎝のマヌート・ボルはウイングスパン259㎝と言われていますし、現役でいえば、カワイ・レナードは身長201㎝に対して、ウイングスパンは221㎝です。

リバウンドやブロックショットで、手が短いことは大きなハンデになると思われたのです。

ヤオ・ミン NBAルーキーシーズン

NBAデビューとなったインディアナ・ペイサーズ戦は、ベンチから出場。

10分36秒の出場で、0得点2リバウンドと、不安なスタートを切ります。

2試合目にNBA初得点を決めたものの2得点に終わりますが、3試合目は8得点を記録。

4試合目は再び無得点に終わるなど、早くもドラフト失敗の烙印を押されかかっていました。

同じアジア人として応援していたわたくしリトルも、「やっぱりNBAの壁は高いか・・・」と、ヤオ・ミンの活躍を、あきらめかけていましたね。

しかし8試合目のレイカーズ戦で、ベンチから出場し20得点する活躍をみせます。

ヤオ・ミンの前に立ちはだかるはずだったシャックが欠場したレイカーズ戦で、ヤオ・ミンはやっと自身のもつポテンシャルを、ファンに見せつけたのです。

そして10試合目のダラス・マーベリックス戦で、ついにヤオ・ミンの才能が爆発します。

スティーブ・ナッシュ、ダーク・ノビツキー擁するダラス・マーベリックスに、チームは90-103と完敗したものの、ベンチから出場したヤオ・ミンは、30得点 16リバウンド 2ブロックと、支配的な活躍をみせたのです。

ちなみに、マッチアップしたマーベリックスのセンターは、同じ229㎝のショーン・ブラッドリーでした。

マーベリックス戦の活躍で、先発センターの座を勝ちとったヤオ・ミンはその後コンスタントに2ケタ得点を記録。

2月14日に開催されたオールスターにも、ファン投票で選出されます(まあ、中国国民がついていますからね)。

マイケル・ジョーダンのラストオールスターということもあり、注目を集めた試合で、ヤオ・ミンは2得点に終わったものの、ルーキーながらインパクトを残しました。

そして運命の2月17日、2回目のレイカーズ戦。

ついに当時のナンバー1センター、シャキール・オニールとの初対決。

この試合はアメリカだけでなく、中国全土でも生中継される注目の一戦となりました。

試合は、ヤオがシャックのシュートを2本連続ブロックするところから始まります。

しかし徐々に実力の違いをみせつけるシャック。

2人のスタッツは・・・

シャック  31得点 13リバウンド 4アシスト 0ブロック FG50.0%
ヤオ・ミン 10得点 7リバウンド 3アシスト 6ブロック FG35.7%

スタッツではシャックに完敗したものの、オーバータイムにもつれ込んだ熱戦を、ロケッツの勝利に導いたのは、ヤオ・ミンのシュートでした。

注目のセンター対決を経て、ヤオ・ミンの注目度は一気に上がりました。

結局NBA1年目はプレーオフに進むことはできなかったものの、43勝39敗と前年(28勝54敗)から大きく勝ち星を伸ばし、ヒューストンのファンに希望を与えました。

1年目のスタッツは、13.5得点 8.2リバウンド 1.7アシスト 1.8ブロック FG49.8%。

ルーキー・オブ・ザ・イヤーの投票では、アマレ・スタウダマイアーに敗れ2位に終わったものの、オール・ルーキーチームに選出されました。

ヤオ・ミン T-MACとの出会い

2年目の2003-04シーズン、ヤオ・ミンは17.5得点 9.0リバウンドと活躍し、ロケッツを5年ぶりのプレーオフ進出に貢献します。

1回戦でレイカーズに敗れたものの、ロケッツのフロントは「ヤオ・ミンにもう一人スター選手を加えれば優勝を狙える」と考え、当時2年連続得点王だったトレイシー・マグレディ(T-MAC)をスティーブ・フランシスらとのトレードで獲得。

迎えた2004-05シーズン、ヤオ・ミンは80試合に先発出場し、1試合平均18.3得点 8.4リバウンド2.0ブロック FG55.2%とインサイドでより存在感を発揮。

コンビを組むトレイシー・マグレディも、1試合平均25.7得点 6.2リバウンド 5.7アシスト 1.7スティール FG43.1%と、アウトサイドで圧倒的な得点力をみせつけました。

ロケッツは51勝31敗、ウエスタンカンファレンス第5シードでプレーオフに進みます。

1回戦でダラス・マーベリックス相手に、マグレディが1試合平均30.7得点、ヤオが平均21.4得点をあげる活躍をみせたものの、3勝4敗で惜しくも敗れます。

ヒューストンのファンは、「ヤオ・ミンとT-MACがいれば、この先毎年優勝争いすることは間違いない」と思ったでしょう。

それほど、インパクトのあるコンビでした。

しかし、ここから2人はケガによって苦しんでいくのです。

ヤオ・ミン ケガとの戦い~引退

4年目の2005-06シーズン、ヤオは1試合平均22.3得点10.2リバウンドと、初めてダブルダブルの成績を残したものの、左足の親指を手術し、57試合の出場にとどまります。

相棒のマグレディもケガで47試合の出場にとどまり、ロケッツは34勝48敗と負け越し、プレーオフを逃しました。

5年目の2006-07シーズン、ヤオは1試合平均25.0得点と自己最高の平均得点を記録したものの、右膝の骨折によって48試合しか出場できず。

チームはプレーオフに進みますが、1回戦でユタ・ジャズ相手に敗退。

6年目の2007-08シーズン、ロケッツは驚異の22連勝を記録するのですが、連勝中にヤオは左足の疲労骨折でシーズン全休となってしまいます。

大黒柱を失ったロケッツは55勝27敗、第5シードでプレーオフに出場しますが、またもや1回戦でユタ・ジャズに敗れ去りました。

そして、実質ヤオ・ミンのラストシーズンとなった2008-09シーズン。

ヤオは4シーズンぶりに大きなケガなく77試合に出場し、1試合平均19.7得点 9.9リバウンド1.9ブロック FG54.8%と活躍します。

しかし相棒のマグレディは2月に左膝の手術を行い、35試合の出場でシーズン絶望。

それでもこのシーズンに加入したロン・アーテスト(2011メッタ・ワールド・ピースに改名)の平均17.1得点を記録する活躍もあり、53勝29敗ウエスト第5シードでプレーオフに進出。

1回戦ではポートランド・トレイルブレイザーズを4勝2敗で破り、ついにヤオ・ミンは初めてカンファレンスセミファイナルに進出。

敵は第1シードのロサンゼルス・レイカーズでした。

ヤオは第1戦で28得点 10リバウンド 2ブロックを記録し、レイカーズのセンター、アンドリュー・バイナムを圧倒。

優勝候補筆頭、レイカーズのホームコートで勝利を奪う、最高のスタートを切ります。

第2戦はレイカーズが意地をみせ、迎えた第3戦。

ヤオは39分50秒出場し、19得点 14リバウンド 2ブロックと奮闘しますが、94-108でレイカーズに2敗目を喫します。

すると試合終了後に、衝撃のニュースが飛び込んできました。

「ヤオ・ミンが左足骨折のため離脱」。

あまりにも悲しいニュースに、ロケッツファンは悲しみに打ちのめされます。

しかしそれでもロケッツは、ロン・アーテスト、シェーン・バティエ、アーロン・ブルックス、ルイス・スコラら、残されたメンバーが奮起し、最終第7戦まで持ち込む大健闘。

残念ながら、この年チャンピオンとなるレイカーズに敗れたものの、プレーオフで最もレイカーズを苦しめたチームとなりました。

もし、ヤオ・ミンが最終戦まで健康体で戦えていたら・・・。

もし、トレイシー・マグレディのケガがなかったら・・・。

考えても無駄だとはわかっていても、考えずにはいられません。

ヤオ・ミンは翌2009-10シーズン左足の手術を行い全休。

2010-11シーズンに復活を期したヤオでしたが、5試合の出場でまたも疲労骨折のため離脱。

シーズン終了後に、ついにNBA引退を発表しました。

229㎝、140㎏の巨体は、足に大きなダメージを与え続けていましたね。

9シーズンの現役生活の中、最後の2シーズンは、シーズン全休と、5試合の出場に終わっています。

短い選手人生でしたが、アジア人でもNBAで活躍できることを初めてプレーで示してくれたヤオ・ミン。

現在NBAでプレーする、渡邊雄太選手や八村塁選手にとっても、ヤオ・ミンは特別な存在だと思います。

ヤオ・ミン 引退後

ヤオ・ミンは、今回取り上げたマヌート・ボルやジョージ・ミュアサンと同じく、引退後も活発な動きをみせます。

2009年に自身がプロデビューした上海シャークスを買収していましたが、引退後は中国プロバスケットボールリーグ(CBA)の会長に就任し、リーグの改革に着手。

2014年にヤオ・ミンはNBAと共同で中国にバスケットボールスクールを開校し、少年・少女にバスケのプレーだけでなく、リーダーシップやコミュニケーションの大切さも教えています。

2016年には、バスケの殿堂入りも果たしました。

2017年には中国バスケットボール協会の会長にも就任。

また、野生動物の保護活動にも熱心で、象牙の狩猟に反対したり、「フカヒレを食べるのをやめよう」という広告に登場し、中国で大きな話題をまきおこしたりもしました。

バスケのプレーでも、中国に大きな希望を与えましたが、引退後の活動も中国の発展のため、動物保護のために全身全霊で取り組んでいます。

まとめ

今回は、NBAの歴史上最も背の高かった3選手、マヌート・ボル、ジョージ・ミュアサン、ヤオ・ミンをとりあげました。

背の高い人は真面目なんでしょうか?

NBA選手は引退後自堕落な生活を続け、破産することが多いのですが、3人ともしっかりと母国のためや、未来のある子供たちのために、投資をしています。

子供のころから注目を集める存在なので、しっかりするんでしょうか?

人間としても魅力的で尊敬できる3人の選手達は、記憶に残る、偉大な選手達でした。

もちろん、もう一人の229㎝、ショーン・ブラッドリーも素晴らしい選手でしたよ。

次回は、ビクター・ウェンバンヤマと同じ224㎝の選手たちを語っていきたいと思います。

お楽しみに!

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