ちょっとドキドキが止まりません。
NBAファン歴33年のリトルです。
何気なくyahooニュースを見てたら、驚くべきニュースが目に飛びこんできました。
あの世界一有名なニックスファンと言われるスパイク・リー監督が、90年代の激熱カチカチゴリマッチョのニューヨーク・ニックスを題材に映画を撮るというじゃありませんか。
NBAを題材とした映画というだけで激熱です。
しかも、90年代のドラマチックなニックスを毎試合コートサイドで熱狂的に応援していた、スパイク・リーがつくるというのです。
考えただけで震えます。
スパイク・リーが手がける ニックスを題材とした映画とは
ニューヨークの地元紙「ニューヨーク・デイリーニュース」のステファン・ボンディ記者が伝えるところによると、90年代のニューヨーク・ニックスについて綴ったクリス・へリングの著書「Blood in the Garden」を原作に、スパイク・リーが映画を製作することが決定したそうです。
「Blood in the Garden」は、バスケ大好きオバマ元大統領が、自身の公式Twitterに投稿した「2022年夏に読むべき本のリスト」で紹介しているNBAファン必読の書とのこと。
残念ながら英語は「モクモク村のけんちゃん」程度しかできない(わからない方すみません)僕は、とにかく映画を楽しみに待ちたいと思います。
公開日は未定です。
また一つ、生きる楽しみがみつかりました。
世界一有名なニックスファン スパイク・リー
現在、長い低迷期から抜け出せずにいるニューヨーク・ニックス。
2021-22シーズンは37勝45敗 イースタンカンファレンス11位と、昨年よりも順位を落としてしまいました。
NBA情報誌ダンクシュート6月号の、チーム通信簿では20点と、散々な評価を受けています。
勝てないニックス。
それでもマジソン・スクエアガーデンのコートサイドには、スパイク・リーがいる。
相手チームに大声で野次をとばし、ニックスの選手がダンクを決めると子供のように飛び回るスパイク・リーの姿は、30年以上前から変わっていません。
スパイク・リーは以前のインタビューで、いつからマジソン・スクエアガーデンに通っているのか聞かれ「親父に連れられて1967年か68年から」と答えています。
スパイク・リーの本業は、もちろん映画監督です。
「ドゥ・ザ・ライト・シング」や「マルコムX」、「ブラック・クランズマン」など数々のヒット作をてがけ、カンヌ国際映画祭のグランプリ、アカデミー賞の脚色賞受賞など、世界中で評価されている名監督スパイク・リー。
子供のように情熱的にニックスを応援している、世界的な名映画監督が、一番ドラマチックで盛り上がっていた90年代ニックスの映画を撮ったら、面白くないわけがないじゃないですか!
映画の主役 90年代ニックスのメンバー
90年代のニューヨーク・ニックスの象徴といえば、間違いなくパトリック・ユーイングです。
ジョージタウン大学のエースとしてNCAAトーナメント優勝。
ジョーダンらと共にロサンゼルスオリンピックで金メダル獲得など、アマチュアで数々の栄光を勝ち取ったユーイングは、1985年のNBAドラフト全体1位でニューヨーク・ニックスに指名されます。
そのルックスと、ニューヨークというチームから、キングコングの異名を持つユーイングは、イメージとは違い知的でおとなしい性格の選手でした。
やや闘志にかけるユーイングが率いるチームは、80年代後半はプレイオフに出ても1回戦負けが精いっぱいの状況。
しかし、90年代ニックスの核となる選手を少しづつ獲得していきました。
1987年のドラフトで、ポイント・ガードのマーク・ジャクソン。
1988年には屈強な肉体でゴール下を守り、ブルズ在籍時はジョーダンのボディガードと呼ばれたチャールズ・オークリー。
そして1990年には、NBAの下部組織であるCBAから、シューティングガードのジョン・スタークスを発掘します。
誰にも期待されていなかったスタークスは、90年代のニックスにとって欠かせないムードメーカーに成長していきました。
1991年には、NBAではほとんど試合に出られず、NBAレベルにないと思われていたアンソニー・メイソンと契約。
筋骨隆々のメイソンは、後にディフェンスで能力を発揮し、1995年にはNBAシックスマン賞を受賞するまでになります。
1991年にヘッドコーチにパット・ライリーを迎え、いわゆる「90年代のニックス」は始まります。
80年代のロサンゼルスレイカーズを4度の優勝に導いた若き名将は、マジック・ジョンソンを中心に、ショータイムレイカーズと言われる速攻主体の華やかなバスケで一時代を築きました。
しかし、ニックスでは周囲の予想を覆し、ゴリゴリのディフェンスチームを作り上げるのです。
映画でとりあげられそうなポイント
パトリック・ユーイングを中心とし、ディフェンスに特化したニューヨーク・ニックスは、90年代に様々なドラマをつくってきました。
私リトルが、映画でとりあげられそうなポイントを、いくつか予想してみたいと思います。
1992-93 カンファレンスファイナル 対ブルズ スタークスのザ・ダンク
1992―93シーズンはニックスにとって飛躍のシーズンとなりました。
60勝22敗と、シカゴ・ブルズ(57勝25敗)を抑えイースタンカンファレンス首位でプレイオフに突入。
カンファレンスファイナルで、3連覇を狙う王者シカゴ・ブルズと対戦します。
このシリーズの主役はジョン・スタークスでした。
スタークスの25得点の活躍もあり、初戦ニックス勝利し。
迎えた第2戦。
第4クオーター試合時間1分を切り、ニックスが3点リード。
ボールを持つのはスタークス。
スタークスはコートの右45度からワンフェイクでディフェンスを置き去りにすると、鋭いカットインから、思い切り飛び上がる。
慌ててブロックの手を伸ばすホーレス・グラントとカバーに入ったマイケル・ジョーダン。
二人のはるか上空で、スタークスは利き手ではない左手で、ダンクを叩き込んだ時、残り47.3秒。
5点のリードを奪ったニックスは、第2戦も勝利しました。
スタークスのザ・ダンクが決まった時、寮の4畳半で寝っ転がって試合を観ていた僕は、思いっきり立ち上がって声をあげたのを覚えています。
ブルズを応援していた僕も、大興奮の一発でした。
ホームで2連勝のあと、ブルズに4連敗し、このシリーズ敗退となるのですが、ニックスの魅力あふれるシリーズでした。
1993-94 NBAファイナル 対ロケッツ スタークスの栄光と悪夢
マイケル・ジョーダンが1度目の引退をし、野球に挑戦していたこの年。
ニックスは是が非でも優勝するために、ダラス・マーベリックスからベテランガードで守備に定評のあるデレック・ハーパーをトレードで獲得します。
レギュラーシーズンを57勝25敗と、アトランタ・ホークスと同率で終えると、プレイオフに第2シードで突入。
ファーストラウンド、3勝1敗でネッツを破ると、その後シカゴ・ブルズ、インディアナ・ペイサーズと、ともに第7戦までもつれ込む激闘を制し、ついにNBAファイナルの舞台にたどりつきました。
ウエスタンカンファレンスを勝ち抜いたのはヒューストン・ロケッツ。
NCAA決勝で闘った宿敵、アキーム・オラジュワン擁するヒューストン・ロケッツでした。
ロケッツはシーズン58勝24敗。
1勝の差でロケッツがホームコートアドバンテージを持っていました。
これまで、調子の波の大きさが話題となっていたジョン・スタークスは、ファイナルでは順調に活躍していました。
ゲーム6を終えて1試合平均19.3得点 6.5アシスト。
得意の守備でも、ロケッツのガード陣を苦しめていました。
そして、運命のゲーム7。
スタークスを待っていたのは栄光ではなく、悪夢でした。
放った3ポイントシュート11本はすべてミス。
フィールドゴールの成功は、18本中わずか2本。
84対94で敗れる戦犯となってしまいました。
1994-95 NBAカンファレンスセミファイナル 対ペイサーズ ミラータイム
1994―95シーズンも、ガチガチのディフェンスを武器としてニックは55勝27敗、第3シードでプレイオフに進みます。
キャブスを倒し、カンファレンスセミファイナルで戦うのは、No1シューター、レジー・ミラー擁するインディアナ・ペイサーズ。
実は前年のカンファレンス決勝で対戦していた時に、ニックスはレジー・ミラーの恐ろしさを見せつけられていました。
1993―94カンファレンスファイナル第5戦。
ニックスのホーム、マジソン・スクエアガーデンで、第4クオーターの12分間だけでレジー・ミラー一人に25得点をあげられたのです。
1試合合計39得点。
ニックスはこの試合86対93で敗れました。
辛くも第7戦で勝利し、ファイナルへ進みましたが、ミラータイムの恐ろしさを見せつけられていました。
ミラータイムは突然始まりました。
第1戦、本拠地マジソン・スクエアガーデンで残り時間16.4秒。
ニューヨーク・ニックスが105対99と6点をリード。
誰もがニックスの勝利を確信していた中、まずミラーが3ポイントシュートを決めます。
ニックスのアンソニー・メイソンが慌ててインバウンドパスを入れた相手は敵のミラー。
ボールを受け取ったミラーは躊躇なくゴールと反対にドリブルを1つつくと、3ポイントラインの外に出て、振り向きざまに3ポイントシュートを放ち、ゴールの中心を射抜きました。
一瞬で105-105の同点。
すぐにスタークスがファウルを受け、フリースロー2本を獲得。
残り時間は13.2秒。
緊張の中、スタークスはフリースローを2本ともミス。
リバウンドをユーイングが拾いますが、フェイダウェイぎみに打ったジャンプシュートはネットを通過することなく、リバウンドはレジー・ミラーの手に。
ファールを受けたミラーはきっちりと2本のフリースローを決め、最終スコア105対107でニックスは初戦を落としました。
結局3勝4敗でインディアナ・ペイサーズに敗れ、レジー・ミラーの伝説だけが現代まで語り継がれています。
1996-97 パット・ライリー率いるマイアミ・ヒートとの大乱闘
1996シーズン前に、デトロイト・ピストンズからアラン・ヒューストン、シャーロット・ホーネッツからラリー・ジョンソンと二人のスターを獲得します。
選手の変化はありましたが、もっと大きな変化がありました。
1995年のオフに、ニックスを強豪に押し上げたヘッドコーチのパット・ライリーがニックスを離れ、ライバルチームのマイアミ・ヒートのヘッドコーチ兼球団社長に就任したのです。
突然の裏切りにファンは怒りました。
人事権を任されたライリーは、アロンゾ・モーニング、ティム・ハーダウェイという二人のオールスタープレイヤーをヒートに加え、ニックスの時と同様に、強力なディフェンスチームを作り上げます。
因縁の2チームが激突したのは、カンファレンスセミファイナル。
ディフェンスを武器として肉弾戦を挑むチーム同士の戦いは、4戦目までを終えて3勝1敗とニックスがリード。
すべて90点以下のロースコアゲームが続きました。
しかし、第5戦に大事件が起こります。
第4クオーター残り2分。
12点のリードを許す展開に、イライラが募ったニックスの用心棒、チャールズ・オークリーがアロンゾ・モーニングに対しての2回目のテクニカルファウルを宣告され退場。
ニックスのヘッドコーチ、ジェフ・バンガンディは試合をあきらめ、主力をベンチに下げます。
荒れた雰囲気の中、ティム・ハーダウェイがフリースローを打ったその時、大学時代アメフトで有名選手だったニックスのチャーリー・ウォードが、リバウンドに入ろうとしたPJ.ブラウンにタックルをかましたのです。
筋骨隆々のブラウンは、ウォードを持ち上げ、投げ捨て、大乱闘。
この乱闘に加わったPJ.ブラウン(2試合)、チャーリー・ウォード(1試合)と、ジョン・スタークス(1試合)に、まず出場停止が言い渡されます。
その上、「乱闘の際にベンチにいる選手はベンチを離れてはいけない」というルールがニックスを窮地におとしいれました。
乱闘を止めに入ったパトリック・ユーイング、アラン・ヒューストン、ラリー・ジョンソンというチームの主力3人が、それぞれ1試合の出場停止を言い渡されたのです。
必死で乱闘を止めに入ったニックスの選手と対照的に、ヒートの選手は誰もベンチから出ることはありませんでした。
一説では、百戦錬磨のパット・ライリーが選手に指示を出していたとも言われており、遺恨を残しています。
結局勢いを失ったニックスは、3連敗でシリーズ敗退となります。
主力をベンチに下げていなければ、ユーイング、ヒューストン、ジョンソンの出場停止がなかったかと思うと、悔やんでも悔やみきれない試合となりました。
まとめ
今回は、スパイク・リーが90年代ニックスを題材に映画を製作するというニュースをもとに、ニックスの映画になりそうなシーンをまとめてみました。
今回あげたシーンのほかにも、1997-98年プレイオフ1回戦第4戦対ヒート戦で起きた、ラリー・ジョンソンとアロンゾ・モーニングのパンチの応酬、1998-99年第8シードからファイナルまで駆け上ったミラクルニックスなど、映画に取り上げられそうな名場面はたくさんあります。
シカゴ・ブルズが王朝を築き上げた1990年代。
ある意味裏の主役は、ニューヨーク・ニックスだったと改めて感じました。
現代のスタイリッシュな美しいバスケも楽しいですが、当時のニックスのような肉弾戦も、本当に興奮させられました。
なにはともあれ、世界一ニックスを愛した、そして今も愛しているスパイク・リー監督が、どんな映画をつくるのか?
どのシーンを取り上げるのか?
楽しみに待ちたいと思います。
そういえば、当時のフィルムを切り取って映画にするつもりで予想を書いていましたが、まさか俳優が演じるタイプじゃないですよねえ。
スタークスはまだわかりますが、ユーイングやアンソニー・メイソンを演じられる俳優いませんよねえ。
まさかねえ。