「NBAの歴史上最高のダンカーは、ビンス・カーター」
この意見に異論をとなえる人は、少ないかと思います。
数々の印象的なゲームタイムダンクに加え、2000年のスラムダンクコンテストでみせた、逆回転の360度ウインドミルダンク。
ジュリアス・アービングやマイケル・ジョーダンがダンクに美しさを加えましたが、カーターはさらにパワーと芸術性を高め、世界中のファンを夢中にしました。
NBAで一時代を築いたダンク王がつけていた背番号15は、今年ブルックリン・ネッツ(当時ニュージャージー・ネッツ)とトロント・ラプターズから永久欠番に指定されています。
引退から4年を経過し、バスケの殿堂入りも果たしたカーター。
今回は、数々のドラマがあった、ビンス・カーターの現役時代を語っていきたいと思います。
レッツラゴー!
ビンス・カーター 基本情報
ビンス・カーター基本情報
生年月日 1977年1月26日生まれ
出身地 フロリダ州デイトナビーチ
身長 198㎝
体重 100㎏
ポジション SG/SF
高校 メインランド高校
大学 ノースカロライナ大学
NBAドラフト 1巡目全体5位
受賞歴
NBAオールスター×8(2000-07)
オールNBA2ndチーム(2001)
オールNBA3rdチーム(2000)
NBA新人王(1999)
NBAスラムダンクコンテスト優勝(2000)
ブルックリン・ネッツ永久欠番
トロント・ラプターズ永久欠番
史上最高のダンカー、ビンス・カーター。
「Half Man, Half Amazing」(半分人間、半分は驚き)、「ビンサニティー」(ビンス+インサニティー【狂気じみた】)などの異名をもつスーパースターは、超人的な跳躍力とボディバランスで、信じられないようなダンクを次々とたたきこみ、世界中を熱狂させてきました。
ただ、アクロバットなプレーを連発し、チームのエースとして活躍するカーターの姿は、彼の一面にすぎません。
カーターの一番のすごさは、自分の衰えを認め、プレースタイルを変化させながらチームに貢献し続けたことですね。
身体能力に頼るプレイヤーのほとんどが短い選手生命でおわったのに対し、カーターは22シーズンにもわたって活躍を続けました。
現役生活22シーズンは、2024年現在NBA記録となっています(来シーズン、レブロンに追いつかれてしまいますが)。
ビンス・カーター 生涯スタッツ
ビンス・カーター生涯スタッツ
1541試合出場(うち先発出場982試合)
16.7得点 4.3リバウンド 3.1アシスト FG43.5% 3P37.1%
生涯スタッツをまとめると、一見特筆すべきものはないように感じます。
ただ、1541試合出場は、ロバート・パリッシュ(元ボストン・セルティックス等)、カリーム・アブドゥル・ジャバー(元ロサンゼルス・レイカーズ等)に次ぐ、NBA歴代3位の記録です。
43歳で引退するまで、22シーズンに渡ってプレーしたカーターが、平均16.7得点をあげているのは、ものすごいことだと思います。
2023-24シーズンのNBAで、平均16.7得点をあげているプレイヤーが一人だけいました。
デンバー・ナゲッツのマイケル・ポーターJr.です。
そう考えると、カーターの22シーズンの現役生活のスタッツが平均16.7得点というのは、ものすごいことだとおわかりいただけるのではないでしょうか。
ビンス・カーター ラプターズ時代
デビュー~ルーキーシーズン
名門ノースカロライナ大学で活躍したカーターは、1998年のNBAドラフト1巡目全体5位でゴールデンステイト・ウォリアーズに指名されます。
直後に全体4位でトロント・ラプターズに指名された、ノースカロライナ大学のチームメイト、アントワン・ジェイミソンとトレードが発表され、笑顔で帽子を交換しました。
ノースカロライナ大学の不動のエースだったのは、カーターではなく、アントワン・ジェイミソンでした。
大学の個人賞を総なめにしていたジェイミソンの方が、カーターよりも評価は高かったのですが、ラプターズはカーターのスター性に賭けたのです。
普通にカーターを指名するのでなく、5位のウォリアーズが欲しがっているジェイミソンを指名し、金銭+カーターを獲得するところが抜け目ないですね。
カーターはルーキーシーズンからエースとして活躍。
チームトップの平均18.3得点を記録し、新人王を獲得します。
スタッツ以上に注目されたのが、信じられないようなアクロバティックなプレーの数々。
特にダンクシュートの迫力は、観るものを圧倒しました。
カーターのルーキーシーズンとなった1998-99シーズンは、マイケル・ジョーダンが2度目の引退をした直後のシーズン。
オーナー側と選手会側とのサラリー問題から発展したロックアウトの影響で、82試合から50試合に短縮されたシーズンということもあり、NBAには閉塞感がただよっていました。
そんな中、超人的なダンクを連発するカーターは、NBAに再び光を灯す存在となります。
カーターのルーキーシーズンのスタッツは・・・
1998-99 ビンス・カータースタッツ
50試合出場(49試合先発)
18.3得点 5.7リバウンド 3.0アシスト 1.1スティール 1.5ブロック
FG45.0% 3P28.8% FT76.1%
短縮シーズン(50試合)だった1998-99シーズン、全試合出場し新人王を獲得したのですが、特筆すべきは1.5ブロック。
スモールフォワードとしては異例の多さです。
1989-90のシャキール・オニールのブロックショットが平均1.7ですからね。
カーターの22シーズンのNBAキャリアの中でも、ルーキーシーズンの1.5ブロックを超えることは1度もありませんでした。
空中高く飛び上がり、一瞬静止してから繰り出すダンクやブロックに、当時のファンは熱狂します。
残念ながらカーターのルーキーシーズン、ラプターズは23勝27敗でプレーオフに進むことはできませんでしたが、1995-96シーズンに創設されてからの最高勝率をあげる、上々のシーズンとなりました。
伝説のスラムダンクコンテスト
カーターのNBA2年目となる、1999-90シーズン、一つの伝説が生まれます。
この年平均25.7得点を記録し、ラプターズの絶対的エースとなったカーターは、ファン投票で1,911,973票を獲得。
アレン・アイバーソンやシャキール・オニールなどのスーパースターをおさえ、この年のオールスター最多得票者となりました。
そしてなによりファンの期待が集まったのが、3年ぶりに開催されるスラムダンクコンテスト。
ネタ切れ感がただよい、ロックアウトの影響もあって、2年間開催されていなかったスラムダンクコンテストでしたが、カーターの出場で期待が高まっていました。
ライバルは、この年のルーキー、スティーブ・フランシス(当時ヒューストン・ロケッツ)や同じラプターズのトレイシー・マグレディなどがあげられていましたが、1本目の試技でファンの注目はカーターに集中することになります。
軽く会場をあおったカーターは、左サイドからゆっくりとドリブルを2つつき、空中に飛び上がると通常と逆回転の360°ウインドミルダンクを叩きこみました。
熱狂する会場。
ビデオカメラを片手に目をまん丸くして驚くシャック。
大きく右手をあげ、驚きの笑顔をみせるムトンボ。
一気にファンの心をつかんでしまいました。
NBAを36シーズンにわたって観つづけてきたわたくしリトルにとって、このカーターの「逆回転360°ウインドミル」がダンクコンテストにおける最高のダンクですね。
高さ、パワー、美しさ、すべて完璧です。
その後もレッグスルー、エルボーダンクなど、独創的なダンクを完璧に決め、他の出場者を圧倒。
最後はフリースローラインから飛びあがり、ボースハンドダンクを見事に決め、優勝を勝ちとりました。
カーター体制2年目のラプターズは、1999-00シーズン45勝37敗と勝ち越し、チーム創設後初めてプレーオフに進出。
1stラウンドでニューヨーク・ニックスに0勝3敗でスウィープされたものの、大きな一歩を踏みだしたシーズンとなりました。
カーターはNBA2年目にしてオールNBA3rdチームに選出され、シドニーオリンピックのアメリカ代表に選出されるのです。
ビンス・カーター 史上最高の〝人間越えダンク″
2000年の夏(9/15~10/1)に行われたシドニーオリンピック。
男子バスケアメリカ代表には、若手のスター選手たちが選出されます。
ただトップスターだったティム・ダンカン、グラント・ヒルはケガのため、シャキール・オニール、コービー・ブライアント、アレン・アイバーソンなどは個人的理由のため、代表を辞退しており、当初から苦戦が予想されていました。
1994年のバルセロナオリンピックで、初代ドリームチームが世界中にNBAのすごさをみせつけて以来、世界のバスケレベルは一気に上がり、アメリカを追いつめるまでになっていました。
開幕戦で中国に47点差で圧勝。
続くイタリア戦も32点差で勝利し、強さをみせつけたものの、3試合目のリトアニア戦は大接戦となり、なんとか9点差で勝利する冷や汗ものの展開となりました。
試合終了後には、アメリカ代表の不甲斐なさがニュースとなって世界中に配信され「ドリームチームの呼び名はおしまいだ」「史上最低のアメリカ代表」など、辛辣なコメントであふれます。
そんな中むかえた強豪フランスとの第5戦。
後半残り16分2秒(当時は20分ハーフ)に、史上最高のダンクが飛び出します。
リバウンドを奪ったフランス代表が、速攻をくり出そうとした瞬間、パスをスティールしたカーターはリングに向かってドリブルを二つつくと、ゴール下でチャージングを狙い立ちふさがった218㎝のフレデリック・ワイスの頭上を飛び越え、リングに叩きこんだのです。
呆然とするワイス。
おたけびをあげながら、思いっきり拳を振りまわし、もうちょっとでケビン・ガーネットを殴るところだったカーター(笑)。
一気に会場のボルテージがあがったのを覚えています。
198㎝のカーターが218㎝のワイスを飛び越えたのですから、本当に意味がわかりません。
バスケットボールの歴史上最高のダンクといってもいいでしょう。
シドニーオリンピックでは、苦しみながらもアメリカ代表が金メダルを獲得。
ただ正直、カーターの人間超えダンクのインパクトが強すぎて、ほかのプレーを思い出せないんですよね。
この「人間超えダンク」によって、史上最高のダンカー=ビンス・カーターと誰もが認めるようになりました。
アイバーソンvsカーター 最高のカンファレンスセミファイナル
NBA3シーズン目となった2000-01シーズン、カーターは自身最高のシーズンを過ごします。
22年間の現役生活の中で最も高い平均得点を記録。
2000-01シーズンのスタッツは・・・
2000-01 ビンス・カータースタッツ
75試合出場(75試合先発)
27.6得点 5.5リバウンド 3.9アシスト 1.5スティール 1.1ブロック
FG46.0% 3P40.8% FT76.5%
アレン・アイバーソン(76ers 31.1得点)、ジェリー・スタックハウス(ピストンズ 29.8得点)、シャキール・オニール(レイカーズ 28.7得点)、コービー・ブライアント(レイカーズ 28.5得点)に次ぐ、リーグ5位の平均得点を残したカーター。
エースとしてラプターズを力強く牽引し、チームをイースタンカンファレンス第5シード(47勝35敗)でプレーオフに導き、自身はオールNBA2ndチームに選出されました。
プレーオフ1stラウンドの敵は第4シード(48勝34敗)のニューヨーク・ニックス。
前年にも1stラウンドで対戦し、力の差をみせつけられた因縁の相手でしたが、最終第5戦までもつれた試合をなんとか
93-89で勝利し、初のカンファレンスセミファイナルに進みます。
待ち受けるのはイースタンカンファレンス第1シード(56勝26敗)、エースのアレン・アイバーソン擁するフィラデフフィア・76ers。
下馬評では、圧倒的に76ers有利の中、敵地での初戦、カーターの35得点の活躍もありラプターズが勝利します。
2戦目はアイバーソンが意地の54得点を記録し、76ersが勝利。
3戦目はカーターが3ポイントシュート13本中9本成功、50得点の超絶パフォーマンスを披露し、ラプターズが圧勝。
4戦目、5戦目は76ersが連勝し、ラプターズは2勝3敗と追いつめられます。
地元で行われた負けたら終わりの第6戦。
会場の大声援の中、カーターは39得点を記録し、ラプターズを101-89で勝利に導きました。
そして運命の最終第7戦。
ビンス・カーターは18本のシュートを放ち、成功は6本(成功率33.3%)。
アレン・アイバーソンは27本のシュートを放ち、成功は8本(成功率29.6%)と、両者ともに調子が上がらなかった一戦は、76ersが1点をリードしてむかえた残り2秒、ラプターズのスローインから、エースのカーターが放ったミドルが外れ、76ersが勝利しました。
ラプターズの敗退後、76ersとの第7戦試合前に、カーターが母校ノースカロライナ大学の卒業式に参加するために試合前練習とミーティングを欠席していたことが判明。
「ラストショットを外したのは、そのせいだ」「学生生活よりプロの仕事を優先すべき」など、ファンからの批判的な意見が殺到し、釈明会見を開くにいたりました。
わずか3年でトロント・ラプターズの顔となったカーターには、大きな声援が送られるだけでなく、大きな批判もつきまとうようになり、ファン、球団、カーターの関係に不穏な空気がただようきっかけとなった事件となりました。
ラプターズとの決別
2001-02シーズン、カーターは膝の負傷で22試合を欠場。
このシーズン調子の上がらなかったラプターズは、カーターが膝の内視鏡手術のために残りのシーズン全休を発表したあとに、なんと14連勝を記録。
42勝40敗と勝ち越しを決め、プレーオフに進みました。
ファンや専門家は、カーター不要論を議論するようになり、チームとカーターの関係はますます難しいものになっていきます。
2002-03シーズン、カーターは膝の状態が完全には治らず39試合を欠場。
ラプターズは24勝58敗と大きく勝率を落としてしまいました。
カーター自身は平均20.6得点 4.4リバウンド 3.3アシストを記録し、オールスターに選出されたものの、絶対的エースに対する地元ファンの視線は冷ややかなものになっていきます。
2003-04シーズン、膝の治療も順調にすすみ、健康をとりもどしたカーターは、73試合に出場し、平均22.5得点 4.0リバウンド 5.5アシストと復活。
しかしラプターズはヘッドコーチの変更や主力のトレードなど、チーム改革に着手しており、33勝49敗と大きく負けこしてしまいます。
ファンの批判は当然エースのビンス・カーターに向けられることに。
低迷したチームを改革するため、フロントは2003年のNBAドラフト1巡目全体4位で指名したクリス・ボッシュを中心としたチーム造りを計画。
カーター自身もチームに補強するべき選手や、コーチの要望を出していたものの、思うように動いてくれないフロントに愛想をつかせてしまいます。
カーターはついにラプターズに自身のトレードを要求。
看板選手のトレード要求を認めず、2004-05シーズンを迎えたラプターズでしたが、12月8日のデトロイト・ピストンズ戦を最後に、ついにカーターをトレードで放出します。
理由はカーターの無気力プレー。
トレードに積極的に動くことがなかったフロントに対し、カーターはあてつけのように、やる気のない態度でプレーを続けたのです。
ファンからブーイングを浴びても、カーターの無気力プレーは続きました。
カーターのトレードの内容は・・・
ニュージャージー・ネッツ獲得
ビンス・カーター
トロント・ラプターズ獲得
アーロン・ウイリアムス
エリック・ウイリアムス
アロンゾ・モーニング
アーロン・ウイリアムスは前年(2003-04シーズン)平均6.3得点 4.1リバウンドを記録していたセンタープレイヤー。
エリック・ウイリアムスは前年平均10.0得点 4.0リバウンド 1.7アシストを記録していたシューティングガードです。
アロンゾ・モーニングはオールスター7回出場をはたしたスタープレイヤーですが、腎臓の疾患で2度目の引退から復帰したばかりの状態でした。
しかもモーニングはラプターズでのプレーを拒否。
ラプターズと契約解除したモーニングは、結局古巣のマイアミ・ヒートと契約。
チーム史上最高のスター、ビンス・カーターを失ってラプターズが得たのは、2人のロールプレイヤーのみでした。
ラプターズにとって「史上最悪のトレード」でチームを去ったビンス・カーターに対し、トロントのフロント、そしてファンたちは、憎悪に近い感情をつのらせます。
こうしてカーターはトレード後のトロントでの試合、ブーイングをあび続けることになりました。
ビンス・カーター ニュージャージー・ネッツ時代
ジェイソン・キッドとのコンビ結成
カーターの新天地ニュージャージー(現ブルックリン)・ネッツは、長年弱小フランチャイズでしたが、2001-02シーズン開幕前にトレードで司令塔ジェイソン・キッドを獲得すると、2年連続NBAファイナルに進出。
ファイナルではレイカーズとスパーズに敗れたものの、イースタンカンファレンス最強チームとして、旋風を巻きおこしていました。
名パサーのキッドと史上最強スラムダンカーのカーターの相性は、もちろんバッチリ。
2年連続のNBAファイナル進出に貢献したビッグマン、ケニョン・マーティンが去ったニュージャージー・ネッツの新たなスターとして、カーターは期待どおりの活躍をみせます。
カーターはラプターズでの無気力プレーがウソだったかのような、エキサイティングなプレーでアリーナを熱狂させました。
2004-05シーズンのカーターのスタッツは・・・
ビンス・カーター2004-05スタッツ
ラプターズ 20試合出場
15.9得点 3.3リバウンド 3.1アシスト FG41.1% 3P32.2%
ネッツ 57試合出場
27.5得点 5.9リバウンド 4.7アシスト FG46.2% 3P42.5%
2004-05トータル 77試合出場
24.5得点 5.2リバウンド 4.2アシスト FG45.2% 3P40.6%
ラプターズの20試合とネッツでの57試合、同一人物が同一シーズンに残したスタッツとは思えません。
ラプターズ時代の20試合、いかに無気力プレーを続けたかおわかりでしょう。
ネッツではシーズンMVP並みのスタッツを残したカーターでしたが、主力のフォワード、リチャード・ジェファーソンのケガなどもあり、チーム成績は42勝40敗と伸びず。
プレーオフにはなんとか進んだものの、1stラウンドでマイアミ・ヒートに0勝4敗でスウィープされてしまいました。
翌2005-06シーズン、リチャード・ジェファーソンが復帰したネッツは、順調に勝ち星を重ねます。
カーターはチームトップの平均24.2得点を記録。
豪快なダンクを連発し、当然のように7年連続のオールスターにも選出されました。
イーストの第3シードでプレーオフに進出したネッツは、1stラウンドでインディアナ・ペイサーズを下したものの、カンファレンスセミファイナルではまたもマイアミ・ヒートに1勝4敗で完敗。
ネッツを下したマイアミ・ヒートは、シャキール・オニールとドウェイン・ウェイドの強力コンビで、この年球団初のNBA制覇を果たしています。
2006-07シーズンは、チームにケガ人が続出する中、カーターは82試合すべてに先発出場。
平均25.2得点 6.0リバウンド 4.8アシストと大活躍をみせ、司令塔のジェイソン・キッドとともにチームを牽引しました。
当然のように8年連続のオールスターに出場したカーター。
この時は、まさかこれが最後のオールスターになるとは、夢にも思っていませんでしたが・・・
チームは41勝41敗、イースト第6シードでプレーオフに進みます。
1stラウンドの相手は古巣トロント・ラプターズ。
敵地での盛大なブーイングと戦いながら、カーターは平均25.0得点 6.2リバウンド 4.0アシストと大活躍をみせ、ネッツの4勝2敗でのシリーズ突破に大きく貢献しました。
カンファレンスセミファイナルの相手は当時22歳の若きエース、レブロン・ジェームズ擁するクリーブランド・キャバリアーズ。
イースタンカンファレンス第2シードのキャブス相手に奮闘したものの、ネッツは2勝4敗で敗れ去ってしまいます。
キャブスとのシリーズで、カーターは平均19.7得点 FG35.4% 3P27.3%とショットが不調。
GAME4では2点を追うネッツのラストプレーを託されたカーターが、ボールを失い試合終了となる失態も犯し、戦犯の一人とみなされてしまいました。
強豪ネッツの終焉
2007-08シーズン、カーターはケガを抱えながらもプレーを続け、76試合に出場。
平均22.6得点 4.2リバウンド 5.1アシストと奮闘します。
ただし8年連続で出場していたオールスターには選出されず。
相棒のジェイソン・キッドがファン投票でスターターに選ばれたのとは対照的でした。
ニュージャージー・ネッツはシーズン途中に8選手が絡む大トレードを敢行。
34歳のベテラン司令塔ジェイソン・キッドをダラス・マーベリックスに放出し、当時24歳のポイントガード、デビン・ハリスを獲得しました。
大改革を行ったネッツは、34勝48敗と大きく負けこし、プレーオフ進出ならず。
2008-09シーズン、カーターは80試合に出場し、平均20.8得点 5.1リバウンド 4.7アシストを残したものの、チームは前年と同じ34勝48敗に終わります。
ネッツのフロントは、カーターがエースでは物足りないと判断。
FAとなるレブロン・ジェームズ獲得を目指し、サラリーの高いカーターを放出することを決定します。
カーターはシーズン終了後に、トレードでオーランド・マジックに移籍しました。
トレード内容は・・・
オーランド・マジック獲得
ビンス・カーター
ライアン・アンダーソン
ニュージャージー・ネッツ獲得
レイファー・アルストン
トニー・バティ
コートニー・リー
カーター以外はなんとも地味なメンバーですね。
ネッツはレブロン獲得を目指し、サラリーの低い選手を集めていました。
カーターとともにマジック入りしたライアン・アンダーソンが2011-12シーズンのMIP(最も成長した選手)に輝いたことを考えると、ネッツにとっては厳しいトレードとなりました。
ラプターズとネッツで過ごした10シーズン、ビンス・カーターはチームのエースであり、スーパースターでした。
数々のアクロバティックなプレー、豪快なスラムダンクは、世界中のファンを魅了しました。
残念ながら、ネッツのファイナル復帰という夢はかないませんでしたが、ニュージャージー・ネッツの歴史にしっかりとカーターが足跡をきざんだことは、まちがいありません。
ビンス・カーター 最上級のロールプレイヤーへ
オーランド・マジックに加入した1年目の2009-10シーズン、33歳となったカーターは若きエース、ドワイト・ハワードを支え、チーム2位の平均16.6得点を記録。
マジックは59勝23敗、イースタンカンファレンス第2シードでプレーオフに挑み、カーター自身にとって初めてのカンファレンスファイナル進出を果たしました。
ちなみにカーターが抜けたニュージャージー・ネッツは、12勝70敗でリーグ最下位に終わっています。
翌シーズン、カーターはシーズン途中にフェニックス・サンズにトレード。
30代なかばとなったカーターは、豪快なダンクをくり出すことは少なくなり、アウトサイドからのシュートが増えていきます。
その後カーターはフェニックス・サンズ(2011-14)、メンフィス・グリズリーズ(2014-17)、サクラメント・キングス(2017-18)、アトランタ・ホークス(2018-20)でプレー。
貴重なベテランロールプレイヤーとして、43歳で引退するまで、活躍を続けました。
ビンス・カーター ラプターズとの和解
カーターのキャリア後期、メンフィス・グリズリーズに所属していた2014年のある出来事が、とても印象に残っています。
2014年11月19日にトロントのエアカナダセンターで行われたグリズリーズ対ラプターズの試合で、カーターのトリビュート映像が流されたのです。
これはラプターズがチーム創設20周年の記念に、最悪の決別をしたカーターに送ったサプライズでした。
カーターがチームを去って以来、トロントでの試合では激しいブーイングを浴びせてきたファンたちも、この日は違いました。
はじめはいつものようにブーイングが巻き起こっていましたが、トリビュート映像が流れだすとブーイングは拍手へとかわり、次第に大歓声へ。
会場中のファンがスタンディングオベーションでたたえる姿に、カーターは涙を流しながら笑顔でこたえました。
この美しい光景があったからこそ、カーターの背番号15が、トロント・ラプターズでも永久欠番になったことは間違いないでしょう。
まとめ
今回は、22シーズンにわたってNBAで活躍を続けた「ダンク王」ビンス・カーターについて語りました。
人間の想像を超えるアクロバットなダンクを生みだしてきたキャリア前半、アウトサイドから次々とシュートを射抜き、ロールプレイヤーとして若手のよき見本となったキャリア後半、自身の衰えをみとめ、プレースタイルを変化させながらチームに貢献をつづけた、すばらしいバスケットボールプレイヤーだったと思います。
バスケットボールの殿堂入りに続き、トロント・ラプターズとブルックリン(元ニュージャージー)・ネッツでの永久欠番入り。
今年は引退したカーターにとっても特別なシーズンですね。
身体能力おばけが集まるNBAの中でもレベルが違う怪物、ビンス・カーターは、いまでもNBAの歴史の中で最高のスラムダンカーです。