【魔術師ジェイソン・ウイリアムスを語る】河村優輝選手も憧れたNBAの問題児

※当サイトはアフィリエイト広告を利用しています
スポンサーリンク

激しい腰痛でしばらくブログもお休みしていたリトルです。

みなさん、バスケする前にはしっかりストレッチしないと、おっさんになって苦しみますよ。

2022-23シーズンが開幕してから約1か月、例年以上に盛り上がりをみせているNBA。

なんといっても、渡邊雄太選手の予想以上の大活躍に、年甲斐もなくワクワクさせられています。

渡邊選手にはやくケガをなおして、またネッツの主力として活躍してほしいですね。

16シーズン連続プレーオフ不出場のNBA記録をもつサクラメント・キングスが、今年は好調なことにも要注目です。

そして、バスケットボールファンとしてもう一つ気になっているのが、現在行われている2023FIBAワールドカップのアジア予選です。

2023年8月~9月に、フィリピン、インドネシア、日本(沖縄)の共催で開催されるFIBAワールドカップ。

日本は開催国枠での出場権を獲得していますが、世界の強豪相手に戦えるチームづくりのために、アジア予選できっちり勝っていってほしいと思います。

現在の日本代表で大活躍しているのが、河村優輝選手(横浜ビー・コルセアーズ)。

172㎝と小柄ながら、スピードあふれるドリブルと、ノールック・パスで敵を翻弄するポイントガードです。

Bリーグでもトリッキーなプレーで観客を魅了する河村選手。

河村選手が子供の頃に夢中なり、お手本としたNBA選手がジェイソン・ウイリアムスという記事をみて、「なるほど!」と納得しました。

今回は河村選手を、そしてわたくしリトルを夢中にさせたジェイソン・ウイリアムスについて語ります

目次

ジェイソン・ウイリアムスの成績

レギュラーシーズン 通算 788試合出場
1試合平均 10.5得点 2.3リバウンド 5.9アシスト

プレーオフ     通算 68試合出場
1試合平均  8.3得点 1.9リバウンド 3.3アシスト

通算成績だけをみると、特別な選手には思えないかもしれません。

ジェイソン・ウイリアムス(J-Will)は、〝記録より記憶に残る選手″の筆頭ですね。

J-Willの魅力を伝えるには、動画を観ていただくのが一番だと思います。

特に1分35秒から、8位にランキングされたエルボーパスには、度肝を抜かれました。

2000年のオールスター ルーキーチャレンジで飛び出たスーパープレイ。

友人と観ていて、「おい、(リーフ・)ラフレンツ決めろよ!」と盛り上がったことを思い出します。

3分50秒からの、1位にランキングされたプレーも、思い出に残っています。

ザ・グローブの異名をもつゲイリー・ペイトンをあざ笑うかのようなプレー。

ルーキーのJ-WILLに翻弄されたペイトンの笑顔が、このプレーの衝撃をあらわしていますね。

ドラフト7位でドラフトされた小柄な白人ポイントガード。

開幕からの数試合でファンのハートをがっちりつかんでしまいました。

NBAジャパンゲームズの思い出 キングス対ウルブズ

ジェイソン・ウイリアムズについて語るときに忘れてならないのが、東京ドームで行われた1999ー2000の開幕戦「サクラメント・キングス対ミネソタ・ティンバーウルブズ」です。

第5回のNBAジャパンゲームズとして行われたキングス対ウルブズの第2戦こそ、わたくしリトルが唯一、生観戦したNBAの試合なんです。

ウルブズのケビン・ガーネット、キングスのクリス・ウェバー、NBAを代表するパワーフォワードの対決に注目が集まったこの試合。

わたくしリトルが一番注目していたのが、ルーキーシーズンにトリッキーなプレーで旋風をまきおこしたジェイソン・ウイリアムスでした。

ルーキーシーズンは、アイドルのような美少年だったのに、ジャパンゲームズで現れたJ-WILLは突然スキンヘッドで現れ、ビックリさせられました。

もう一つ、腕に放送禁止用語のタトゥーを入れてきたことも話題になりました。

「クレイジー」を日本語で彫ってもらったそうですが、英語と日本語でニュアンスが大きく違いますからね。

当日、腕のタトゥーはテーピングで隠してプレーしていました。

J-WILLは、NBAジャパンゲームス第2戦で、17得点 4リバウンド 8アシストと躍動。

派手なプレーで、何度も歓声があがりましたが、勝負所の第4クオーターは、ベンチで過ごす時間が多く、残念でした。

この試合の主役は、31得点 12リバウンド 4アシストを記録し、ウルブズを勝利に導いたウルブズのケビン・ガーネットでしたけど。

ジェイソン・ウイリアムスのNBA入りまで

ジェイソン・チャンドラー・ウイリアムス 1975年生まれ 身長185㎝ 体重86㎏

高校生の時に、後にNFLのスーパースターとなるランディ・モスと共にバスケットボールに打ち込み、マーシャル大学へ進むと、1年生の時に1試合平均13.4得点、6.4アシストを記録します。

2年生になると、コーチのビリー・ドノバンがフロリダ大学に引き抜かれたため、J-WILLもフロリダ大学へ転校

2年生のシーズンはポイントガードとして活躍し、1試合平均17.1得点、6.7アシストを記録。

前年チャンピオンのケンタッキー大学をほぼ独力で打ち破るなど、波にのった時のJ-WILLは、誰にも止められないほどでした。

しかし、2年生のシーズンが終わった後、フロリダ大学ゲイターズはJ-WILLを追放します。

チームの規則を破り、大麻を使用したため、チームから追放されてしまったのです。

J-WILLが選んだ進路は、もちろんNBAでした。

大学を追放された問題児ながら、ドラフトで1巡目全体7位の高順位でサクラメント・キングスから指名されたことからも、J-WILLへの期待の高さがわかりますね。

サクラメント・キングス時代

J-WILLのルーキーシーズンは、ロックアウトの影響で50試合の短縮シーズンでした。

デビュー戦は1999年2月5日のサンアントニオ・スパーズ戦。

チームは83対103で、この年チャンピオンとなるスパーズに敗れましたが、J-WILLはいきなり21得点 4リバウンド 3アシスト 5スティールと、デビュー戦とは思えない活躍。

しかも、マジック・ジョンソンばりのノールックパスや、トリッキーなドリブルで、一気にファンの心をわしづかみにしました。

白人ながら、黒人がプレーグラウンドでストリートバスケットをするような独創的なスタイル。

〝ホワイトチョコレート″の愛称で親しまれました。

キングス時代はとにかくアクロバティックなプレーでファンを熱狂させ、毎日のようにハイライトプレーが取り上げられていましたね。

しかし、派手なプレーを狙うあまりに決定的な場面でのターンオーバーも多く、第4クオーターの勝負どころはベンチに座ることが増え、ポイントガードとしての評価は落ちていきます。

それでも、リーグ屈指のパワーフォワード、クリス・ウェバーとのコンビは、当時のNBAで最もエキサイティングなコンビでした。

サクラメント・キングスでプレーした3年間の成績をまとめると・・・

1998-99 12.8得点 6.0アシスト 1.9スティール 2.9ターンオーバー
1999-00 12.3得点 7.3アシスト 1.4スティール 3.7ターンオーバー
2000-02  9.4得点 5.4アシスト 1.2スティール 2.1ターンオーバー

連日のハイライトプレーで注目は浴びますが、大きな成長はみられず、次第に「チームを勝たせられないポイントガード」のレッテルが貼られていくようになります。

プレーオフの第4クオーター、チームの司令塔であるJ-WILLは、頭からタオルをかぶり、ベンチで過ごすことが多くなっていきました。

クリス・ウェバーとのコンビにファンは熱狂しながらも、優勝を目指すためには、J-WILLでは難しいことを誰もが理解していました。

そして、2001年のオフにキングスは、トレードを敢行します。

J-WILLニック・アンダーソンと交換で、メンフィス・グリズリーズのマイク・ビビーブレント・プライスを獲得。

わたくしリトルとしては、正直J-WILLで勝ち進むキングスを応援していきたい気持ちがありましたが、ビビーがはまると強くなるんだろうな、という複雑なきもちでしたね。

実際、2001-02シーズン、サクラメント・キングスはリーグ最高勝率の61勝21敗を記録。

カンファレンスファイナルでは、コービー&シャックを擁し、3連覇を目指していた最強ロサンゼルス・レイカーズを、あと1歩のところまで追い詰めました。

J-WILLはどんな気持ちでキングスの躍進をみていたんでしょうか。

メンフィス・グリズリーズ時代

J-WILLが加入した当時のグリズリーズは、カナダのバンクーバーからアメリカのメンフィスに本拠地を移転したばかりで、目玉となるスター選手の獲得を目指していました。

前年のグリズリーズの成績は、23勝59敗

1995年にバンクーバー・グリズリーズとしてチームが設立されてから、プレーオフに進出したことはなく、勝率も30%を超えたことがない弱小チームでした。

チームのエースは、この年のドラフト全体3位でグリズリーズに指名されたルーキー、パウ・ガソル

後にレイカーズでコービーとコンビを組み、チャンピオンとなるスペインの英雄です。

2001-02シーズン、J-WILLはトリッキーなプレーで観客の目を楽しませ、次々とガソルにアシストを通します。

J-WILLの平均得点は生涯で最高の14.8得点

それでもグリズリーズの成績は前年と変わらず23勝59敗でした。

J-WILLのトリッキーなプレーに熱狂していたファンも、チームを勝たせることができないポイントガードに対し、厳しい目を向けるようになっていきます。

J-WILLもチームに勝利をもたらすため、次第にプレースタイルを変化させていきました。

これまで、ファンを魅了してきた派手なプレーを控え、確実なプレーを選ぶことで、ポイントガードとしては致命的な多さだったターンオーバーを減らすことに成功。

2001-02シーズンのJ-WILLのターンオーバーは1試合平均3.3

これは、今年(2022-23シーズン)のトレイ・ヤング(アトランタ・ホークス)とほぼ同じです。

いかにターンオーバーが多いのかおわかりいただけるでしょうか?(笑)

J-WILLがメンフィス・グリズリーズに在籍していた4シーズンのスタッツとチームの成績ををまとめると・・・

2001-02 14.8得点 8.0アシスト 3.3ターンオーバー
     23勝59敗
2002-03 12.1得点 8.3アシスト 2.2ターンオーバー

     28勝54敗
2003-04 10.9得点 6.8アシスト 1.9ターンオーバー

     50勝32敗
2004-05 10.1得点 5.6アシスト 1.8ターンオーバー

     45勝37敗  

J-WILLがポイントガードとして正しいプレーを選択することで、グリズリーズは確実に強くなり、2003-04シーズンには、ついにチーム創設後、初のプレーオフに進出。

翌2004-05シーズンにもプレーオフに進みますが、2年連続1勝もできずスウィープで敗退します。

グリズリーズのフロントは、J-WILLの放出を決断。

当時NBA最大規模といわれた、5チーム13選手が絡んだトレードで、マイアミ・ヒートへの移籍が決定します。

ミスが少なくなり、エリートポイントガードになったJ-WILLは、正直魅力がなくなっていました。

それでも、ルーキーの時から夢中になり、実際目の前で試合を観戦したJ-WILLは、わたくしリトルにとって特別な存在。

当時NHK衛星第1テレビでは、不人気チームのグリズリーズの試合はほとんど放送されなかったため、注目チームだったヒートへの移籍には、大喜びしました。

マイアミ・ヒート時代 

J-WILLが加入した当時のマイアミ・ヒートのエースは、2003年ドラフト全体5位で指名された、若きドウェイン・ウェイドと、2004-05シーズン前にロサンゼルス・レイカーズから移籍してきたナンバー1センター、シャキール・オニール。

二人のスーパースター擁するヒートは優勝するために、信頼できるロールプレイヤーをトレードで集めました。

グリズリーズからはJ-WILLジェームス・ポージー

ボストン・セルティックスからは、アントワン・ウォーカーゲイリー・ペイトン

優勝を目指すチームにJ-WILLが求められるなんて、感慨深いものがありました。

ヘッドコーチにはマイアミヒートの社長業に専念していた名将パット・ライリーが復帰。

ライリーが選んだスターティングポイントガードは、ベテランのゲイリー・ペイトンではなく、J-WILLでした。

2005-06シーズン、マイアミヒートは52勝30敗のイースト2位(1位はデトロイト・ピストンズ)でレギュラーシーズンを終えると、プレーオフでシカゴ・ブルズ、ニュージャージー・ネッツ、デトロイト・ピストンズを次々に撃破し、NBAファイナルに進みます。

ファイナルで対するのは、絶対的エース、ダーク・ノビツキーを擁するダラス・マーベリックス

レギュラーシーズンで62勝20敗を記録しており、戦力的にはマーベリックス有利と言われていました。

下馬評通り第1戦、第2戦はマーベリックスが勝利しますが、第3戦、若きドウェイン・ウェイド42得点の大爆発。

結局ファイナルで1試合平均34.7得点を記録したウェイドの活躍で、第3戦から4連勝しヒートは初めての優勝。

優勝チームのスターティングポイントガードとして、J-WILLは、手堅いプレーでチームを牽引しました。

レギュラーシーズン
1試合平均 12.3得点 4.9アシスト 1.7ターンオーバー
プレイオフ
1試合平均  9.3得点 3.9アシスト 1.6ターンオーバー

シャック、ウェイド、ペイトン、アロンゾ・モーニングらと一緒にトロフィーを掲げるJ-WILLは、本当に輝いてみえました。

自分がひいきにしている選手が優勝し、喜ぶ姿を見るのは幸せだったですね。

敵をあざわらうかのようなトリッキーなプレースタイルから、勝利を第一に考える正統派ポイントガードへと変貌をとげたJ-WILLに、神様がほほえんだような気がしました。

優勝後、2シーズンをヒートでプレーしますが、徐々にパフォーマンスは落ちていき、一時引退。

1年後に現役復帰し、オーランド・マジック、そしてかつて在籍したメンフィス・グリズリーズでプレー。

2010-11シーズン終了後、2度目の引退をしています。

選手生活のほとんどをロールプレイヤーとして過ごしましたが、サクラメント・キングス時代のトリッキーなプレーを観たときの衝撃と興奮は、今でも鮮明に思い出せるほどです。

わたくしリトルが歴代NBA選手で12名のドリーム・チームをつくるなら、最後の枠はJ-WILLにと考えています。

引退後のJ-WILLのプレーをお楽しみください

J-WILLの意外な一面

とにかくお騒がせな男ジェイソン・ウイリアムス。

ファンや記者と口論になってリーグが罰金を科すなど、常に危険な香りを漂わせていました。

そんなところもかっこよかったんですが。

しかし、意外にもJ-WILLは慈善活動にも熱心に取り組んでいました。

メンフィス・グリズリーズ在籍時には、メンフィスにある小児病院を頻繁に訪れ、病気とたたかう子供たちを励ましていました。

2003年には、医師であるボブ・ウォーラスと「We will Foundation」を設立。

これは、がん治療などの手術や、ケガ、やけどなどのため、頭蓋顔面欠損の治療を受けている子供たちを支援するために設立された組織です。

破天荒なイメージのJ-WILLが、子供たちに対する慈善活動を熱心に行っている姿は、なんだか感動的ですらあります。

まとめ

今回は、わたくしリトルの思い出深い選手、ジェイソン・ウイリアムスについて語りました。

引退後も、「AND1 presents STREET2ELITEⅡ」というAND1のバスケイベントで、来日しプレーする予定をドタキャンしたりと、自由奔放さは変わらず。

そんないいかげんさも、どこか憎めないJ-WILL。

最初にも書きましたが、〝記録より記憶に残る選手″の筆頭であることに間違いはありません。

数々のノールックパス、ビハインドザバックパス、アンクルブレイクは、何度観ても興奮させられます。

現在のNBAにおいては、リアンジェロ・ボールが一番近いでしょうか?

スポンサード
よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
目次