【マイアミ・ヒートの歴史】ジミー・バトラーも惚れたヒートのカルチャーを語る

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2023年のプレーオフの主役となっているマイアミ・ヒート。

ジミー・バトラーを中心に、第8シードからNBAファイナルの舞台に進出しています。

プレーオフを観てきたファンは、誰しもヒートを応援したくなってしまったのではないでしょうか?

決して派手さはないものの、常にあなどれないチーム、マイアミ・ヒート。

確かな実力を認められながらも、ウルブズや76ersでチームに馴染めず、問題児扱いされていたジミー・バトラーが惚れ込んだチーム、マイアミ・ヒートの歴史とカルチャーを語ります。

目次

マイアミ・ヒートの誕生~グレン・ライス スティーブ・スミスの時代

マイアミ・ヒートが誕生したのは1988年。

同年、シャーロット・ホーネッツも加わり、NBAは25チームになります。

ちなみに、当時のシャーロット・ホーネッツは、現在のニューオーリンズ・ホーネッツであったり、ややこしいんですが、それはまた別の機会に語っていきましょう。

ヒートとホーネッツが誕生した当時、わたくしリトルは高校生でした。

新しいチームができた瞬間を目の当たりにできた喜びはありましたが、あまりに弱いチーム状況に、正直注目したのは最初だけでしたね。

なぜか帽子だけ買った記憶があります。

マイアミ・ヒートは、創設1年目のNBAドラフト1巡目全体9位でシラキュース大学のセンター、ロニー・サイカリーを指名。

211㎝のパワフルなセンター、サイカリーは、レバノン生まれ。

10歳でギリシャに渡り、アメリカのシラキュース大学でプレーした、当時としてはまだ珍しい国際色豊かなプレーヤーでした。

2年目の1989-90シーズン、サイカリーは1試合平均16.6得点 10.4リバウンド 1.1アシスト 1.7ブロックを記録。

この年のMIP(最も成長した選手に贈られる賞)を獲得しました。

創設2年目、1989年のドラフト1巡目全体4位で、ヒートはチームのエースとなるグレン・ライスを指名。

203㎝のフォワード、グレン・ライスはアウトサイドが得意なシューターでした。

無駄のないシュートフォームで、次々とゴールを射抜き、平均20得点前後を記録するエースへと成長します。

もう一人、チーム創設4年目1991年のドラフト1巡目全体5位で指名した、スティーブ・スミスも、初期のヒートを語る上で欠かせない選手です。

201㎝と長身ながらポイントガードをつとめ、マジック・ジョンソン2世と呼ばれていました。

3人のコアが揃った1991-92シーズン、ヒートは7人の選手が平均2ケタ得点を記録する全員バスケで、38勝44敗を記録。

イースタンカンファレンス8位で、ついに創設以来初のプレーオフ進出を果たします。

プレーオフ1stラウンドの相手は、前年の覇者シカゴ・ブルズ。

マイケル・ジョーダン、スコッティ・ピッペンを擁する、伝説のチームでした。

マイアミ・ヒート初のプレーオフは、0勝3敗で完膚なきまでブルズに叩きのめされ終わります。

1stラウンド3試合の、マイケル・ジョーダンのスタッツは・・・

マイケル・ジョーダン プレーオフ1stラウンドスタッツ
45.0得点 9.7リバウンド 6.7アシスト 3.0スティール 1.0ブロック

いや、もうとんでもありません。

ヒートは、ジョーダンにいつもいいようにやられていたイメージがありますね。

ちなみに、マイアミ・ヒートには現在7人の永久欠番選手がいますが、そのうちの一人が、ヒートでのプレー経験のないマイケル・ジョーダンです。

翌1992-93シーズンは、プレーオフを逃したものの、1993-94シーズン、ヒートはついに42勝40敗と初めて勝ち越し、2回目のプレーオフに進出。

1stラウンドの敵は、スーパースターはいないものの、チーム力で第1シードを獲得した、アトランタ・ホークス。

第8シードながら初戦を勝利したヒートは、先に王手をかけたものの(当時は1stラウンドは3戦先取制)、第4戦、第5戦を落とし、2勝3敗で躍進のシーズンを終えました。

翌1994-95シーズン開幕後すぐにポイントガードのスティーブ・スミスをアトランタ・ホークスのパワーフォワード、ケビン・ウイリスとトレードする勝負に出たヒートでしたが、結果は32勝50敗と散々な結果に終わります。

そして、シーズン終了後、ついにマイアミ・ヒートは大改革を起こしたのです。

ヒートの大改革 パット・ライリーHCとアロンゾ・モーニングの時代

現在(2023年)もオーナーをつとめる、ミッキー・アリソンがオーナーに就任した1995年、ヒートは大改革に動きます。

まず、マイアミ・ヒートのゼネラルマネージャー兼ヘッドコーチに、パット・ライリーを招聘。

パットライリーに、権限を一任するという判断が、この先のマイアミ・ヒートのカルチャーを大きく変えることになります。

パット・ライリーは、ロサンゼルス・レイカーズのヘッドコーチとして4つのチャンピオンリングを持ち、ニューヨーク・ニックスのヘッドコーチとしてもチームを常勝軍団に育て上げた名将です。

ライリーは、まずチームの主力選手であるグレン・ライスを、シャーロット・ホーネッツのセンター、アロンゾ・モーニングとトレード。

シーズン途中には、ゴールデンステイト・ウォリアーズから、ポイントガードのティム・ハーダウェイを獲得し、チームの土台を築き上げました。

1995-96シーズン、42勝40敗と勝ち越し、第8シードでプレーオフに進出。

1stラウンドで立ちはだかったのは、再びシカゴ・ブルズ。

この年、ジョーダンが野球から復帰して、4回目の優勝を果たすブルズに、なすすべなくスウィープされ、新体制となったマイアミ・ヒートの1年目は終わりました。

パット・ライリーヘッドコーチの1年目を振り返ると、ディフェンス力のアップによって、チーム力が向上した1年でした。

ディフェンスレーティング(100ポゼッションあたりの平均失点)をみてみると、前年109.9NBA18位だったものが、一気に103.8NBA6位と改善し、ディフェンス面でエリートチームの仲間入りをしています。

ニューヨーク・ニックスを、フィジカルを前面に押し出したディフェンスで、強豪チームに変えたパット・ライリーが、ヒートにも闘争心を植えつけた結果でした。

翌1996-97シーズンには、PJ・ブラウンジャマール・マッシュバーンカート・トーマスも加わり、チーム力がアップ。

61勝21敗と、素晴らしい成績を残したヒートは、イースタンカンファレンスの第2シードでプレーオフに進みます。

1stラウンドでは、オーランド・マジックに、最終第5戦でなんとか勝利すると、カンファレンスセミファイナルの相手は、パット・ライリーの古巣ニューヨーク・ニックス。

57勝25敗と好成績を残し、第3シードでプレーオフに進んだニックスは、パトリック・ユーイングを中心に、フィジカル全開のカッチカチディフェンスでヒートの前に立ちはだかります。

ニックスファンは、チームを去りマイアミ・ヒートに移籍したパット・ライリーヘッドコーチを「Pat the Rat(裏切者のライリー)」と呼び、尋常ではない盛り上がりをみせていました。

因縁の相手に、お互いの選手たちもヒートアップ。

第4戦まで、すべての試合で90点に届かないディフェンス合戦は、1勝3敗とニューヨーク・ニックスが圧倒していました。

しかし第5戦で、NBAの歴史に残る大事件が勃発。

試合残り時間2分を切ったところで、まずニックスのチャールズ・オークレーがアロンゾ・モーニングを突き飛ばし、両軍が入り乱れる状態となります。

オークレーは2回のテクニカル・ファウルで退場。

マイアミ・ヒートが12点をリードする場面で起きた、ヒートアップする事態に、ニックスのヘッドコーチ、ジェフ・バンガンディはこの試合をあきらめ、主力をベンチに下げます。

やっと場がおさまり、ティム・ハーダウェイがフリースローを打ったところで、このシリーズの行方が左右される大事件が起こったのです。

PJ・ブラウンのスープレックスは1分42秒から

ハーダウェイが冷静にフリースローを決めた際に、ニックスの控えポイントガード、チャーリー・ウォードが、ゴール下にヒートのPJ・ブラウンを押し込むと、ブラウンは突然ウォードを投げ飛ばしたのです。

当時テレビを観ていた、わたくしリトルは、NBA選手が見事に一回転して投げ飛ばされる姿に、衝撃を受けました。

もちろん、両軍入り乱れての大乱闘が勃発し、まず当事者であるヒートのPJ・ブラウンに2試合、ニックスのチャーリーウォード、そして、乱闘に参加したジョン・スタークスにそれぞれ1試合の出場停止が言いわたされます。

しかし、処分はこれで終わりませんでした。

NBAには、乱闘や小競り合いがおきた時に、ベンチにいる選手が、ベンチを離れると出場停止になる、厳格なルールがあります。

このルールにのっとって、NBAは試合後に、出場停止選手を発表しました。

結局、出場停止処分が言い渡された選手をまとめると・・・

マイアミ・ヒート
PJ・ブラウン(2試合)


ニューヨーク・ニックス
チャーリー・ウォード(1試合)
ジョン・スタークス(1試合)
パトリック・ユーイング(1試合)
アラン・ヒューストン(1試合)
ラリー・ジョンソン(1試合)

ベンチに下がっていたニックスの主力、ユーイング、ヒューストン、ジョンソンは、乱闘を止めるためにコートに入り、選手をなだめていただけでしたが、ベンチから離れたことに変わりはありませんでした。

対して、ヒートは誰もベンチから離れず。

当時は、策士パット・ライリーが仕組んだ罠だったのでは、との噂も飛び交いました。

主力が大量に出場停止になったニックスに対し、マイアミ・ヒートは勢いを取り戻し、第5戦から3連勝。

大逆転でカンファレンスファイナルに進みます。

ヒートとニックスは、このシリーズで因縁の対決と呼ばれるようになり、翌シーズンから3年連続で対戦し、数々のドラマを生み出すことになるのです。

カンファレンスファイナルの相手は、前年マイケル・ジョーダンが野球からバスケの世界に戻り、復活の優勝をとげた最強シカゴ・ブルズ。

1996-97シーズンも、69勝13敗と、NBA全体1位の勝率をほこる、絶対王者でした。

ヒートは3連敗のあと、マイアミで1勝するのがやっと。

最後は1勝4敗、力の差をみせつけられ、大躍進のシーズンを終えました。

カンファレンスファイナルまで進んだ経験により、ヒートはより強力なチームとなります。

エースのアロンゾ・モーニングは、NBAで最強のディフェンダーとなり、1998-99、1999-00、2シーズン連続でNBA最優秀守備選手賞を獲得

1999年にはオールNBAファーストチーム、2000年にはオールNBAセカンドチーム入りし、リーグを代表するセンターとなりました。

しかし、1997-98シーズンからの3年間、マイアミ・ヒートは、レギュラーシーズンでは好成績を残すものの、プレーオフでは因縁の相手ニューヨーク・ニックスにことごとく敗れます。

1998年には、ヒートのアロンゾ・モーニングとニックスのラリー・ジョンソンのボクシングかと思わせるパンチの応酬があったり、1999年にはアラン・ヒューストンの劇的なブザービーターで勝負が決まったり、ヒートとニックスのプレーオフでの戦いは、常に観るものをワクワクさせてくれるものでした。

2000年、マイアミ・ヒートから、ポイント・ガードのティム・ハーダウェイと、センターのアロンゾ・モーニングが、シドニーオリンピックに出場します。

そんな中、マイアミ・ヒートに激震が走ります。

何とか金メダルを勝ちとり、帰国したモーニングに、重い腎臓の病気が発見されたのです。

結局モーニングは腎移植を決断。

いとこ兄弟から腎臓を提供してもらい、手術にふみきりました。

2000-01シーズン、モーニングは治療に専念し、シーズン終盤の13試合だけ出場しますが、思うようなプレーはできず。

この年もヒートは50勝32敗のイースタンカンファレンス第3シードでプレーオフに臨んだものの、1stラウンドで第6シードのシャーロット・ホーネッツにスウィープされ、シーズンを終えました。

2001-02シーズンを前に、ヒートはポイントガードのティム・ハーダウェイを放出。

シーズンに入ると、ヒートは復活したモーニングを中心に戦うものの、36勝46敗と負け越し、プレーオフ連続出場は、6年間でストップしてしまいます。

そしてシーズン終了後に、モーニングは1度目の引退を決意し、ヒートの一つの時代が終わりを告げたのです。

ヒートのレジェンド ドウェイン・ウェイドの時代

2001-02シーズン(36勝46敗)、2002-03シーズン(25勝57敗)と、2年連続でプレーオフを逃したマイアミ・ヒート。

長い低迷期に入るかと思われましたが、2003年のNBAドラフトで、状況は一変します。

マイアミ・ヒートは、1巡目全体5位でマーケット大学のドウェイン・ウェイドを指名。

ちなみに、NBA史上最高のドラフトトップ5は、この2003年だと思います。

2003年NBAドラフトTOP5ピック
1位 レブロン・ジェームズ(キャブス)  27.2得点 7.5リバウンド 7.3アシスト
2位 ダーコ・ミリチッチ (ピストンズ) 6.0得点 4.2リバウンド 0.9アシスト
3位 カーメロ・アンソニー(ナゲッツ) 22.5得点 6.2リバウンド 2.2アシスト
4位 クリス・ボッシュ  (ラプターズ) 19.2得点 8.5リバウンド 2.0アシスト
5位 ドウェイン・ウェイド(ヒート)  22.0得点 4.7リバウンド 5.4アシスト

ドラフトトップ5の、NBAでの通算成績です。

すばらしい成績が並んでいます。

いや、ピストンズ・・・この年チームは優勝するんですけど。

ちなみに、レブロンだけは現役ですので、今シーズン終了までのスタッツです。

38歳でいまだNBAのトップで戦っているレブロンは、化け物ですね。

さて、2003年に戻ります。

ウェイドは1年目から、平均16.2得点 4.0リバウンド 4.5アシストと、オールラウンドな活躍をみせます。

ちなみに、現在ヒートのメンターと呼ばれているユドニス・ハスレムも、2003年にドラフト外で入団しています。

チームも42勝40敗と勝ち越し、ヒートはプレーオフに進出。

プレーオフ1stラウンドでニューオーリンズ・ホーネッツ(現ニューオーリンズ・ペリカンズ)に4勝3敗で競り勝ち、カンファレンスセミファイナルでインディアナ・ペイサーズに挑みます。

2003-04シーズン、NBA全体トップの61勝21敗を記録していたペイサーズに、2勝4敗で敗れたものの、予想以外の躍進をとげたヒート。

シーズン終了後、パット・ライリーは大ばくちに出ます。

当時NBA最強のセンター、シャキール・オニールをロサンゼルス・レイカーズから獲得したのです。

ヒートからは、チームの中心選手、ラマー・オドムカロン・バトラーブライアン・グラントとドラフト1巡目指名権を放出する、大トレードでした。

スターター3人をレイカーズに差し出してでも、ヒートがシャックの獲得に乗り出した理由は、ドウェイン・ウェイドの存在でした。

ウェイドの想像以上のポテンシャルを見抜いたライリーは、一気に優勝を目指してシャック獲得に動いたのです。

そしてもう一人、2004-05シーズン途中に、ヒートにとって大事な選手が加わります。

アロンゾ・モーニングです。

腎臓疾患で引退していたモーニングは、体調が安定したため、2004-05シーズンにNBAに復帰。

シーズン開幕はニュージャージー・ネッツ(現ブルックリン・ネッツ)で迎えましたが、ビンス・カーターのトレードの駒の一つとして、トロント・ラプターズへ移籍するものの、プレーせず。

その後、古巣のマイアミ・ヒートに加わりました。

全盛期のプレーには遠く及ばないものの、シャックの控えセンターとしては、申し分ない働きをみせたモーニング。

何より、長年ヒートのハート&ソウルであった、モーニングの存在は、チームを大きく勢いづけました。

2004-05シーズン、ウェイドは、1試合平均24.1得点 5.2リバウンド 6.8アシスト 1.6スティール 1.1ブロックと大活躍し、オールNBAセカンドチームオールディフェンシブセカンドチームに選出。

シャックもオールNBAファーストチームに選出される活躍をみせ、マイアミ・ヒートは59勝23敗、イースタンカンファレンス首位でプレーオフに進出します。

1stラウンド、カンファレンスセミファイナルを無敗で勝ち上がりますが、カンファレンスファイナルで、前年王者のデトロイト・ピストンズに3勝4敗で惜敗。

ファイナルには届きませんでしたが、マイアミ・ヒートの改革が間違っていないことを確認できたシーズンでした。

シーズン終了後に、ヒートはさらに動きます。

NBA史上最大規模となる、5チーム13選手が絡むトレードで、メンフィス・グリズリーズからポイントガードのジェイソン・ウイリアムズジェームズ・ポージー、ボストン・セルティックスからアントワン・ウォーカーゲイリー・ペイトンを獲得。

経験豊富なベテラン選手をそろえ、本気でNBA制覇に向けた体制をととのえました。

そして運命の2005-06シーズン。

シーズン前半、シャックのけがと、新メンバーが多いため勝ち星がのびなかったものの、後半に追い上げをみせ、52勝30敗イースタンカンファレンス2位でプレーオフに進みます。

シーズン後半の勢いそのままにプレーオフに進むと、1stラウンド、カンファレンスセミファイナルをともに4勝2敗で勝利。

カンファレンスファイナルでは、前年敗れたデトロイト・ピストンズを4勝2敗で下し、ついにチーム初のファイナル進出を果たします。

ファイナルの相手は、ダーク・ノビツキー擁するダラス・マーベリックス。

60勝22敗と、レギュラーシーズンの成績で大きく上回るマブス有利と言われたファイナル。

どちらが勝っても初優勝となる、フレッシュな対戦は、ダラスでの2試合を、マブスが危なげなく勝利します。

マイアミに舞台を移した第3戦も、第3クオーター終了時点で9点のビハインドを背負い、追い詰められます。

しかし、第4クオーターを30-19とし、最終スコア98-96で逆転勝利を果たすと、流れは一気にヒートへ。

第3戦から4連勝し、ついにチーム創設以来初の優勝を果たしたのです。

ファイナルMVPは、NBA3年目とは思えない大活躍をみせたドウェイン・ウェイド。

ドウェイン・ウェイド 2006ファイナル スタッツ
34.7得点 7.8リバウンド 3.8アシスト 2.7スティール 1.0ブロック

こうして振り返ると、やっぱりとんでもないですね。

NBA3シーズン目で、ファイナルMVPですから。

ドウェイン・ウェイドという若き天才を軸に、王朝を築くかと思われたヒートでしたが、翌シーズンは44勝38敗と勝ち星をのばせず。

プレーオフでも1stラウンドでシカゴ・ブルズにスウィープされてしまいます。

シャックを始めとした選手の高齢化と、ウェイドら主力のケガにより、チームは勢いを失い、優勝した2年後の2007-08シーズンには、15勝67敗でリーグ最下位に転落。

シャックやアントワン・ウォーカーなどを放出し、ヒートは再建期に入ったのです。

シーズン終了後に、パット・ライリーはヘッドコーチを辞任し、ヒートのCEOに専念すると、後任にエリック・スポールストラを指名しました。

レブロン ウェイド ボッシュ スリーキングスの時代

2010年7月8日、NBAの勢力図を一変させる大事件が勃発します。

ESPNが生放送した特別番組「The Decision」で、クリーブランド・キャバリアーズの大エース、レブロン・ジェームズが、マイアミ・ヒートへの移籍を発表したのです。

ショーアップされた生放送での、「自分の才能をサウスビーチへ持っていく。」という軽い発言と、パーティーのような演出には、多くの批判が集まりました。

7月1日に、無制限フリーエージェントとなっていたレブロンには、所属していたキャブスはもちろん、多くのチームが熱心に勧誘していましたが、多くのファンは、キャブスでの再契約を予想していました。

2年連続シーズンMVPを獲得し、チームを2年連続60勝以上に導いていたレブロンは、故郷でもあるクリーブランドで優勝を目指すと、わたくしリトルも疑っていませんでした。

もちろん、キャブスのオーナーであるダン・ギルバートも、レブロンの残留を疑っていなかったのでしょう。

レブロンが生放送でヒートへの移籍を発表した後、ダン・ギルバートはファンに向かって、レブロンの決断をおおやけに批判し、怒りをあらわにしました。

ドラフト同期で、トロント・ラプターズの不動のエース、クリス・ボッシュもヒートへの移籍をすでに発表しており、再契約のドウェイン・ウェイドとあわせて、最強の仲良し3人組、「スリーキングス」が誕生したのです。

NBA史上、最も強力で、最も嫌われたトリオの誕生でした。

2010-11シーズン、注目を集めたヒートは、圧倒的な個の力を武器に、58勝24敗を記録。

イースタンカンファレンス第2シードでプレーオフに進むと、圧倒的な強さをみせファイナルに進出。

ファイナルでは、レブロンの大ブレーキもあり(シリーズ平均17.8得点)、2勝4敗でダーク・ノビツキー擁するダラス・マーベリックスに敗れ去ります。

ファイナル第5戦の試合前には、風邪をおして出場していたノビツキーが咳をする姿を、ウェイドとレブロンが茶化してまねる姿がカメラにとらえられ、大バッシングを受ける事件もありました。

ヒートのヒール化が進んだファイナルとなりました。

2011-12シーズンは、ロックアウトによる短縮シーズンとなりますが、レブロンがシーズンMVPを受賞する大活躍をみせ、イースタンカンファレンス第2シードでプレーオフに進出。

クリス・ボッシュのケガによる離脱はあったものの、危なげなくカンファレンスファイナルまで進みます。

カンファレンスファイナルの相手は、こちらもBIG3を擁するボストン・セルティックス。

ポール・ピアース、ケビン・ガーネット、レイ・アレンのベテラン3人と、優秀なロールプレイヤーの揃うセルティックス相手に、ボッシュ抜きのヒートは、苦戦をしいられます。

第1戦、第2戦はヒートが勝利したものの、第3戦からセルティックスが3連勝。

2勝3敗と追い詰められたヒートでしたが、ボッシュの復帰もあり、土壇場で2連勝し、逆転でファイナルの切符を勝ちとりました。

ファイナルの相手は、オクラホマシティ・サンダー。

後にシーズンMVPを受賞する3人の天才、ケビン・デュラント、ラッセル・ウエストブルック、ジェームズ・ハーデン擁する、若さあふれるチームでした。

第1戦はデュラントとウエストブルックの勢いに飲まれ、94-105で落としますが、その後は圧倒的な強さをみせつけ4連勝。

マイアミ・ヒートにとって、2回目の優勝を果たします。

レブロン、ボッシュにとっては念願の初優勝でした。

翌2012-13シーズンに向けて、ヒートはライバルチームのボストン・セルティックスから、BIG3の一角であるシューターのレイ・アレンを獲得。

ライバルチームへの移籍は、セルティックス側(特にケビン・ガーネット)の怒りを買い、波紋を広げました。

しかし、レイ・アレンを獲得したことで、ヒートの運命は大きく変わることとなるのです。

2012-13シーズン、ヒートは66勝16敗と圧倒的な強さでレギュラーシーズンNBA全体1位。

レブロン・ジェームズは2年連続4度目のシーズンMVPを受賞します。

プレーオフでは、カンファレンスファイナルで、第7戦までもつれる苦戦をしいられますが、なんとかインディアナ・ペイサーズを4勝3敗で下し、ファイナルにたどり着きます。

ファイナルの相手は、百戦錬磨のサンアントニオ・スパーズ。

レブロンにとって因縁の相手でもありました。

6年前のファイナルで、レブロン擁するクリーブランド・キャバリアーズは、スパーズに0勝4敗のスウィープで敗れていたのです。

ティム・ダンカン、トニー・パーカー、マニュ・ジノビリの生え抜きBIG3 vs スリーキングスの戦いは、しびれるシリーズになりました。

第5戦を終えて、2勝3敗とあとがなくなったマイアミ・ヒート。

マイアミのホーム、アメリカン・エアラインズアリーナで行われた第6戦も、第4クオーター開始時点でスパーズが10点をリードする苦しい展開。

ヒートはなんとか追い上げるものの、残り28.2秒の時点で、5点のビハインド。

ここで、スパーズの優勝を祝うためのトロフィーが、コートサイドに準備されます。

会場にあきらめのムードが漂う中、ヒートの選手たちはあきらめていませんでした。

まず残り20.1秒の時点でレブロンが3ポイントシュートをヒット。

すぐにカワイ・レナードにファウルをすると、レナードは1本目のフリースローをミス。

2本目を決め、3ポイント差で残り19.4秒。

ヒートはエースレブロンが3ポイントを狙いますが、リングにはじかれ、万事休すかと思われました。

しかし、ゴール下でリバウンド争いを制したのは、クリス・ボッシュでした。

ボッシュがリバウンドをつかんだ瞬間、同じくリバウンド争いに参加していたレイ・アレンがすかさず3ポイントラインの外までバックしながら、パスを受け、必死でチェックに来たトニー・パーカーのはるか上空からシュートを放ちます。

美しい軌道を描いたシュートは、リングにふれることなく真ん中を射抜き、ヒートはついに同点に追いつきました。

絶体絶命のピンチをしのいだヒートは、オーバータイムのすえ、103-100で第6戦を制すると、最終第7戦にも勝利し、連覇を達成。

物議をかもしたレイ・アレンの移籍が、ヒートの運命を大きく変えたのでした。

翌2013-14シーズン、前年と同じくファイナルでサンアントニオ・スパーズと対戦。

3ピートを目指しましたが、スパーズに1勝4敗で完敗。

シーズン終了後にレブロンはクリーブランド・キャバリアーズに移籍し、スリーキングスの時代は終わりをつげたのです。

そしてジミー・バトラー時代へ

2016年7月に、ヒートのレジェンド、ドウェイン・ウェイドが故郷のシカゴ・ブルズに移籍。

2018年に再びヒートに復帰するものの、年齢による衰えは隠せませんでした。

そんな中、2017年のNBAドラフト1巡目全体14位でバム・アデバヨを指名。

2019年のドラフトでは、1巡目全体13位でタイラー・ヒーローを指名。

そして、2019年7月2日に、4チーム間のトレードでジミー・バトラーが加わり、新しいヒートの時代が始まったのです。

2019-20シーズン、コロナのためバブルで開催されたプレーオフで、ファイナルまで勝ち進んだチームは、惜しくも敗れたものの、今シーズン再度ファイナルに進出し、デンバー・ナゲッツと戦っています。

まとめ

今回は、マイアミ・ヒートの歴史を語ってきました。

パット・ライリーがヒートに植え付けた、勝者のメンタリティは、現在まで脈々と受け継がれています。

チームの誕生から、ニックスとの肉弾戦、ウェイドを中心とした初優勝、スリーキングスの王朝期、そしてジミー・バトラーを擁する現在のヒートを振り返ると、常に勝利を目指してきたチーム運営を思い知らされます。

タンクを知らないチームと言っていいでしょう。

チーム誕生から3年間は別として、その後2シーズン連続でプレーオフを逃したのは、2001-02、2002-03シーズンにかけての1度だけです。

常に勝利を目指すヒートのカルチャーに、ジミー・バトラーも惚れ込んだのでしょう。

これからも、球団として常に勝利を目指す姿勢で、ファンを熱くさせてくれることを期待しています。

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