【トリニティ・ロッドマンの父】伝説のリバウンド王 デニス・ロッドマンまとめ

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熱戦がくりひろげられているパリオリンピック。

バスケ男子日本代表は、目標としていた勝利にはとどかなかったものの、すばらしい戦いをみせてくれました。

フランス戦での誤審騒動などありましたが、とにかく日本代表の選手たちには心から大きな拍手を送りたいと思います。

NBAを35年間観つづけているわたくしリトルは、バスケだけではなくいろいろな競技を満喫しています。

8月3日に行われた女子サッカー決勝トーナメント1回戦、日本対アメリカ。

延長にまでもつれた大接戦。

勝負を決定づけたのは、アメリカ代表のフォワード、トリニティ・ロッドマンでした。

ピンクに染めた三つ編みでグラウンドを駆け回るすがたは、鬼滅の刃の「恋柱」甘露寺蜜瑠のようでしたね。

奇抜な髪の色で高い身体能力をもつ、ロッドマンといえば・・・

そうです。

トリニティ・ロッドマンの父は、デトロイト・ピストンズ、シカゴ・ブルズなどで大活躍したリバウンド王、デニス・ロッドマンなのです。

今回は娘のトリニティの活躍でふたたび脚光を浴びている、デニス・ロッドマンについて語ります。

目次

トリニティの父 デニス・ロッドマンとは

デニス・ロッドマン
201㎝ 95㎏ パワーフォワード
1961年 5月13日生まれ(63歳)


NBA通算スタッツ 911試合出場
7.3得点 13.1リバウンド 1.8アシスト FG52.1% 3P23.1%


受賞歴
NBAチャンピオン×5(1989 90 96 97 98)
NBA最優秀守備選手賞×2(1990 91)
NBAオールディフェンシブ1stチーム×7(1989-93 95 96)
NBAオールディフェンシブ2ndチーム(1994)
オールNBA3rdチーム×2(1992 95)
NBAオールスター×2(1990 92)
NBAリバウンド王×7(1992-98)
NBAフィールドゴール成功率1位(1989)
NBA75周年記念チーム(2021)

NBAのレジェンド、デニス・ロッドマン。

ディフェンスのスペシャリストで、得点することにはまるで興味がない、異色な選手でした。

7年連続のリバウンド王は歴代最高記録で、今後2度とやぶられないかもしれません。

身長201㎝でありながら、何度もボールに飛びつく姿には、本当にワクワクしました。

数試合ごとに変わる髪の色、前身に増えていくタトゥー。

アウトローな危ない魅力に満ちた、唯一無二の選手でしたね。

デトロイト・ピストンズで2度、シカゴ・ブルズで3度の優勝も経験しているロッドマンは、真のレジェンドだと思います。

娘のトリニティ・ロッドマンのプレーをみて「やはりロッドマンの身体能力を受けついどるなあ」と感じました。

ロッドマンの息子、DJ・ロッドマンも、ワシントン州立大学、南カリフォルニア大学で活躍していましたし。

ちなみに息子はシューターでしたけど(笑)。

少年時代~ドラフトまで

デニス・ロッドマンが、NBAでも屈指の人気者になった理由の一つに、ドラフトまでのドラマチックな人生があります。

ロッドマンは1961年5月13日にニュージャージー州トレントンで生まれました。

父親は軍人でしたが、ロッドマンが幼いころに愛人をつくり、家を出てしまいました。

母親と二人の姉妹と、スラムの公営住宅で育ったロッドマン。

二人の姉妹にはバスケットボールの才能がありました。

才能にあふれ、注目を集める姉妹に比べ、ロッドマンは背も低く、高校生の時までは全く無名の選手。

ロッドマンはレギュラーになることができず、高校2年生でバスケを辞めてしまいます。

もちろん大学からの勧誘もなく、空港で警備の仕事につきますが、時計を万引きをするなどして解雇。

一時はホームレスとして飢えをしのぐ日々を過ごしました。

しかし、20歳のころ、奇跡的に突如身長が20㎝近く伸び、201㎝の肉体を手にいれると、妹の友人の紹介でテキサスの短期大学に入学します。

その後サウスイースタン・オクラホマ州立大学にスカウトされ編入。

NCAA(全米大学体育協会)ではないリーグ(NAIA 全国大学体育協会)とはいえ、ロッドマンは1試合平均25.7得点、15.7リバウンドと驚異的な活躍をみせ、NBAのスカウトからも注目を集めます。

ロッドマンは1986年のNBAドラフト、全体2巡目全体27位でデトロイト・ピストンズに指名されました。

指名された時、ロッドマンはすでに25歳。

NCAAでのプレイ経験もなし。

全米のエリートが集まるNBAドラフトでは、異例の指名でした。

デトロイト・ピストンズ時代

ロッドマンは、デトロイト・ピストンズで運命の出会いを果たします。

当時ピストンズを率いていた、ヘッドコーチのチャック・デイリーです。

後に初代ドリームチームのヘッドコーチとなる名将は、まったく無名のオールドルーキーにとって、父親のような存在でした。

ルーキーシーズン1試合平均6.5得点、4.3リバウンドと、控え選手ながらドラフト2巡目ルーキーとしては合格点を与えられる記録を残したロッドマン。

そんなロッドマンに、チャック・デイリーHCは「ディフェンスとリバウンドを磨きなさい。誰もやりたがらないことを率先してやれば、いい暮らしが出来るようになる」と伝えます。

父親を知らずに育ったロッドマンは、チャック・デイリーの温かい言葉に心を打たれ、ディフェンスとリバウンドにより情熱を注ぎました。

当時のピストンズには、エースのアイザイア・トーマスを筆頭に、ビル・レインビア、リック・マホーン、そしてデニス・ロッドマンと、暴力的なまでに激しいディフェンダーがそろっていたため、「バッドボーイズ」と呼ばれ、〝最も対戦したくないチーム″と言われていました。

特にNBAの歴史上最も嫌われた選手と言われているビル・レインビアの激しさは、それはそれは凄まじいものでしたね。

ただ、レインビアはダーティーなだけでなく、非常にあたまのいいプレーヤーでもあります。

211cmと長身ではありながら、ジャンプ力のない白人。

運動能力はNBAでも底辺と言われていたレインビアでしたが、1985-86シーズンには1試合平均13.1リバウンドを記録し、リバウンド王のタイトルも獲得しています。

レインビアは、的確なポジションどりと、執拗になんどもボールに食らいつく執念で、リバウンドを奪いつづけました。

そんなレインビアのプレイを間近でみて、ロッドマンはリバウンドの極意を学びます。

対戦相手の選手や、チームメイトのシュートの傾向を分析し、リバウンドのポジショニングを研究。

相手のオフェンスのクセも頭にインプットし、鬼気迫るディフェンスで相手を追い詰めました。

身長は201㎝とリバウンダーとしては低かったものの、ロッドマンにはオリンピック級の身体能力があったのです。

2年目のシーズンは1試合平均11.6得点、8.7リバウンドと一気に成績を伸ばしてNBA選手としての地位を確立。

その後も順調にリバウンド数を増やし、NBAで最も恐れられるディフェンダーとなります。

ロッドマンの成長と共に、デトロイト・ピストンズのチーム力もアップします。

1987-88シーズン、ついにピストンズはNBAファイナルに進出。

この年ファイナルでは第7戦まで戦い、レイカーズに敗れてしまいましたが、翌1988-89シーズンと1989-90シーズン、2年連続チャンピオンとなり、〝バッドボーイズ″と呼ばれたデトロイト・ピストンズは、NBAの頂点に立ちました。

デニス・ロッドマンは、チャンピオンチームの主力として、誰もが認める選手となりました。

1990-91シーズン、プレイオフのイースタンカンファレンスファイナル0勝3敗で迎えたシカゴ・ブルズとの第4戦で事件は起きます。

ブルズの圧倒的な勢いに押され、ストレスNAXとなっていたロッドマンは、ブルズのスコッティ・ピッペンが、バックドアからレイアップシュートを狙った際、背後から飛びかかり、思いっきり観客席まで突き飛ばしたのです。

この時のプレイでピッペンは顎を6針縫うケガを負ったとされていますが、当時試合を観ていて、「これ、レインビアのせいじゃないかなあ?」と思っていました。

ロッドマンの突き飛ばし方が派手で目立ったんですが、レイアップに対してヘルプに行ったレインビアの肘が思いっきりあごにはいってたんです。

みんながロッドマンが・・・と言っていたのが、どうも納得できなかったことを、書いていて思い出してしまいました。

激しく突き飛ばされながらも、勝つことに集中し、冷静に対応していたピッペンが素晴らしかったです。

ピストンズを4勝0敗とスウィープしたシカゴ・ブルズは、初のNBAチャンピオンとなりますが、この時はまさか、のちにロッドマンがシカゴ・ブルズの一員としてチャンピオンになるとは、夢にも思わなかったですね。

翌1991-92シーズン。

ロッドマンの1試合平均リバウンド数は18.7!

初めてNBAのリバウンド王となります。

ちなみに2023―24シーズンのリバウンド王は身長211cmのドマンタス・サボニス(サクラメント・キングス)。

1試合平均13.7リバウンドで、サボニスにとって自己最高の記録です。

201cmのロッドマンが記録した18.7リバウンドがいかに驚異的かお判りでしょうか?

ロッドマンが能力を覚醒させていく中、次第にピストンズは勢いを失っていきます。

1991―92シーズン、プレイオフ1回戦でニューヨークニックスに2勝3敗で敗退し、ヘッド・コーチのチャック・デイリーは、チームを去りました。

1992-93シーズン、チャック・デイリーが辞任したピストンズは、40勝42敗で負け越し、バッドボーイズは崩壊していきます。

ロッドマンは、父と慕うチャック・デイリーを失い、私生活では離婚を経験し、愛する家族と離れ離れになったことも重なり、精神的に不安定な状態におちいり、ある事件を起こしてしまいます。

ある晩、ロッドマンはライフルを持ってトラックの中にいるところを発見されたのです。

のちに「自分の中のもう一人の自分撃ち殺して生まれ変わった」と語っていますが、衝動的に引き金を引かなくて本当によかったと思いますね。

精神的に不安定となりながらも、この年(1992-93シーズン)も1試合平均リバウンド数は18.3と高いレベルを維持し、2年連続リバウンド王。

確かな実力は見せつけました。

しかし、チームに不信感をもつ、精神的に不安定なロッドマンの扱いに困ったフロントは、ついにトレードでの放出を決定したのです。

サンアントニオ・スパーズ時代

移籍したのは、提督デビッド・ロビンソン擁するサンアントニオ・スパーズ。

ウエスタン・カンファレンスの強豪でした。

1993-94シーズン開幕戦、NHKの衛星放送を見て、大学生だったわたくしリトルは度肝を抜かれます。

ロッドマンの頭がおもいっきり金髪になっていたのです。

当時流行っていた映画「デモリッションマン」で、ウェズリー・スナイプスが演じた20世紀最大の犯罪者フェニックスにそっくりな金髪姿は、激しいリバウンドや執拗なディフェンスとあいまって、観る者を熱狂させました。

この年、ロッドマンは1試合平均17.3リバウンドで3年連続のリバウンド王を獲得。

チームのエースであるデビッド・ロビンソンは1試合平均得点29.8点で得点王を獲得。

チームは55勝27敗と第4シードでプレイオフに進むものの、1回戦でユタ・ジャズに敗れます。

ロッドマンは、勝利のかかった場面で消極的になるロビンソンへの不満を隠そうとしませんでした。

髪の毛の色を様々に変化させ、全身のタトゥーは次第に増えていき、数々の奇行が話題になるロッドマン。

海軍士官学校を卒業し、海軍士官として2年間の軍役も行った、規律正しい真面目なロビンソン。

二人のスターは、まさに水と油でした。

翌1994-95シーズン、スパーズはNBA全体1位の62勝20敗を記録。

エースのデビッド・ロビンソンはレギュラーシーズンMVPを獲得します。

ロッドマンも1試合平均16.8リバウンドで4年連続のリバウンド王を獲得。

しかし、この年ロッドマンは数々の問題を起こします。

バイク事故で肩を負傷し欠場

チームのイベントや練習に遅刻して出場停止

ヘッドコーチのボブ・ヒルに氷の入った袋を投げつける

カンファレンスセミファイナルの対レイカーズ第3戦タイムアウトの際、靴を脱いで話し合いに参加せず

結局、第1シードでプレイオフに進んだものの、カンファレンスファイナルで、この年優勝するヒューストン・ロケッツに敗れ去りました。

スパーズのフロントは、確かな実力がありながらも数々の問題を起こし、チームのエースであるロビンソンへの不満をあらわにするロッドマンに見切りをつけます。

その結果ブルズの前髪フーフー男、ウィル・パデューとの超不釣り合いトレードで、宿敵ブルズの一員となるのです。

シカゴ・ブルズ時代

まさか、あのロッドマンがジョーダンやピッペンと一緒に戦うとは!

当時働いていた職場に出勤した際、全然NBAに興味がない同僚から、「なんか派手で悪いのがブルズに行ったって?」と言われ、初めてトレードを知ったのを思い出します。

フィル・ジャクソンから、「ブルズに加わるならまずピッペンに謝れ」と言われ、素直に謝ったのは有名な話です。

例の〝観客席まで突き飛ばし事件″のことですね。

1995年3月、野球に挑戦していたマイケル・ジョーダンが復帰したものの、シカゴ・ブルズはプレーオフでオーランド・マジックに敗退。

1995-96シーズンになんとしてもチャンピオンに返り咲きたいブルズのフロントは、チームにデニス・ロッドマンという劇薬を注入したのです。

ブルズの代名詞となっている、複雑なトライアングルオフェンスを理解できるのかという周囲の心配をよそに、ロッドマンは誰よりも早くシステムをマスターし、ブルズ最後のピースとして躍動します。

チームは、当時歴代最高の72勝10敗(現在の記録はゴールデンステイト・ウォリアーズが2015-16シーズンに記録した73勝9敗)の記録を打ち立てました。

記録だけでなく、その人気も凄まじく、ジョーダン、ピッペン、ロッドマンのトリオは社会現象を巻き起こします。

特に、ロッドマンの人気はロドマニアと呼ばれる熱狂的なファン集団を生み出すほどでした。

数試合おきに髪の色を変え、自由気ままな言動で世間を騒がせ、プレーでは激しいリバウンドと相手のエースを抑え込むディフェンス、熱い闘志でファンの目をくぎ付けに。

バスケの世界で、ディフェンスをかっこいいもの」にしたのは、間違いなくロッドマンの功績だと思います。

シカゴ・ブルズは1995-96シーズンから3連覇を果たします。

1996ファイナル  対シアトル・スーパーソニックス 4勝2敗  MVPマイケル・ジョーダン

1997ファイナル  対ユタ・ジャズ         4勝2敗  MVPマイケル・ジョーダン

1998ファイナル  対ユタ・ジャズ         4勝2敗  MVPマイケル・ジョーダン

もちろん、チームのエースはマイケル・ジョーダンでしたが、後期3ピートはロッドマンなくしては、成し遂げられなかったでしょう。

特にユタ・ジャズとのファイナルでの、カール・マローンとの肉弾戦は、感動的ですらありました。

結局ブルズに所属していた3年間、ロッドマンはすべてリバウンド王になっています。

7年連続リバウンド王は、いまだに破られていないNBA歴代ナンバー1の記録です。

1997-98、「ラスト・ダンス」と呼ばれたシーズンで最後の優勝を勝ち取ると、最強ブルズは解散してしまいます。

マイケル・ジョーダンは引退。

スコッティ・ピッペンはヒューストン・ロケッツへ移籍。

デニス・ロッドマンもチームを去り、しばらくどのチームにも属さない期間がありましたが、1999年2月にロサンゼルス・レイカーズと契約。

最強ブルズの解体は、あっけないものでした。

当時シャック&コービーを擁する、強豪レイカーズに加入したロッドマンでしたが、NBAの世界で再び輝くことはありませんでした。

同年4月に解雇となり、翌年ダラス・マーベリックスと契約するも、シーズン途中で解雇され、NBAを去っていきました。

レギュラーシーズン 生涯で1試合平均7.3得点 13.1リバウンド 1.8アシスト 7年連続リバウンド王

とても201cmしかない選手の記録だとは思えません。

数字以上に大きなインパクトを残し、リバウンドやディフェンスといった人が嫌がるプレー(私も学生時代ディフェンス嫌でした)を、かっこいいものに変えたスーパースター、デニス・ロッドマン。

マイケル・ジョーダンのように7年連続得点王は今後も出てくるかもしれませんが、ロッドマンの7年連続リバウンド王の記録はなかなか破られないのではないでしょうか?

NBA選手の平均身長に近い201cmしかないロッドマンが打ち立てた記録は、とてつもないNBA記録です。

まあ、ジョーダンも野球に挑戦しなければ12年連続得点王をとっていたかもしれませんけどね(実際は得点王10回)。

悪童デニス・ロッドマン バスケの殿堂入り

2011年2月11日、デトロイト・ピストンズはロッドマンのピストンズ在籍時の背番号10を永久欠番とすることを発表します。

そして2011年4月4日、クリス・マリン、アルビダス・サボニス(ドマンタス・サボニスの父)などと一緒に、バスケの殿堂入りを果たすのです。

殿堂入りの受賞式で、ロッドマンは、ロッドマンらしさを爆発させました。

背中にバスケットボールの柄と、「PISTONS」「BULLS」とラメが入ったド派手なスーツ。

顔にはたくさんのピアス。

プレゼンターのフィル・ジャクソンと抱き合うと、感極まった様子のロッドマンは言葉につまると、なかなか一言目が出ません。

一言目はまさかの「スコッティごめんね」。

祝福に来ていた前年殿堂入りしていたスコッティ・ピッペンに向けた一言でした。

その後多くの人に感謝を述べた後、嗚咽をもらし、言葉に詰まるロッドマン。

発した言葉は、「俺は金のためにプレーしていたんじゃない。有名になるためにプレーしていたわけでもない。ただ、クールでカラフルな人間でいたかっただけだ。」でした。

当時のロッドマンのプレーを思い出すと、とてもしっくりくるロッドマンらしい言葉でしたね。

「デビッド・スターンとNBAコミュニティーの皆さんに、このビルの中に入れて下さったことにすら感謝しています」と爆笑をとることも忘れなかったロッドマン。

その後の感動的なスピーチは、ぜひ動画でご覧ください。

まさかロッドマンのスピーチで涙するとは思いませんでした。

何事にも全力で、自分にウソをつかないロッドマンの、嘘いつわりのない言葉が心に突き刺さりました。

まとめ

デニス・ロッドマンは、わたくしリトルが35年間NBAを観つづけてきた中でも、唯一無二の存在です。

ディフェンスとリバウンドにすべてを注ぎ、研究し、勝利のために全力でプレーする姿。

派手な見た目とは違い、どこまでも純粋、ストイックで真面目なロッドマン。

引退後は、北朝鮮に渡り、金正恩(キム・ジョンウン)総書記と友好関係を築いたり、バスケ女子アメリカ代表のグライナー選手を救いに、ロシアに渡ることを決心したり、世界をハラハラさせています。

「ロッドマン大丈夫か?正気ですか??」と心配にもなりますが、周囲の人々の常識なんかロッドマンは屁とも思っていないのでしょう。

自分の信念にしたがい、研究し、全力でトライする。

ロッドマンなら、常識をぶっ壊して世界を変えれるんじゃないか・・・

そんな気も、ちょっとだけするんですよね。

女子サッカー日本代表を応援してきましたが、残念ながらトリニティ・ロッドマンの素晴らしい一撃に敗れ去りました。

今後はアメリカ代表を、そしてトリニティ・ロッドマンを応援していこうと思います。

パリオリンピックで躍動するトリニティ・ロッドマンを観ていると、なんだか知り合いの娘を応援しているような気がしちゃいますね。

トリニティのおかげで、デニス・ロッドマンに思いをはせてしまいました。

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