前回、〝RUN TMC″について記事を作成した際、クリス・マリンへの熱い思いが再燃してしまいました。
わたくしリトルが約35年間NBAを観続けて来た中で、一番夢中になった選手がクリス・マリンです。
マイケル・ジョーダンやコービー・ブライアント、レブロン・ジェームズらのスーパースターのプレーは観ていて本当にワクワクさせてくれますが、プレイヤー目線でみると、あまり参考になりません。
身体能力が凄すぎてマネできないんです。
その点クリス・マリンの場合、NBA選手の中でスピードやジャンプ力は平均以下。
卓越したシュート力と独特なリズムのステップ、そしてテクニックで得点を量産するスタイルは、おおいに参考になりました。
とにかく、マリンのシュートフォームの美しさは、NBA歴代ナンバー1だと勝手に思っています。
今回は、「RUN TMC vs スプラッシュブラザーズ 【ティム・ハーダウェイ殿堂入り記念】」の記事だけでは語りきれなかったクリス・マリンについて、より深く紹介します。
クリス・マリンの基本情報と通算成績
本名 クリストファー・ポール・マリン(Christopher Paul Mullin)
生年月日 1963年7月13日
身長・体重 201cm ・ 98kg
出身 ニューヨーク州 ブルックリン
出身大学 セント・ジョーンズ大学 (ニューヨーク)
ポジション スモールフォワード
背番号 17(元セルティックスのジョン・ハブリチェックに憧れて)
NBA通算記録
レギュラーシーズン 1試合平均 18.2得点 4.1リバウンド 3.5アシスト 1.6スティール
プレーオフ 1試合平均 13.8得点 3.3リバウンド 2.1アシスト 1.0スティール
クリス・マリンはNBAで16シーズンに渡り活躍、プレーオフには8回出場しています。
オールスターには5回選出(1993年は怪我のため選出されながら不出場)、うち2回はファン投票で先発出場。
オールNBA1stチームに1度(1992年)、2ndチームに2度(1989年 1991年)、3rdチームに1度(1990年)選出されています。
また、1984年のロサンゼルスオリンピック、1992年のバルセロナオリンピックと2つの金メダルも獲得しているスーパースターです。
しかし、初代ドリームチームの選手の中で当時大学生だったクリスチャン・レイトナーを除くと、マリン一人だけが1996年に発表された〝NBA50周年記念オールタイムチーム″から外れるなど、過小評価されているようにも感じてしまいます。
後述しますが、マリンの通算記録の中で、プレーオフの記録がレギュラーシーズンより大幅に低いのは、勝負弱いのではなく、力の落ちてきたキャリア後期に強豪のインディアナ・ペイサーズで3年連続プレイオフ進出をしたためです。
若いころのように動けなくても、エースのレジー・ミラーやリック・スミッツ、ジェイレン・ローズなどを助けるいぶし銀の働きで、ペイサーズの快進撃に貢献していました。
ちなみに、スピードもジャンプ力もないマリンは、ディフェンスができなかったイメージもついているようですが、平均スティールの1.6は、レブロン・ジェームズの現在までの生涯平均スティールとほぼ同じです。
幼少期~大学時代
クリス・マリンはニューヨーク州ブルックリンに生まれました。
バスケ好きな家族の中で育ち、幼いころからプレイグラウンドで技を磨いたマリンは、高校生になるとオールアメリカンに選出されるまでの選手となります。
複数の大学に勧誘を受けたマリンは、地元のセント・ジョーンズ大学に進学。
1年生から強豪チームのスターターとして活躍します。
大学3年生の時には、マイケル・ジョーダンやパトリック・ユーイングらとともにロサンゼルスオリンピックに出場。
平均32点差をつける圧倒的な強さで金メダルを獲得したアメリカ代表の中で、マリンはジョーダン(1試合平均17.1得点)に次ぐ1試合平均11.6得点を記録。
実力を世界にアピールすると、大学4年時にはエースとしてセント・ジョーンズ大学を33年ぶりのNCAAトーナメントファイナル4に導く大活躍をみせます。
同地区のライバルであるパトリック・ユーイング擁するジョージタウン大学に敗れたものの、マリンは2年連続のオールアメリカンに選出され、大学バスケ界のMVPに贈られるジョン・ウッデン賞も受賞しました(ちなみに前年の受賞者はマイケル・ジョーダン)。
大学時代は4年間でセント・ジョーンズ大学の記録となる、2440得点、1試合平均19.5得点と活躍。
輝かしい記録を打ちたて、NBAの世界に進みました。
ゴールデンステイト・ウォリアーズ時代
1985年 NBAドラフト
1984-85シーズン、NBAではある問題が発生していました。
現在でのNBAでも問題となっているタンク(ドラフト上位指名の権利をとるためにわざと負ける)行為です。
1985年のドラフトではパトリック・ユーイングを指名するために、敗北合戦が勃発。
NBAは事態を憂慮しこの年から、現在も続くドラフトロッタりー制を導入します。
1984-85シーズン、リーグ最下位だったゴールデンステイト・ウォリアーズは、本来2分の1の確率でユーイングを獲得できるはずでしたが、ロッタリーによるくじ引きで、ドラフト7位の指名権となってしまいました。
当時ウォリアーズのフロントは頭を抱えたと思いますが、結果7位でクリス・マリンを指名。
ドラフト2位~6位の選手で、後にフランチャイズプレイヤーとなる選手はおらず、オールスターに参加した選手も4位で指名されたゼイビア・マクダニエルだけでした。
新人~アルコール依存症との闘い
ルーキーシーズン55試合に出場し、うち30試合で先発をつとめると、1試合平均14得点を記録。
特にフリースロー成功率は89.6%と、ルーキーとしてはリーグ史上2番目に高い記録でした。
新人王争いではパトリック・ユーイングに敗れましたが、上々のスタートをきります。
2年目は全82試合に先発出場。
平均得点を15.1得点と伸ばし、フィールドゴール%は51.4%と高確率でシュートを決め続けます。
マリンは、弱小チームだったゴールデンステイト・ウォリアーズを、10年ぶりのプレイオフに導く大活躍をみせたのです。
順風満帆に思えたマリンのプロ生活でしたが、大きな問題に直面します。
幼少期から誰よりもストイックに練習に取り組んできたマリンは、NBA選手となっても努力を怠りませんでした。
プロとして努力することは当たり前ですが、当時のウォリアーズは9年連続プレイオフを逃していた弱小チーム。
バスケットボールを仕事としか見ていない選手たちの中で必死に努力しているマリンは、冷たい目で見られていました。
大学生の時から大の酒好きだったマリンは、孤独を紛らわせるため、次第にアルコールに頼るようになってしまいます。
3年目のシーズン、マリンの体重は10キロ以上増え、精神的にもバスケに集中できなくなっていきます。
アルコール依存症の症状によるものでした。
このままではいけないと立ち上がったのが、当時バックスのヘッドコーチを辞任し、ウォリアーズのGMとなっていたドン・ネルソン。
「自分自身から逃げてはいけない。」とドン・ネルソンに諭されたマリンは、1987年12月にアルコール依存症の治療施設に入所をします。
1か月半に渡り治療を続け、心身ともにシェイプしたマリンは、「ドン・ネルソンが背中を押してくれなかったら今の自分はない。彼に背中を押されたんだ。」と感謝し、以前にもまして努力を続けるようになりました。
1988年1月にコートに復帰すると、残りのシーズンで1試合平均21.2得点を記録。
チームは大きく負け越しますが、マリンの人生を大きく変えた、チームにとっても大きな1年でした。
RUN TMCの結成から崩壊
1988-89シーズンからは、マリンの人生を変えたドン・ネルソンがヘッドコーチに就任。
また、1988年ドラフト1巡目全体5位で、カンザス州立大学のミッチ・リッチモンドを指名すると、リッチモンドは、ルーキーシーズンから大活躍。
1試合平均22.0得点 5.2リバウンド 4.2アシストで新人王を獲得します。
マリンは、1試合平均26.5得点 5.9リバウンド 5.1アシストと数字を伸ばし、エースの座をゆるぎないものとしました。
ドン・ネルソンは、選手の得点能力の高さを生かすため、速攻主体でとにかく点を取りまくるRUN&GUNの戦法をとりいれ、旋風を巻き起こします。。
前シーズン(1987-88)の1試合平均得点107.0(NBA全体14位)が、116.6得点(全体4位)と大幅に向上。
大きく負け越し、プレイオフには進出できなかったものの、マリンは、初めてオールスターに出場し、オールNBAセカンドチームに選出されるなど、飛躍した1年になりました。
1989年ドラフト1巡目全体14位でティム・ハーダウェイが加入、1試合平均14.7得点 8.7アシストと、インパクトを残します。
ティム・ハーダウェイ、ミッチ・リッチモンド、クリス・マリンの3人は走りまくって点をとりまくるプレースタイルから、RUN TMCと呼ばれるようになり一世を風靡するのですが、そこは別記事でご覧ください。
1991-92シーズン開幕前に、ドラフト3位で指名されたルーキー、ビリー・オーウェンスとのトレードでミッチ・リッチモンドがサクラメント・キングスに移籍し、RUN TMCが解体となった後も、ウォリアーズはさらに成績を伸ばし、55勝27敗と躍進。
マリンも1試合平均25.6得点 5.6リバウンド 3.5アシスト 2.1スティールを記録し、堂々オールNBAファーストチームに選出されました。
しかしプレーオフではファーストラウンドでシアトル・スーパーソニックスに1勝3敗で敗退。
RUN TMC解体という荒療治を行いながら結果が出なかったことに、ファンの不満も大きくなってしまったシーズンでした。
ドリームチーム参加~怪我との闘い
シーズン終了後にマリンはアメリカ代表、通称ドリームチームの一員としてバルセロナオリンピックに出場。
圧倒的な強さで金メダルを獲得します。
最近、「ドリームチームになぜクリス・マリンが選ばれているのか?」という失礼な書きこみをみました。
おそらく、当時を知らない若いファンの書きこみだと思いますが、当時クリス・マリンの選出に文句を言う人はいなかったんじゃないでしょうか?
メンバー発表をみて最初に感じたのは、「なぜピッペン?」でした。
当時のピッペンは、まだジョーダンに叱られながら成長途中のイメージだったので、他のドリームチームメンバーと比べると・・・。
結果ポイントガードがケガで離脱し、ピッペン様様となるのですが。
マリンはドリームチームの中でも卓越したシュート力とバスケットIQの高いパスで優勝に貢献。
3ポイントは50%の高確率でした。
1992-93シーズン、クリス・マリンは右親指のじん帯断裂のケガで、82試合中36試合を欠場。
チームも負け越し、プレーオフを逃すします。
このシーズンを機に、マリンはケガとの闘いに突入していきます。
膝やハムストリングのケガのため、出場試合が減少。
また、1992年のドラフト1巡目全体24位でウォリアーズに指名されたラトレル・スプリーウェルが頭角を現し、1994年から3年連続オールスターに選出。
ウォリアーズは怪我がちで衰えのみえるベテランのマリンから、若くてい勢いのあるスプリーウェルを中心としたチームづくりへ舵をきります。
マリンにとってウォリアーズ最後の年1996-97シーズン、久しぶりに健康に過ごし79試合に出場。
しかし衰えは隠せず、1試合平均14.5得点 4.0リバウンド 3.5アシストと個人成績は下降していました。
インディアナ・ペイサーズ時代
1996-97シーズン終了後に、マリンはインディアナ・ペイサーズにトレードされます。
ペイサーズは1996-97シーズン39勝43敗と負け越し、ヘッドコーチのラリー・ブラウンが辞任。
新ヘッドコーチはドリームチームでマリンと共に戦った〝レジェンド″ラリー・バード。
若い時からラリー・バード2世と言われてきたマリンにとって、特別な存在でした。
ペイサーズのエースはレジー・ミラー。
かつてマリンがウォリアーズでそうであったように、誰もが認めるチームの象徴でした。
ポイントガードのマーク・ジャクソン、センターのリック・スミッツと軸になる選手も揃い、戦力的には十分揃っているチームで、マリンは縁の下の力持ち的な働きを求められます。
1997-98シーズン、マリンは1試合平均11.3得点 3.0リバウンド 2.3アシストと自己最低の個人成績に終わりました。
しかし、ペイサーズは58勝24敗、イースタンカンファレンス2位の好成績をあげ、ラリー・バードは最優秀ヘッドコーチ賞を受賞。
34歳になり運動能力は落ちてきても、マリンの経験とシュート力は、ペイサーズをワンランク上のチームに押し上げたのでした。
プレーオフではクリーブランド・キャバリアーズ、ニューヨーク・ニックスを危なげなく破り、カンファレンスファイナルでシカゴ・ブルズと対戦。
ブルズの1997-98シーズンは〝ラストダンス″と呼ばれる特別なシーズン。
フィル・ジャクソンHC、マイケル・ジョーダン、スコッティ・ピッペン、デニス・ロッドマンら後期3連覇のメンバーが揃う最後のシーズンでした。
ブルズは2度目の3ピートを目指し、レギュラーシーズンを62勝20敗とイースタンカンファレンス1位でプレイオフに進み、危なげなくカンファレンスファイナルまで進出。
圧倒的な王者を前に、ペイサーズは総力戦で闘いました。
ミラー、ジャクソン、スミッツ、マリンに加え、デイル・デイビスとアントニオ・デイビスのデイビスブラザーズ、マリンの控えとして力をつけたジェイレン・ローズ、勢いのあったポイントガードのトラビス・ベストなど、地味でもチームのために身体をはれるブルーワーカーが揃っていました。
王者ブルズが先に2勝すると、次の2戦はペイサーズがどちらも2点差で勝利。
第5戦はブルズが19点差で圧勝すると、第6戦はスミッツ、デイル・デイビスのインサイドが爆発し、ペイサーズが取り返す白熱の展開。
迎えた第7戦は、ヒリヒリするようなディフェンス合戦の末、88対83でシカゴ・ブルズが勝利し、ペイサーズは敗退しました。
マリンはこのシリーズ1試合平均6.4得点 3.4リバウンド 1.0アシストと数字は伸ばせず。
要所で流れを変えるプレーもありましたが、衰えは顕著になっていきました。
翌1998-99、マリンはスターターとして50試合(50試合の短縮シーズン)出場しますが、ベンチから出てくるジェイレン・ローズの成長が著しいシーズンでした。
チームは2年連続カンファレンス決勝まで進みますが、レギュラーシーズン8位でプレイオフに進出してきた〝ミラクル″ニックスに2勝4敗で敗退。
1999-00シーズン、ペイサーズはついにNBAファイナルに進出します。
エースのミラーに加え、ジェイレン・ローズがMIP(最も成長した選手に与えられる賞)を受賞する活躍をみせていました。
敵はシャキール・オニール、コービー・ブライアント擁するロサンゼルス・レイカーズ。
結果4勝2敗でレイカーズが勝利し、ラリー・バード率いるペイサーズは涙を飲みました。
このファイナルでのマリンの出場時間は6試合で合計12分のみ。
決めた得点は2点のみでした。
翌2000-01シーズン、マリンは古巣のゴールデンステイト・ウォリアーズで20試合に出場し、現役生活の幕をおろします。
バスケットボールのエリート選手として成長し、アルコール依存症と闘い、時にはエースとして、時には若い選手を陰から支えるベテラン選手として、チームに貢献した16年間でした。
2011年にはバスケットボール殿堂入りを果たし、ウォリアーズでは背番号17が永久欠番となっています。
2018年、ウォリアーズがスプラッシュブラザーズ中心のチームで3回目の優勝を果たし、大勢のファンの中、優勝パレードが行われます。
この時、ステフィン・カリーがかぶっていたキャップには〝RUN TMC″の文字が。
かつてのゴールデンステイト・ウォリアーズを支えた先輩たちに対する敬意を感じるシーンでした。
引退後のクリス・マリン
現役引退後、マリンはテレビの解説者やサクラメント・キングスの相談役、ウォリアーズのGMなどをつとめ、2015年からは母校セント・ジョーンズ大学のヘッドコーチとなります。
2016年にはアシスタントにミッチ・リッチモンドを招聘し、母校のバスケットボールファンを大いに盛り上げました。
ヘッドコーチを4シーズンつとめたあとは、テレビ解説者として活躍しています。
最後に、クリス・マリンが今でもいかにすごいシューターであるのか、観てほしい動画があります。
サクラメント・キングスの相談役をつとめていた時のものです。
やはりNBAで歴史をつくった人間はとんでもないんだということを、まざまざと見せつけられました。
やっぱりクリス・マリン最高ですね。
まとめ
今回はゴールデンステイト・ウォリアーズの英雄、クリス・マリンについてまとめました。
こうして振り返ると、意外な事実も発見できます。
3ポイントシュートの名手として知られるマリンですが、キャリア初期はあまり3ポイントを多用しておらず、確率も30%を切ることもありました。
RUN TMCが最も活躍した1990-91シーズン、マリンの3ポイント%は30.1%です。
当時は現在のように3ポイントが重要視されていなかったこともありますが、体が動く若い時期のマリンは、さまざまなテクニックで、1対1でディフェンスを出し抜いて得点と取り続けていました。
1992-93シーズン、3ポイント%は45.1%の高確率を記録し、以降は引退まで高水準の記録を残します。
要因としては、まずドリームチームとして参加したバルセロナオリンピックの経験があげられます。
世界のバスケに触れ、インサイドの身体能力頼みのバスケでは限界があると感じたのではないでしょうか?
実際マリンの3ポイントは、アメリカの大きな武器になっていました。
また、1992-93シーズンじん帯断裂の大けがによって、運動能力が低下したこともよりシュート力向上したことの一因でしょう。
プレースタイルの変更には、考えられない努力が必要だったと思いますが、その努力をできることがクリス・マリンの強みだと思います。
今回記事を書いて、これまで以上にクリス・マリン愛が強くなりました。