ペイサーズの英雄レジー・ミラー伝説 ジョーダンとの因縁 首絞めポーズ

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2024-25シーズン、プレーオフの主役となったインディアナ・ペイサーズ。

クラッチタイムで奇跡的な活躍をつづけるタイリース・ハリバートンに、注目が集まりました。

ニューヨーク・ニックスとのカンファレンスファイナル第1戦、第4クオーター終了のブザーと同時に3ポイントシュートを決めたハリバートンは、両手で自分の首を絞める〝チョークポーズ″を披露。

ハリバートンの視線の先にいたのが、解説席に座るレジー・ミラーでした。

NBAでの18シーズンをペイサーズで過ごしたミラーは、数々の奇跡を起こし、インディアナのファンから絶大な信頼を勝ちとってきたレジェンドシューターです。

今回ハリバートンが披露したチョークポーズは、ミラーが1994年のプレーオフイースタンカンファレンスファイナル、対ニックス戦で、熱狂的なニックスファンスパイク・リーに向かってみせた伝説のポーズ。

ハリバートンのミラーに対するリスペクトがこめられたセレブレーションでした。

今回はペイサーズの大躍進で再注目されているレジー・ミラーの、数々の伝説を語っていきたいと思います。

レッツラゴー!

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目次

レジー・ミラー 基本情報

レジー・ミラー 基本情報
本名    レジナルド・ウェイン・ミラー
誕生日   1965年8月24日
出身地   カリフォルニア州リバーサイド
サイズ   201㎝ 88㎏
出身大学  UCLA
NBAドラフト  1987年1巡目全体11位(ペイサーズ)
NBA所属チーム インディアナ・ペイサーズ(1987-2005)
ポジション  SG
背番号    31


レジー・ミラー受賞歴
NBAオールスター×5(1990 95 96 98 00)
オールNBA3rdチーム(1995 96 98)
50-40-90クラブ(1994)
フリースロー成功率1位(1991 99 01 02 05)

インディアナペイサーズ永久欠番「31」(2006)
バスケットボール殿堂入り(2012年)
NBA75周年チーム(2021)

レジー・ミラーも今年で60歳になるんですね。

今回記事をまとめてみて感じたことは「思ったよりも受賞歴少ないな」でした。

18シーズンのうちオールスター選出は5回のみ。

オールNBAチームにも3rdチームに3回選出されただけなのも、ミラーのインパクトを考えると少ないなあと感じました。

記録より記憶に残る選手の代表格がレジー・ミラーなのかもしれません。

レジー・ミラー スタッツ

レジー・ミラー 通算スタッツ
1389試合(うち先発1304試合) 平均34.3分出場
18.2得点 3.0リバウンド 3.0アシスト 1.1スティール
FG47.1% 3P39.5% FT88.8%
3P試投数6486本 成功数2560


レジー・ミラー ベストシーズンスタッツ(1989-90)
82試合 平均38.9分出場
24.6得点 3.6リバウンド 3.8アシスト 1.3 スティール
FG51.4% 3P41.4% FT86.8%
3P試投数362本 成功数150本

18シーズンにわたり、1389試合に出場。

生涯通算の3ポイントシュート成功率は39.5%と高い確率を残しています。

3ポイントの成功数2560本は、2025年6月時点でステフィン・カリー、ジェームズ・ハーデン、レイ・アレン、デイミアン・リラードに次ぐ歴代4位です。

ミラーが最後にオールNBA(3rd)に選ばれた1997-98シーズン、1試合におけるチームの3ポイント試投数は平均12.7本でした。

これが2024-25シーズンのチーム3ポイント試投数は平均37.6本と、約3倍になっています。

現代バスケほど3ポイントシュートが重要視されない中での、ミラーの「3ポイントシュート2560本成功」という記録は、恐るべき記録だといっていいでしょう。

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ミラー伝説① スポーツ一家と足の障害

レジー・ミラーは家族仲のよい、理想的な家庭に生まれました。

生まれつき足が変形していたミラーは、4歳までギプスを装着しなければ歩行もできない幼少期をすごします。

足の矯正が終わり、運動ができるようになると、ミラーは兄弟たちとスポーツを楽しむようになりました。

ミラー家はスポーツ一家として有名です。

兄ダレルはメジャーリーグのカリフォルニア(現ロサンゼルス)エンゼルスのキャッチャーとして活躍。

そして一つ年上の姉のシェリルは、女子バスケットボール界のスーパースターでした。

シェリル・ミラーはロサンゼルス・オリンピックの女子バスケットボール競技で、アメリカの金メダル獲得に大きく貢献し、1995年には女子バスケットボールの殿堂入りを果たしています。

高校時代のレジーが試合で39得点をあげ、意気揚々と自宅に帰ると、姉がカリフォルニア州の高校記録となる105得点をあげていたという有名な逸話がありますが、これはもう〝レジー・ミラーのすべらない話″ですね。

ミラー伝説② 1987年NBAドラフト

カリーム・アブドゥル・ジャバーを輩出したバスケの名門大学カリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)に進学し、ジャバーに続くUCLA歴代2位の通算得点を記録したミラーは、1987年のNBAドラフトにエントリーしました。

1987年のNBAドラフトは全体1位でデビッド・ロビンソン(スパーズ)、5位でスコッティ・ピッペン(ブルズ)、7位でケビン・ジョンソン(キャブス)が指名されています。

ミラーは1巡目全体11位でインディアナ・ペイサーズに指名されたのですが、これは当日のハプニング的な指名でした。

当初ペイサーズは、司令塔のマーク・ジャクソンを指名する予定でしたが、球団社長のドニー・ウォルシュのひらめきで、急遽ミラーの指名に切りかえたのです(本命はケビン・ジョンソンでしたが、順位的に難しかった)。

ミラーの名が呼ばれた時に、会場でブーイングが起こったことが、今では信じられませんね。

マーク・ジャクソンはその後1巡目全体18位でニューヨーク・ニックスに指名されると、1年目から大活躍をみせました。

ミラーはルーキーシーズン、82試合すべてに出場(先発は1試合のみ)したものの、平均10.0得点 2.3リバウンド 1.6アシストに終わります。

対してマーク・ジャクソンは82試合すべてに出場(先発は80試合)し、平均13.6得点 4.8リバウンド 10.6アシストに加え、2.5スティールも記録し、ルーキー・オブ・ザ・イヤーに輝いています。

ルーキーシーズンだけをみると「ペイサーズやらかしちゃったな」と言う人も多かったでしょうが、その後ミラーがペイサーズの象徴となったことを考えると、ウォルシュ社長の大ファインプレーだったことは間違いないですね。

ちなみにマーク・ジャクソンは、1994-1996、1997-2000と2度にわたってペイサーズでプレーしています。

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ミラー伝説③ 神様ジョーダンとの乱闘

ミラーはNBA2年目でスターターの座を勝ちとり、平均16.0得点を記録。

3年目の1989-90シーズンにはチームトップとなる平均24.6得点を記録し、初めてのオールスターに選出されます。

インディアナ・ペイサーズのエースとして誰もがみとめる存在となったミラーには、3ポイントシュートのほかにも得意なものがありました。

トラッシュトークです。

闘争心の強いミラーは、子供のころから相手の感情を逆なでするようなトラッシュトークを多用していました。

NBAの世界でも常に言葉で攻撃していたため、相手が逆上し乱闘に発展することも少なくありませんでした。

その象徴が現地時間1993年2月10日に行われたペイサーズvsブルズ戦での、ミラーvsジョーダンの乱闘劇です。

当時のジョーダンはシカゴ・ブルズで2連覇を達成し、NBAを最高のエンターテイメントに押しあげたスーパースターとして、世界中のバスケットボールプレイヤーから尊敬を集める存在でした。

対してミラーはNBAで5シーズン目でオールスター出場は1度のみで、ジョーダンよりも3歳下。

スモールマーケットのインディアナでは不動のエースでしたが、ジョーダンとはまだライバルとはいえない存在でした。

この日マッチアップしたミラーとジョーダンは試合開始序盤から激しいトラッシュトークの応酬。

両者がヒートアップする中、ペイサーズがスティールから速攻をしかけます。

ペイサーズのプー・リチャードソンが速攻からレイアップに持ち込むところを、ジョーダンが必死にブロックに飛びますが、一歩及ばず。

しかしリチャードソンはレイアップをミス。

ジョーダンの後方を走ってきたミラーがタイミングよくジャンプし、ゴールからこぼれたボールをタップで押しこみました。

着地したミラーは、ゴール下でジョーダンに体当たりするかたちとなります。

そこまで激しいアタックには見えなかったのですが、それまでのトラッシュトークによるイライラもあったのか、鬼のような形相でミラーに体当たりをするジョーダン。

ジョーダンの目は完全にイッチャッてましたね。

ジョーダンはミラーの顔をかきむしり、あごにパンチをかまします。

両チームの選手が二人を必死に止めようとする中、ミラーも神様マイケル・ジョーダンに向かってパンチをふるったものの、わずかに届きません。

両チームの選手、コーチらが総出で二人を引き離し、なんとか大事にはいたりませんでしたが、とにかく観ていてドキドキしたのを覚えています。

あの時のジョーダンは、まるで全盛期のマイク・タイソンのようで、本当に恐ろしかったんです。

ただもっと恐ろしかったのは、レフェリーの協議の結果、パンチをくらったミラーだけが退場になったことですね。

神の力は偉大だということを思い知らされた事件でした。

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ミラー伝説④ 1994年対ニックス 首絞めポーズ

ミラーの活躍によって、弱小チームだったペイサーズは、プレーオフ常連チームへと変貌していきます。

1990年に初めてプレーオフに出場したミラーは平均20.7得点と活躍したものの、第1シードの〝バッドボーイズ″デトロイト・ピストンズにスウィープ負け。

その後も1stラウンドでの敗退がつづきましたが、初めて1stラウンドを突破した1994年のプレーオフで、ミラーは伝説をつくりました。

1stラウンドでオーランド・マジック、カンファレンスセミファイナルで第1シードのアトランタ・ホークスをやぶったペイサーズは、カンファレンスファイナルで第2シードのニューヨーク・ニックスと戦います。

パトリック・ユーイングを中心に、チャールズ・オークリー、ジョン・スタークス、アンソニー・メイソンら屈強なディフェンダーがそろったニックスは、パット・ライリーHCのもとで大躍進をとげていました。

1993-94シーズン、第1シードのホークスと並ぶ57勝25敗を記録していたニックスは、恐ろしいほどのディフェンスと、インサイドでの強さを武器に前年まで3連覇していたシカゴ・ブルズ(ジョーダン抜き)をカンファレンスセミファイナル第7戦で倒し、勢いに乗っていました。

圧倒的ニックス有利と言われる中、ペイサーズも一歩も引かず、2勝2敗でむかえたニューヨーク・マジソンスクエアガーデンでの第5戦に、伝説のチョークポーズ(首絞めポーズ)が飛び出します。

58-70とペイサーズが12点のビハインドでむかえた第4クオーター。

劣勢の展開から、レジー・ミラーの連続シュートでペイサーズが追い上げを開始。

マジソンスクエアガーデンの最前列でヤジを飛ばすニックスの応援団長、映画監督のスパイク・リーと激しく口論しながらも、ミラーは次々とシュートを沈めていきます。

そして第4クオーターだけで10得点目をあげたミラーは、試合残り8分、味方選手がフリースローを打っている時に、スパイク・リーに向かって指を4本立てたあと、両手で首を絞めるポーズをみせたのです。

まるでこの4クオーターでもうお前たちは終わりだと言うように・・・。

レジー・ミラーは結局第4クオーターだけで一人で25得点をあげ、ペイサーズを大逆転勝利に導きました。

ミラーが首絞めポーズをみせたのはこの時のたった1回だけですが、あまりの衝撃の大きさに、NBA史に残るセレブレーションとして定着しています。

第5戦に勝利し、NBAファイナルに王手をかけたペイサーズでしたが、第6戦、第7戦に敗れ、NBAファイナルには届きませんでした。

ミラーはニックスとのカンファレンス7試合で平均24.7得点 3P41.9%を記録。

前年(1993)のプレーオフ1stラウンドでもニックスと対戦し、1勝3敗で完敗したものの、ミラーは平均31.5得点を記録する無双ぶりを発揮しています。

2年連続の大活躍で「ニックスキラー」の異名で語られるようになりますが、本当の意味でニックスキラーとなるのは、翌年のプレーオフでした。

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ミラー伝説⑤ 1995年vsニックス 16.4秒で8得点

1994-95シーズン、ミラーは初めてオールNBA3rdチーム入りをはたします。

ミラーの活躍に牽引され、ペイサーズはイーストの第2シードでプレーオフに進むと、1stラウンドでアトランタ・ホークスを3勝0敗でスウィープ。

カンファレンスセミファイナルの相手は、宿敵ニューヨーク・ニックスでした。

ミラーは因縁のマジソンスクウェアガーデンで行われた第1戦で、NBA史に残る奇跡を起こします。

試合残り時間18.7秒、ニックスのグレッグ・アンソニー(コール・アンソニーの父)が2本のフリースローを決めた時点で、99-105とニックスが6点をリード。

マジソンスクウェアガーデンに押し寄せたニックスファンたちはすでに勝利を確信していました。

異様な盛り上がりの中、タイムアウト明けのインバウンドパスを受けたミラーは、振り向きざまに高く飛び上がり3ポイントシュートを沈めます。

この時残り時間16.4秒、5点差。

ニックスはエンドラインからアンソニー・メイソンがインバウンドパスを入れようとしますが、ペイサーズの激しいプレッシャーに押され、パスコースがみつからず。

ポイントガードのグレッグ・アンソニーにパスしようとメイソンがジャンプした瞬間、アンソニーがミラーに押されて転倒。

ボールはミラーの手にわたります。

ミラーはボールをキャッチすると、なんの迷いもなくゴールを背にしてドリブルを1つつき、3ポイントラインの外まで下がると、再び振り向きざまの3ポイントシュートをヒット。

この時残り時間は13.2秒。

わずか3.2秒の間に6点差を追いついてしまったのです。

ニックスが慌ててインバウンドパスを入れたところで、ペイサーズが激しいプレッシャーをかけボールを奪いにいきますが、ここはファールを吹かれます。

ニックスのジョン・スタークスがフリースロー2本を放ちますが、2本ともミス!

リバウンドを奪ったパトリック・ユーイングのジャンプシュートも外れ、ボールはミラーの手に。

ミラーはファールを受けると、フリースロー2本をきっちり沈め、残り7.5秒の時点で2点のリードを奪いました。

最後はチーム一丸となったディフェンスでニックスの反撃を許さず、奇跡の大逆転勝利を飾ったのです。

ミラーが奇跡を起こし、敵地で貴重な1勝を手にしたペイサーズは、最終第7戦を97-95で勝利し、初めてのカンファレンスファイナルに進みますが、シャキール・オニール&アンファニー・〝ペニー”・ハーダウェイ擁する若きオーランド・マジックに敗れ去りました。

このニックスとの試合は、バスケ友達と声をあげながら観ていたのを鮮明に覚えています。

社会人チームで背番号31番をつけるほどミラー好きのわたくしリトルはペイサーズを、友人はニックスを応援していました。

NBAを36年間観つづけてきて、もっとも興奮した試合だったかもしれません。

リアルタイムで〝ミラータイム″を体験できたことは、本当に幸せだったと思います。

そんなペイサーズの奇跡を、2025年の今、再び体験できているのがすごいですね。

バトンはミラーからハリバートンに渡されていますが。

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ミラー伝説⑥ ジョーダン相手のミラータイム

1997-98シーズンは、世界中のNBAファンにとって特別なシーズンでした。

マイケル・ジョーダン、スコッティ・ピッペン、デニス・ロッドマンのビッグ3を擁する史上最強チーム、シカゴ・ブルズのラストダンス。

結局ブルズは2回目の3ピートを達成し、有終の美をかざるのですが、1998年のプレーオフでブルズをもっとも苦しめたのは、間違いなくレジー・ミラー擁するインディアナ・ペイサーズでした。

ペイサーズは2年連続でプレーオフを逃していましたが、1997-98シーズンからNBAレジェンドのラリー・バードをヘッドコーチに迎え、プレーオフに復活します。

ペイサーズはイースト第3シードでプレーオフに挑み、クリーブランド・キャバリアーズ(3勝1敗)、ニューヨーク・ニックス(4勝1敗)を倒し、カンファレンスファイナルで王者シカゴ・ブルズと戦いました。

ペイサーズの1勝2敗でむかえたホームでの第4戦で、ミラータイムが発動します。

第4クオーター試合残り時間4.7秒の時点でブルズが1点をリード。

ここでファウルを受けたピッペンが2本のフリースローを獲得します。

ペイサーズ絶体絶命のピンチでしたが、ピッペンはフリースローを2本ともミス。

リバウンド争いからボールはサイドラインを割り、ペイサーズボールへ。

残る時間は2.9秒。

ペイサーズのデリック・マッキーが、フロントコートのサイドラインからインバウンドパスを入れる際、ミラーは激しく動きまわります。

エンドライン沿いでマークにつくロン・ハーパーを振り切り、トップ・オブ・ザ・キーのあたりに立つジョーダンに体当たりし、ジョーダンがよろけたところでマッキーが立つ右のサイドラインに近づきパスを受け、3ポイントシュートをヒット!

ミラーは信じられないとばかりに両手を広げると、何度もジャンプしながら横にクルクル回るという、斬新な方法で喜びを表していました。

このジャンピングクルクルは、社会人バスケの練習で、よくマネしていました(笑)。

全身で喜びをあらわすミラーと大歓声をあげるアリーナのファンたち、そしてシュートが決まっても微動だにせず何かを考えているようなラリー・バードHCの対比が面白かった覚えがあります。

残り0.7秒からのインバウンドパスから、ジョーダンがジャンプシュートを外し、この試合ペイサーズが勝利。

2勝2敗となりますが、最終第7戦でブルズが勝利し、後期3連覇を達成。

ラストダンスが美しいかたちで終焉をむかえたことは、みなさんご存じかと思います。

このプレーオフで唯一シカゴ・ブルズを第7戦まで追いつめたのがインディアナ・ペイサーズだったことは、ぜひ覚えておいてください。

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ミラー・伝説⑦ NBA史上最高の引退試合

1999-00シーズンにペイサーズを初のNBAファイナルに導くなど、ペイサーズの歴史を切り開いてきたミラーでしたが、次第に年齢による衰えがみえるようになってきます。

2002-03シーズンには平均出場時間がルーキーシーズン以来もっとも短く(30.2分)なり、平均得点も12.6分まで低下。

翌2003-04シーズンにはさらに出場時間は減少し、平均28.2分出場、平均得点10.0得点までスタッツは下がってしまいました。

そして迎えた2004-05シーズン11月19日、対デトロイト・ピストンズ戦で起こった大事件。

観客を巻きこんでの大乱闘となった、NBA史上最悪の暴力事件により、ペイサーズはロン・アーテスト、ジャ―メイン・オニールなど主力に長期出場停止処分が科されます。

ペイサーズの緊急事態の中、39歳のチームリーダーであるミラーが奮闘。

平均31.9分の出場で14.8得点を記録し、ペイサーズを44勝38と勝ち越しに導き、プレーオフ進出の原動力となったのです。

ちなみにミラーが2004-05シーズンに残したフリースロー成功率93.3%は、リーグ1位の記録です。

卓越したシュート力は、39歳となっても健在でした。

ペイサーズはイースト第6シードで進出したプレーオフ1stラウンドで、第3シードのボストン・セルティックスを4勝3敗で撃破。

カンファレンスセミファイナルの相手は、かつて1993-97の期間ペイサーズのヘッドコーチをつとめた恩師ラリー・ブラウンが率いる、イースト第2シードのデトロイト・ピストンズでした。

ミラーの最後の雄姿、そして11月に大乱闘を起こした両チームの戦いに世界中の注目が集まります。

ミラーは第2戦で19得点、第3戦で17得点を記録し、チームを勝利に導いたものの、第1戦、4戦、5戦は1桁得点に終わり、チームも2勝3敗とあとがない状態に。

ペイサーズのホームコートでむかえた第6戦、試合前練習にレジー・ミラーが登場した時から、アリーナは大歓声につつまれました。

ミラーは試合序盤から積極的にゴールを狙い続けます。

アウトサイドシュートだけでなく、積極的なペイントアタックもみせ、前半だけで17得点を記録。

チームも46-39とリードを奪いました。

しかし敵は前年のNBAチャンピオン、デトロイト・ピストンズ。

後半はピストンズの強力なディフェンスに徐々に対抗できなくなり、ペイサーズは逆転を許してしまいます。

苦しい展開の中でも、ミラーのシュートタッチは好調を維持。

次々とゴールを射抜くたび、アリーナは悲鳴に近い大歓声に包まれます。

ミラーはこの試合でチームトップの27得点を記録し、最後まで勝利を目指して戦いましたが、ピストンズの勢いを止めることはできませんでした。

第4クオーター残り15.7秒、79-87とピストンズの勝利が決まったところで、ミラーを交代させるラリー・バードHC。

するとピストンズのヘッドコーチでかつてのミラーの師でもあるラリー・ブラウンがタイムアウトを要求。

アリーナ全体が揺れるほどのスタンディングオベーションがつづきました。

ペイサーズだけでなく、ピストンズの選手たちもミラーに拍手を送ります。

涙を流しながら拍手を送るファンたち。

今でも引退試合の映像をみると、涙が出てきます。

世界中のNBAファンが、レジーを祝福する時間をつくったラリー・ブラウンHCの大ファインプレーでしたね。

多くのスター選手のすばらしい引退試合を観てきましたが、カンファレンスファイナルという舞台で全力を出し切り、選手たち、そしてファンからの尊敬と祝福につつまれたミラーの引退試合は、わたくしリトルにとって、もっとも感動的だった引退試合といえるでしょう。

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まとめ

今回はレジェンドシューター、レジー・ミラーの7つの伝説を紹介しました。

NBAを36年間観つづけているわたくしリトルは、社会人チームで背番号31番をつけるほど、レジー・ミラーに憧れていました。

「なんで31番?」と聞かれた時には「阪神の掛布」と答えていましたが、実はレジー・ミラーの31番だったのです。

ミラーは、NBA2年目に先発に定着すると、39歳となったラストシーズンまで、全試合先発出場を続けました。

あの細い身体のどこにそんなパワーがあったのでしょうか?

身も心もペイサーズに捧げてきたミラーは、引退後も伝説を残しています。

2005年に引退したミラーの元に、現役復帰のオファーが届いたのは2007-08シーズン。

2007年のシーズンオフに、ケビン・ガーネット、レイ・アレンを獲得し、生え抜きのポール・ピアースとビッグ3を結成したボストン・セルティックスが、ベンチプレイヤーとしてミラーにオファーを出したのです。

結局ミラーが復帰することはなかったのですが、2007-08シーズンセルティックスは見事優勝。

もしミラーがセルティックスと契約をむすび復帰していれば、キャリア初のチャンピオンリングを手にしていたのですが・・・。

ミラーは後に「インディアナで育ち、仲間と一緒に成長し、何年も優勝に手が届きそうな経験をして一喜一憂してきた僕が、ボストンでシャンパンファイトをするのは道理に合わない。僕はインディアナで優勝したかったんだ」と語っています。

ミラーが今でもインディアナポリスで愛され続ける理由ですね。

優勝を目指してチームを転々とする今の選手に、見習ってほしいと思います。

まあサラリーキャップなどの契約問題もあるため、一つのチームで引退するまでプレーすることは今の方がむずかしいのはわかりますが。

レジー・ミラーからエースのバトンを受けるのは、タイリース・ハリバートンでしょう。

ハリバートンには、ミラーの伝説を超える活躍を続けてほしいと思います。

ミラーもそう望んでいるでしょう。

最後までご覧いただき、ありがとうございました。

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