【真のGOATとは】レブロン・ジェームズ対マイケル・ジョーダンGOATはどっち?

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2023₋24シーズンもついに開幕し、NBAファンにはたまらない季節がやってきました。

なんといっても注目は、ルーキーのビクター・ウェンバンヤマ。

224㎝とは思えない異次元のスピードとテクニックで、早くも旋風を巻き起こしています。

昨シーズン、ついに優勝を勝ちとったデンバー・ナゲッツのエース、二コラ・ヨキッチをはじめ、ヤニス・アデトクンボ(ミルウォーキー・バックス)、ルカ・ドンチッチ(ダラス・マーベリックス)など、MVPを狙うスター選手たちも、開幕から暴れていますね(笑)。

そんな怪物ぞろいのNBAですが、77年に渡る歴史の中で「NBA史上最高の選手(GOAT=Greatest Of All Time)」

の議論になると、2023年現在、偉大な2人の選手の一騎打ちになっています。

〝キング″レブロン・ジェームズと、〝神様″マイケル・ジョーダンです。

今回は、NBAを約35年間観つづけてきたわたくしリトルが、真のGOATをジャッジしたいと思います。

それでは、レッツラゴー!

目次

歴代最高の選手(GOAT) 判定基準

今年でNBAが誕生して77年間。

多くのスター選手が活躍してきた中、その頂点を決めようというのが、GOAT(Greatest Of All Time)議論です。

私がNBAを観始めた約35年前は、ウィルト・チェンバレン、ビル・ラッセル、カリーム・アブドゥル・ジャバーのセンタービッグ3に、ラリー・バード、マジック・ジョンソンが割って入ってきたと、盛り上がっていたように思います。

個人成績はチェンバレンが圧倒的なものの、優勝回数が2回(フィラデルフィア・76ers、ロサンゼルス・レイカーズ)しかない。

ビル・ラッセルは、個人成績はチェンバレンに劣るが、11回の優勝(セルティックス )がある。

移籍を繰り返したチェンバレンと、生涯セルティックスのラッセル。

どちらがGOATにふさわしいかで、個人成績と優勝回数については、チェンバレンとラッセルをモデルに当時から盛り上がっていました。

次第に、マジック、バード、ジョーダンの3人の名前が上がるようになり、最近のGOAT論争の中心は、マイケル・ジョーダンとレブロン・ジェームズの一騎打ちになっていると感じます。

まあ、好き嫌いはありますが、ジョーダンとレブロン、2人の選手が議論に上がることに、反対する人は少ないでしょう。

それほど、ジョーダンとレブロンは、実力、記録、カリスマ性が飛びぬけています。

では、ここで「GOAT」を決める上での、判定基準を考えていきましょう。

GOAT 判定基準
1.優勝回数、受賞・タイトル歴
2.圧倒的な個人スタッツ
3.ドラマ性 カリスマ性

たくさんの要素はあると思いますが、大きく分けてこの3点をあげたいと思います。

それでは、一つづつ、比較していきたいと思います。

レブロンvsジョーダン 優勝回数 受賞・タイトル歴比較

まずは2人の優勝回数、受賞・タイトル歴を比較します。

レブロン・ジェームズ(2003~)
優勝回数 4回(2012 13 16 20)
NBAファイナルMVP×4回(2012 13 16 20)
NBAシーズンMVP×4回(2009 10 12 13)
NBAオールスターMVP×3回(2006 08 18)
NBAオールスター選出×19回(2005-2023)
オールNBA1stチーム×13回(2006 08-18 20)
オールNBA2ndチーム×3回(2005 07 21)
オールNBA3rdチーム×3回(2019 22 23)
NBAオールディフェンシブ1stチーム×5回(2009-13)
NBAオールディフェンシブ2ndチーム(2014)
NBA新人王(2004)
NBA得点王(2008)
NBAアシスト王(2020)
NBA75周年記念チーム

マイケル・ジョーダン(1984~1993 95 ~98 01~03)
優勝回数 6回(1991-93 96-98)
NBAファイナルMVP×6回(1991-93 96-98)
NBAシーズンMVP×5回(1988 91 92 96)
NBAオールスターMVP×3回(1988 96 98)
NBAオールスター選出×14回(1985-93 96-98 02 03)
オールNBA1stチーム×10回(1987-93 96-98)
オールNBA2ndチーム(1985)
NBA最優秀守備選手賞(1988)
NBAオール・ディフェンシブ・1stチーム×9回(1988-93 96-98)
NBA新人王(1984)
NBA得点王×10回(1987-93 96-98)
NBAスティール王×3回(1988 90 93)
NBAスラムダンクコンテスト優勝(1987 88)

2人とも、輝かしい記録を残していますね。

レブロンは、2003年のデビューから20年が経過した現在も、ロサンゼルス・レイカーズのエースとして、活躍を続けています。

NBAの歴史の中で、38歳まで衰えをみせず、エースとして活躍をした選手はいませんでした。

年間約10億円を身体のメンテナンスに費やすと言われるほど、徹底した自己管理を行っているレブロンは、39歳を迎える今シーズンも、まだまだ活躍を続けてくれるでしょう。

昨シーズン(2022-23)には、ついにカリーム・アブドゥル・ジャバーが保持していたNBA通算得点記録「38387点」を更新したレブロン。

現在優勝回数は4回と、ジョーダンの6回には及びませんが、まだまだレイカーズのエースとして活躍する限り、追いつく可能性はあるかもしれません。

ジョーダンの受賞・タイトル歴を並べると、圧巻ですね。

現役生活は約15年間と、レブロンに比べると短いですが、10回の得点王、3回のスティール王など、個人成績は圧倒的です。

ルーキーの年にオールNBA2ndチームに選出。

ケガで18試合しか出場していない2年目と、シーズン終盤の3月に大リーグ挑戦からブルズ復帰を果たした1994-95シーズン、2度目の引退後に自身がオーナーをつとめていたワシントン・ウイザーズで復帰した2シーズンを除く、11シーズンすべてでオールNBA1stチームに選ばれています。

チームとしても、シカゴ・ブルズのエースとして6回NBAファイナルに進み、すべて優勝を勝ちとったジョーダン。

正直、文句のつけようがありません。

史上最高の選手=マイケル・ジョーダンと言われ続けて来た理由がおわかりかと思います。

レブロンvsジョーダン スタッツ比較

次に、2人のスタッツを比較します。

ここでは、2人の通算成績(レギュラーシーズン&プレーオフ)と、ベストシーズンのスタッツを比較します。

レブロン・ジェームズの通算成績は、2022-23シーズンまでのスタッツとしています。

レブロン・ジェームズ
通算  1421試合 27.2得点 7.5リバウンド 7.3アシスト 1.5スティール FG50.5% 3P34.5%
プレーオフ  282試合 28.5得点 9.0リバウンド 7.2アシスト 1.7スティール FG49.5% 3P33.1%
2009-10 76試合 29.7得点 7.3リバウンド 8.6アシスト 1.6スティール FG50.3% 3P33.3%


マイケル・ジョーダン
通算  1072試合 30.1得点 6.2リバウンド 5.3アシスト 2.3スティール FG49.7% 3P32.7%
プレーオフ  179試合 33.4得点 6.4リバウンド 5.7アシスト 2.1スティール FG48.7% 3P33.2%
1986-87 82試合 37.1得点 5.2リバウンド 4.6アシスト 2.9スティール FG48.2% 3P18.2%
   

2人とも、圧巻のスタッツを残しています。

レブロンは、得点、アシスト、リバウンド、すべてのスタッツが高水準です。

スタッツリーダーとなったのは、2008年の得点王と、2020年のアシスト王だけですが、これだけバスケに必要な能力をすべて持ち合わせている選手は、ほかに思いつかないですね。

ベストシーズンには、クリーブランド・キャバリアーズ時代、2回目のシーズンMVPを獲得した2009-10シーズンを選びました。

しかし、現在までほぼすべてのシーズン、ベストシーズンとあまり変わらないスタッツを残し続けているレブロン。

爆発力という点では、ジョーダンには及ばないかもしれませんが、20年間衰えずにNBAの頂点に君臨するレブロンは、GOATと呼ばれるにふさわしい選手だと思います。

対するジョーダンは、リバウンドやアシストではレブロンに劣るものの(それでもシューティングガードとしては超高水準ですが)、特筆すべきは圧倒的な得点力。

現役時代の通算で、平均30得点を超えているのは、マイケル・ジョーダンただ一人です。

ベストシーズンには、MVPを獲得したシーズンではなく、最も高い平均得点、37.1得点を記録した1986-87シーズンを選びました。

もちろん、ジョーダンのベストシーズンは、優勝をはたし、シーズンとファイナルの両MVPを獲得したシーズンになるかとは思いますが、圧倒的なハイアベレージを残した1986-87シーズンが、ジョーダンの凄さを最もおわかりいただけるかと思ったからです。

当たり前のように、シーズン平均30得点以上を記録していたジョーダンですが、特筆すべきはジョーダンの現役時代は、ハンドチェックが禁止になる前だということ。

2004年にハンドチェック禁止のルールができる前は、ディフェンダーが手を使い相手に触れることができたので、今よりかなりディフェンス有利な状態でした。

2022-23シーズン、NBAチームの1試合平均得点は114.7得点。

ジョーダンのベストシーズンに選んだ1986-87シーズンの、NBAチームの1試合平均得点は109.9得点です。

その後、NBA全体でディフェンスのフィジカル化が進み、シカゴ・ブルズが4度目の優勝を果たした1985-86シーズンには、NBAチームの1試合平均得点はついに99.5得点と、100点を割りました。

その中でも、ジョーダンは1試合平均30.4得点を記録しています。

当時はニューヨーク・ニックスやマイアミ・ヒートなど、屈強なディフェンダーが、身体をはって潰しにくるフィジカルもりもりチームも多かった時代です。

暴力的なまでに襲い掛かってくる敵を、次々になぎ倒したジョーダンは、スーパーヒーローでしたね。

レブロンvsジョーダン ドラマ性 カリスマ性

レブロンのドラマ性 カリスマ性

レブロンは史上最高の高校生プレイヤーと言われ、大学進学せず直接NBAドラフトに挑み、当然のように1位指名されクリーブランド・キャバリアーズ入り。

レブロンのドラマチックな出来事をあげると・・・

1.試合最後の25得点を1人であげ勝利
2.ザ・ディシジョン 突然のヒート移籍
3.ザ・ブロック~キャブス初優勝

1.試合最後の25得点を1人であげ勝利

2007年プレーオフカンファレンスファイナル、対デトロイト・ピストンズ第5戦で、レブロンは衝撃のパフォーマンスをみせました。

2勝2敗で迎えた第5戦。

試合はダブルオーバータイムの末、キャブスが109-107で勝利します。

レブロンはこの試合で、キャブスの最後の25得点を、なんと一人で決めきったのです。

鬼神のような活躍で、イースタンカンファレンス1位だったピストンズを倒したレブロンは、22歳にしてNBAの主役となりました。

レブロンの圧倒的なパフォーマンスで勢いづいたキャブスは、第6戦にも勝利しファイナル進出しますが、百戦錬磨のサンアントニオ・スパーズに0勝4敗でスウィープされてしまいます。

これもまた次のドラマにつながっていくのです。

2.ザ・ディシジョン 突然のヒート移籍

キャブスで圧倒的な活躍をみせ、2009年~10年と2年連続でシーズンMVPを獲得。

誰もが認めるNo.1プレーヤーとなったレブロンですが、キャブスを優勝させることはできず、2010年オフにFAとなると、複数のチームから勧誘を受けます。

すると突然、2010年7月1日、「ザ・ディシジョン」と名付けられたESPNのスペシャル番組で、ヒートに移籍することを大々的に発表したのです。

正直、テレビ番組で今後についてレブロンが語ると聞いたときは、「キャブス残留だな」と思っていたので、メチャメチャ驚きました。

しかも前日には、クリス・ボッシュがトロント・ラプターズからヒートへの移籍を発表。

ドウェイン・ウェイドもヒートと再契約することを発表していましたから、まさか3人が揃うなんて・・・とビックリしました。

正直、わたくしリトルはこの決断には否定的だったんですが・・・。

ヒートは前評判どおりに勝利を重ね、ビッグ3結成1年目からNBAファイナルに進出します。

しかし、ダーク・ノビツキー擁するダラス・マーベリックスに2勝4敗で敗れ、初優勝とはなりませんでした。

翌2011-12シーズン、レブロンは3度目のシーズンMVPを獲得すると、プレーオフでも圧倒的な力をみせつけます。

2勝3敗と追いつめられた、カンファレンスファイナル対ボストン・セルティックス第6戦では、45得点 15リバウンド 5アシストの大活躍でチームの窮地を救い、ヒートを2年連続のファイナルに進出に導きました。

ファイナルでは若きケビン・デュラント、ラッセル・ウエストブルック、ジェイムス・ハーデンが揃うオクラホマ・シティサンダーを倒し、初優勝。

2012-13シーズンのファイナルでは、レブロンがキャブス時代にスウィープされたサンアントニオ・スパーズを大逆転で下し、連覇を果たしました。

多くの批判を受けたレブロンのヒート移籍でしたが、結果的には2度の優勝を勝ちとり、成功だったと思われます。

現在のNBAでは、スーパースターの移籍も珍しいことではなくなりました。

スーパースターがプレーしたいチームに、自由に移籍できるようになったのは、もしかしたらレブロンのヒートでの成功があったからかもしれません。

選手にとってはよかったかもしれませんが、ファンからすると・・・ですねえ。

まあ、ヒートで2度の優勝を飾った後は、古巣のキャブスに戻って優勝しましたしね。

3.ザ・ブロック

ザ・ディシジョンでヒート移籍を発表した際、キャブスのオーナー、ダン・ギルバートは怒りのあまり、レブロンへの手紙を公開します。

「その決断(ディシジョン)は自分勝手で血も涙もなく、冷淡で卑怯な裏切り者だ!」「こういう忠誠心のない行為は、私たちが子供たちに教えていることと正反対だ!」というレブロンを激しく非難する内容は、怒りに満ちていました。

そして、レブロンのヒートよりも、先にキャブスが優勝することまで宣言したのです。

全米でレブロンのユニフォームを燃やす人が続出し、社会現象にまでなったのは、ダン・ギルバートオーナーの手紙が強烈に影響していたと思います。

レブロンとの関係を完全に断ち切ったギルバートオーナー。

オーナーがここまで激怒したのには、理由があります。

レブロンがヒート移籍をキャブス側に伝えたのは、テレビ番組「ザ・ディシジョン」が放送される直前だったのです。

さすがに、世界中に生放送で移籍を発表する直前でのチームへの報告は、オーナーの怒りをかってもしょうがないでしょう。

レブロンのキャブス復帰はもちろん、永久欠番もないのでは・・・と話題になるほどでした。

2013-14シーズン、ヒートでスリーピート(3連覇)に挑んだレブロンでしたが、前年と同じ顔合わせのファイナルで、サンアントニオ・スパーズに1勝4敗で敗れると、FA(フリーエージェント)となります。

レブロンが移籍先に選んだのは、古巣のクリーブランド・キャバリアーズでした。

レブロンがヒートに去った後のシーズン、キャブスは前年の61勝21敗⇨19勝63敗と、一気に弱体化していました。

ギルバートオーナーが「レブロンより先に優勝する」と宣言していたこともあり、余計に〝レブロンの力がどれほど凄まじかったのか″を実感しましたね。

その後も、レブロン不在の間、キャブスはプレーオフに進むことすらできませんでした。

ヒートで2度の優勝を勝ちとったレブロンは、弱体化した古巣に帰還することを決断したのです。

「ただいま(アイム・カミングホーム)」というタイトルで、クリーブランドファンに向けた手紙を公開したレブロン。

彼がつづったのは、生まれ故郷であるクリーブランドへの愛情と、「ザ・ディシジョン」での発表方法の後悔、キャブスで優勝を目指す強い決意でした。

ヒート移籍時に怒り狂っていたギルバートオーナーも、Twitterで「おかえりキングジェームズ」と返信し、キャブスファンは熱狂しました。

キャブスのフロントはシーズン序盤に、ドラフト1位で指名したアンドリュー・ウィギンズをミネソタ・ティンバーウルブズに放出し、トレードでケビン・ラブを獲得。

レブロン、ラブと、2011年NBAドラフト1巡目全体1位で指名され、レブロンがいない間キャブスのエースとして力をつけていたカイリー・アービングのビッグ3が誕生しました。

レブロンが加入した1年目から、NBAファイナルに進む快進撃をみせたものの、ステフィン・カリー&クレイ・トンプソンのスプラッシュブラザーズ旋風を巻き起こしていたゴールデンステイト・ウォリアーズに、2勝4敗で敗れます。

しかし翌シーズン、再びNBAファイナルに進んだキャブスは、ウォリアーズにリベンジを果たしたのです。

試合を決定づけたのは、レブロンの超絶チェイスダウンブロックでした。

3勝3敗で挑んだゲーム7、第4クオーター残り2分、89-89同点の場面で、スーパープレイは飛び出しました。

カイリーがショットを外し、ウォリアーズのアンドレ・イグダーラがリバウンドをキャッチ。

自らボールをプッシュ、いったんカリーにパスを出しリターンを受けると、イグダーラはJR・スミスのブロックをダブルクラッチでかわし、レイアップに持ち込みました。

ウォリアーズの2点リード・・・と思った瞬間、視界の外からレブロンが飛びこんできて、完璧なチェイスダウンブロックを決めたのです。

この歴史的なブロックで勢いにのったキャブスは、92対89でウォリアーズにリベンジをはたし、初優勝をかざりました。

ジョーダンのドラマ性 カリスマ性

ジョーダンは1984年のNBAドラフト1巡目全体3位(1位アキーム・オラジュワン 2位サム・ブーイ)でシカゴ・ブルズ入り。

ジョーダンのドラマチックな出来事をあげると・・・

1.ザ・ショット
2.父の死~大リーグ挑戦
3.ラスト・ショット

正直、ジョーダンのドラマチックな出来事を3つだけに絞るのは無理な話ですが、とりあえず強引に選びました(笑)

1.ザ・ショット

ルーキーの年から1試合平均28.2得点を記録し、世界中のバスケファンから注目されたジョーダン。

しかし2年目の1985-86シーズン、ジョーダンは3試合目で左足を骨折し、64試合を欠場します。

シーズン終盤に復帰すると、プレーオフ1stラウンドではこの年優勝を果たすボストン・セルティックスを相手に、1試合61得点を記録するなど、大活躍。

ジョーダンに61得点されながらも勝利したセルティックスのエース、ラリー・バードが試合後に発したのが、「彼はマイケル・ジョーダンの姿をした神だ。」という名言でした。

3年目には1試合平均37.1得点を記録し、初めての得点王を受賞。

しかし、またしてもプレーオフ1回戦でボストン・セルティックスにスウィープされ、「ジョーダンはチームを勝たせることはできない」と言われていました。

4年目の1987-88シーズン、シカゴ・ブルズは50勝32敗と大きく勝ち越し、初めてファーストラウンドを突破するも、2ndラウンドで、〝バッドボーイズ″デトロイト・ピストンズに叩きのめされます。

そして迎えた5年目の1988-89シーズン。

ブルズはレギュラーシーズン47勝35敗の第6シードでプレーオフに進みます。

敵は、マーク・プライス、ブラッド・ドアティの若手オールスターコンビを中心に、57勝25敗と旋風を巻き起こしていたクリーブランド・キャバリアーズ。

前年ブルズが1stラウンドで倒した相手でしたが、1988-89シーズンは直接対決で6戦すべてキャブスが勝利。

圧倒的不利が予想されていましたが、ブルズも意地をみせ、最終第5戦に持ち込みます(当時はプレーオフ1stラウンドは3戦先取方式)。

迎えた第5戦。

第4クオーター残り6秒でジョーダンがディフェンスについたクレイグ・イーローをかわしジャンプシュートを決め、99-98とブルズが1点のリード。

すかさずタイムアウトをとるキャブス。

キャブスはイーローがスローイン行うと、リターンパスを受け、そのままレイアップを沈め99-100と再びリード。

今度はブルズがタイムアウトをとり、最後のプレーをデザインします。

残りは3秒。

最後に誰の手にボールが渡るのかは、誰もがわかっていました。

キャブスのホームコートで観客のディフェンスコールが響く中、右サイドスリーポイントライン外でスローインを受けたジョーダンは、左手でドリブルを2つつくと、ディフェンスについていたクレイグ・イーローより一瞬早く空中に飛びあがりシュートモーションに入ります。

ブロックに飛ぶイーロー。

タイミングは完璧。

しかし、ジョーダンがシュートを放ったのは、イーローが着地した後でした。

ボールがリングを通過したのを確認し、とんでもないジャンプを見せガッツポーズを繰り返したジョーダン。

まるで、映画のラストシーンを観ているようでしたね。

これまで35年間NBAを観つづけてきたわたくしリトルですが、感動した劇的なブザービーター1位ですね(2位はカワイ・レナードかな)。

2.父の死~大リーグ挑戦

シカゴ・ブルズで3連覇を果たし、日本でもマイケル・ジョーダンブームが巻き起こっていた1993年7月23日、ショッキングなニュースが飛び込んできました。

マイケル・ジョーダンの父、ジェームズ・ジョーダンが道路わきの車中で、射殺された状態で見つかったのです。

知人の葬式に出席し、翌朝のシカゴ行きの飛行機に乗るため、夜遅くに車で移動、路肩で仮眠をとっていたところを強盗に襲われたと、後の捜査でわかりました。

優勝した時には、ジョーダンと抱き合って喜んだり、私たちファンにもおなじみだったジョーダンの父が亡くなったニュースをみて、本当に驚きましたね。

私たちが驚き悲しんだくらいですから、ジョーダンのショックは計り知れなかったと思います。

1993年10月、マイケル・ジョーダンは突如引退を発表します。

当時30歳。

「愛するスポーツを戦うためのモチベーションを失った。」と語ったジョーダン。

その決断に、父の死が大きく影響していることは、誰の目にも明らかでした。

父ジェームズは大の野球好きで、「父は私に野球選手になってほしかった」とジョーダンも語っています。

子供の頃はバスケと並んで、野球でもピッチャーとして活躍したジョーダン。

7年連続得点王、シーズンMVP3度受賞、NBA優勝3回、オリンピック2度の金メダルなど、バスケットボールの世界であらゆる栄誉を勝ちとってきたジョーダンが、次の挑戦に選んだのは、亡き父がこよなく愛したベースボールでした。

1994年2月7日、引退宣言から4か月後、大リーグの名門シカゴ・ホワイトソックスとの契約を発表します。

ブルズのオーナー、ジェリー・ラインズドーフがホワイトソックスのオーナーでもあったため、実現した契約でした。

〝スーパースター″マイケル・ジョーダンも、野球の世界では底辺の選手。

マスコミからも厳しい評価を受け、中にはジョーダンの挑戦を嘲笑するような、心無い記事も多かったですね。

ジョーダンは結局メジャーリーグの試合に出場することはありませんでした。

しかし両手の豆が破れ血だらけになるまでバットを振り、夢を追う若い選手たちと汗を流し、笑顔をみせるジョーダンの姿には、挑戦することの大切さを教えられました。

マイケル・ジョーダンが2Aバーミンガム・バロンズで残したスタッツは・・・

127試合出場 打率2割2分 3本塁打 51打点 30盗塁

決して褒められた成績ではありませんが、子供の頃の夢、父との夢を追いかけた時間は、ジョーダンにとって間違いなく素晴らしい時間だったと思います。

1995年3月18日、「I’m Back」のFAXが各メディアに一斉に送信され、ジョーダンはシカゴ・ブルズに復帰。

翌1996年6月16日、シカゴ・ブルズはシアトル・スーパーソニックスを倒し、4度目の優勝を勝ちとります。

優勝を決めると、ジョーダンはボールを抱きしめ号泣。

すぐにロッカールームに戻ると、ボールを抱え、床に倒れたまま泣き続けました。

優勝を決めたこの日は、父の日でした。

3.ラストショット

野球への挑戦を終えたジョーダンが復帰したシカゴ・ブルズは、1996年NBAファイナルでシアトル・スーパーソニックスを、1997年NBAファイナルではユタ・ジャズを破り、2連覇を果たします。

自身も2年連続、通算9回目の得点王に輝き、1996年にはシーズン&ファイナルMVP、97年にはファイナルMVPを受賞するなど、NBAの頂点に返り咲いたジョーダンの時代は、まだまだ続くかと思われていました。

しかし、王朝を築き上げていたシカゴ・ブルズは、崩壊に向かって進んでいたのです。

シカゴ・ブルズのヘッドコーチ(HC)、フィル・ジャクソンとゼネラルマネージャー(GM)、ジェリー・クラウスの確執が表面化。

1997-98シーズン開幕前にクラウスGMは、フィル・ジャクソンHCに、「今年がブルズの指揮官としての最後のシーズンになる」と通告します。

開幕前に1年後のクビを宣言されたフィル・ジャクソンHCは、怒り、悲しみ、動揺する選手たちに、「これがラストダンスだ」と伝え、チームを団結させました。

有終の美を迎えるために、チーム一丸となり戦ったシカゴ・ブルズは、イースタンカンファレンス1位(62勝20敗)でプレーオフに進み、カンファレンスファイナルでは第7戦でレジー・ミラー擁するインディアナ・ペイサーズを退け、3年連続のファイナルに進出。

私たちファンも、「ファイナルが終わればシカゴ・ブルズは解体してしまう」「サラリーに不満を抱えているピッペンはブルズを去り、ジョーダンは引退するだろう」ということはわかっていましたから、興奮しながら悲しくもある、なんともエモーショナルな気持ちでファイナルを迎えたことを思い出します。

ファイナルで対するは、2年連続でユタ・ジャズ。

ジョン・ストックトン&カール・マローンの鉄人コンビを相手に、ブルズは3勝2敗とリードし、運命の第6戦を迎えます。

ユタ・ジャズのホームコート、デルタセンターで行われた第6戦は、魂のこもった両チームの激しいディフェンスで、ロースコアの戦いとなりました。

2点差以内の攻防が続く中、残り41.9秒でストックトンが3ポイントシュートを決め、83-86とジャズが3点のリード。

すかさずジョーダンがレイアップを決め85-86、残りは37.1秒。

当時NBAで最も冷静なポイントガードだったストックトンは、ゆっくりとボールを運ぶと、スクリーンを使ってローポストで陣取ったカール・マローンにパス。

その瞬間、スクリーナーとなったジェフ・ホーナセックをマークしていたジョーダンが、ベースライン沿いから近づきスティール。

残り時間は20秒。

ジョーダンはタイムアウトを要求することなく、ドリブルをつきながら敵陣に入ると、左サイドでブライオン・ラッセルと対峙。

余裕をもってドリブルをつくジョーダンを観ていて、この後起こることは想像がついていました。

デニス・ロッドマンが右サイドのスペースを空けたのを合図に、ジョーダンは右手で大きくドリブルを突き加速。

トップ・オブ・ザ・キーの位置で深く切り返すと、体制を崩したラッセルを置き去りに、美しいジャンパーを放ちゴールの真ん中を射抜きました。

いつもより長いフォロースルーは、このシュートがジョーダンにとっての「ラストシュート」であることを物語っているようでしたね。

試合は87-86でシカゴ・ブルズが優勝。

見事2回目の3ピートを達成しました。

この試合ジョーダンは、43分41秒の出場で45得点を記録。

残り1分の攻防からのラストショットは、完璧な映画のエンディングのようでした。

ジョーダンの全盛期を観てきたオールドファンには、「GOATはジョーダン以外ありえない」という人が多いのは、ラストショットの美しさと、はかなさによるものかもしれません。

まとめ リトル的にはやっぱりジョーダン

レブロンとジョーダン、2人とも史上最高の選手と呼ばれるにふさわしい選手です。

ただ、やはりNBAを約35年間観つづけてきたわたくしリトルにとってのGOATは、マイケル・ジョーダン以外ありえません。

理由は、なんといっても青春時代のヒーローだから。

ジョーダンが圧倒的なスタッツを残しながらも、〝バッドボーイズ″デトロイト・ピストンズにプレーオフで叩きのめされていた時代、レイカーズを破っての初優勝、3ピート達成後の突然の引退、大リーグ挑戦、復帰後のプレーオフマジック戦での完敗、後期3ピート達成、すべてが鮮明に思い出されます。

GOATを決めるのは、それぞれの思い出によるところが大きいでしょう。

単純にスタッツで比較するだけでは、伝わらないことがあります。

レブロンの戦いに心震わせてきた、若いファンたちにとっては、いくらジョーダンが6回のファイナルすべて優勝したといっても、響かないでしょう。

実際に自分が同じ時を過ごし、NBAでのドラマを体感してきた選手が、その人のGOAT(Greatest Of All Time)なのです。

おそらく今後、GOAT論争に加わってくるスーパースターが次々と出てくるでしょう。

ルカ・ドンチッチ、二コラ・ヨキッチ、ビクター・ウェンバンヤマ・・・これからも、NBAを楽しみ続けましょう。

きっと新しい、忘れられなくなるドラマが待っているはずです。

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