先日yahooニュースをなにげなく見ていたら、「RUN TMC」という単語が飛び込んできました。
記事を読むと、ティム・ハーダウェイがバスケットボール殿堂入りし、式典のスピーチでミッチ・リッチモンド、クリス・マリンへの感謝を述べ、「RUN TMCは伝説です」「RUN TMCは時代を先取りしていた」と語ったというニュース。
なんだか嬉しさと一緒に熱い思いがこみ上げてきました。
最近、「史上最強チームは1996年のブルズと2001年レイカーズ、2017年のウォリアーズ、どれだ?」といった記事をよく見ます。
わたくしリトルも、あれこれ想像して楽しむんですが、もちろん答えは出ないですねえ。
思い入れの強さからいくと、間違いなくジョーダン、ピッペン、ロッドマンのブルズなんですが、スポーツは常に進化していきますから・・・。
最強チームについては、また今度記事にしたいと思いますが、なかなか難しい問題です。
しかし、わたくしリトルの中で、「最高のチーム」は決まっています。
1990-91シーズン、RUN TMCを擁するゴールデンステイト・ウォリアーズです。
当時NHKの衛星第一テレビでウォリアーズの試合が放送された時は、ビデオを何度も何度も見直していましたね。
とにかく観ていて楽しかった・・・。
今回は、2シーズンのみの活動で、30年以上たつ現在でも伝説として語られる「RUN TMC」の魅力と、果たしてスプラッシュブラザーズとどっちが脅威なのか?という視点で語っていきたいと思います。
RUN TMCとは?
RUN TMCとの出会い
わたくしリトルが中学生の時、部活のバスケと同じくらい夢中になっていたのが、洋楽でした。
毎週ベストヒットUSAを楽しみに観ていたんですが、あるミュージックビデオに衝撃を受けたんです。
RUN DMCの「Walk This Way」。
1986年、中学3年生の時でした。
それまでラップというものを知らなかった坊主頭でチンチクリンの中学生は、FMラジオからダビングした「Walk This Way」をTDKのテープが擦り切れるほど聞いていましたね(笑)
大学1年生となった1990年、RUN DMCよりも更にわたくしリトルを夢中にさせたのがRUN TMCでした。
ゴールデンステイト・ウォリアーズの核となる3選手、ティム・ハーダウェイ、ミッチ・リッチモンド、クリス・マリンの頭文字をとってTMC。
とにかく走ってシュートを打ちまくる、RUN&GUNの戦術をとっていたため「RUN TMC」。
今考えても素晴らしいネーミングセンスですね。
当時のバスケはまずインサイドにパスを入れ、できるだけゴールに近いところでシュートを打つことが基本でした。
高校の時は、自分がノーマークでもリバウンダーがいない状態でシュートを打ったら、監督から思いっきりビ〇タされてましたからね・・・。
NBAでも、エースに1on1の状態をつくるアイソレーションなど、しっかりプレーを組み立てて、時間を使ってシュートすることが基本でした。
そんな中、ガンガン走ってパスを回し、ちょっとでも隙があればシュートを打ちまくるウォリアーズの戦術は、多くの人を驚かせ、夢中にします。
わたくしリトルも、そのスピーディーな試合展開と、なによりもクリス・マリンの美しいプレーに心を奪われました。
名将ドン・ネルソン
RUN&GUNは、当時ウォリアーズのヘッドコーチ(HC)だったドン・ネルソンによって導入されました。
1976年から1987年までミルウォーキー・バックスのHCを務めたドン・ネルソンは、11シーズンのうち7シーズンで50勝以上、NBA最優秀コーチ賞を2回受賞した名将。
勝つためには常識にとらわれない奇策を用いることでも有名で、フリースローが苦手な選手にわざとファウルをし、フリースローを打たせるハック戦術(ハック・ア・シャックが特に有名)を考案したのもドン・ネルソンです。
後にスパーズを指揮し、最優秀コーチ賞を3度も受賞した名将グレッグ・ポポビッチは、ドン・ネルソンHCのもと、アシスタントコーチとして戦術を学んでいます(1992-94 ゴールデンステイト・ウォリアーズAC)。
1989年、1990年と2年連続で〝バッドボーイズ″デトロイト・ピストンズがNBAファイナルを制し、ディフェンスが最重要視されていた当時のNBA。
ネルソンHCは、能力をオフェンスに全振りして、とにかく相手チームより1点でも多く得点して勝つRUN & GUNの戦術で勝負を賭けました。
ノーガードでとにかく相手に殴り勝つボクサーのような戦法。
倒すか、倒されるか。
熱くならないわけがありません。
1989-90シーズン、ティム・ハーダウェイがルーキーとしてゴールデンステイト・ウォリアーズに加入して、RUN TMCが結成されます。
度肝を抜かれたのが、1990年11月2日に行われたシーズン開幕戦。
ウォリアーズと同様、攻撃に全振りするデンバー・ナゲッツとの試合は、記録的な打ち合いとなりました。
最終スコア162対158でウォリアーズ勝利。
クリス・マリンが38得点、9リバウンド、5アシスト、5スティール。
ティム・ハーダウェイは32得点、18アシスト。
ミッチ・リッチモンドは29得点をあげています。
とにかくオフェンス能力が高い3選手の強みを生かすため、ネルソンHCは、RUN&GUNを採用したのです。
ウォリアーズ対ナゲッツの試合は、当時テレビ放送はなかったんですが、ニュースとして取り上げられて、異常に興味をひかれたのを覚えています。
「なんなんだこの試合は!」と。
結局、1990-91シーズン、ウォリアーズは1試合平均得点116.6(NBA2位)、平均失点115.0(NBA26位)、44勝38敗の第7シードでプレーオフに進みます。
第2シードのサンアントニオ・スパーズを見事に倒しますが、カンファレンスセミファイナルでマジック・ジョンソン擁するロサンゼルス・レイカーズに1勝4敗で敗れました。
今あらためて見ると成績は平凡ですが、とにかくRUN TMCのエキサイティングなバスケを楽しめたシーズンでした。
しかも、あのマイケル・ジョーダン擁するシカゴ・ブルズが初優勝したシーズンでもあり、もしかしたら一番NBAに夢中になった年かもしれません。
ちなみに、1990-91シーズンの1試合平均得点で、ウォリアーズの上を行くNBA全体1位は、開幕戦で戦ったデンバー・ナゲッツの119.9得点。
しかし、ナゲッツの平均失点は当時の全27チーム中ダントツ最下位の130.8失点。
いかに攻撃重視のチームづくりが難しいかおわかりいただけるでしょうか?
ファンを熱狂させたRUN TMCはシーズン終了後、ミッチ・リッチモンドがトレードでサクラメント・キングスに去ったことで終わりを迎えます。
3人が揃ってプレーしたのは2シーズン。
3人がそれぞれ平均22得点以上をあげたのは、たったの1シーズンでした。
その1シーズンの思い出が、30年以上たった現在も人々に語り継がれていることが、RUN TMCの衝撃をあらわしています。
RUN TMC クリス・マリン
クリス・マリンのプロフィール
1963年7月30日生まれ
ポジション スモールフォワード
身長201㎝
1986年NBAドラフト 1巡目全体7位(ゴールデンステイト・ウォリアーズ)
1990-91シーズン成績
1試合平均 25.7得点 5.4リバウンド 4.0アシスト FG53.6% 3P30.1%
わたくしリトルが、NBAを約35年観続けてきた中で一番好きな選手は誰かと聞かれたら、すかさず「クリス・マリン!」と答えます。(ちなみに2位はマイケル・ジョーダン)。
身体能力お化けが揃うNBAの中で、クリス・マリンは走るのも遅く、201cmの身長ながら滅多にダンクもしない。
純粋にバスケのテクニックと卓越したシュート力だけで得点を量産するスタイルに憧れました。
1990-91シーズン、マリンはオールNBAセカンドチームに選ばれています(ちなみに翌1991-92 シーズンはファーストチーム選出)。
マリンの左手から放たれる美しいシュートと、スピードはないのにスルスルとゴール下に入り込んでいくレイアップを、大学生のリトルは何度も繰り返しビデオをみて、動きを練習していました(右利きですけど)。
とにかくコート上のどこからでもゴールを射抜く姿は、現在のカリーやトンプソンと重なります。
ポイントガードのティム・ハーダウェイが、「マリー(マリンのニックネーム)にパスをすれば必ずアシストがつく。」と言うほど、圧倒的な攻撃センスを持った選手でした。
あのマジック・ジョンソンは、マリンについて「神が造りたもうた完全なる選手」と語っています。
マリンは1992年の初代ドリームチームにも選出され、シュート力と華麗なアシストでアメリカの金メダル獲得に貢献。
2011年にバスケットボール殿堂入りも果たしました。
マリンについては、こちらの記事もご覧ください。
RUN TMC ミッチ・リッチモンド
ミッチ・リッチモンドのプロフィール
1965年6月30日生まれ
ポジション シューティングガード
身長196㎝
1988年NBAドラフト 1巡目全体5位(ゴールデンステイト・ウォリアーズ)
1990-91シーズン成績
1試合平均 23.9得点 5.9リバウンド 3.1アシスト FG49.4% 3P34.8%
ミッチ・リッチモンドは、あのマイケル・ジョーダンに「得点能力に関しては、僕を超えることができるセンスを持っている」と言わしめた、才能の塊でした。
1988年のNBAドラフトで1巡目全体5位でウォリアーズから指名されると、1試合平均22.0得点 4.2アシスト 5.2リバウンドをあげ、新人王を獲得。
クリス・マリンと同じように、コート内のどこからでもゴールを射抜けるシュート力をもち、マリンにはない身体能力と強靭な肉体をも併せ持っている万能プレイヤー。
後にアトランタオリンピックのアメリカ代表に選出され、金メダルを獲得。
オールスターにも6回選出。
1995年のオールスターではMVPも獲得しています。
リッチモンドも2014年にバスケットボール殿堂入りしている名選手です。
実力は申し分ないのですが、とにかく地味なイメージがあるリッチモンド。
地味なイメージの原因は、RUN TMC解体の原因となったトレードにありました。
トレードの相手は、ビリー・オーウェンス。
1991年NBAドラフト1巡目全体3位でサクラメント・キングスに指名された206㎝のルーキーフォワード。
サイズがありながら器用な選手で、ガードもこなせるオールラウンダー。
ドン・ネルソンHCが好むタイプの選手でした。
結局、オーウェンスはそこそこの活躍はみせるものの、NBAの歴史に残る失敗トレードと言われています。
リッチモンドが人気絶頂のウォリアーズから移籍した先は、リーグのお荷物チームサクラメント・キングス。
リッチモンドは、デビューから10年連続平均21得点以上という素晴らしい活躍をみせますが、チームは常にリーグの底辺をさまようドアマット。
リッチモンドがキングスに所属していた1991-98の間で、チームがプレイオフに進んだのはたったの1回のみでした。
結局1998年オフに、クリス・ウェバーとのトレードでワシントン・ウィザーズに移籍しますが、それまでトラブルを起こす問題児とされてきたウェバーがキングスを強豪に押し上げたのとは逆に、ウィザーズで思うように活躍できず、リッチモンドは評価を落としていきました。
現役最後の年に、ロサンゼルス・レイカーズでチャンピオンリングを取ることができたのは、正当な評価をされて来なかったリッチモンドへの神様のご褒美かもしれません。
1991年、RUN TMCとして躍動していたリッチモンドのプレーはダイナミックでした。
ハーダウェイからのアリーウープパスは、常にリッチモンドがリングに叩き込んでいました。
マリンの冷静で美しいプレーと、リッチモンドの荒々しくエキサイティングなプレー、二人を指揮するハーダウェイとの関係性が抜群に良かったんですよねー。
もっと3人でのプレーが観たかったなあ。
RUN TMC ティム・ハーダウェイ
ティム・ハーダウェイのプロフィール
1966年9月1日生まれ
ポジション ポイントガード
身長183㎝
1989年NBAドラフト 1巡目全体14位(ゴールデンステイト・ウォリアーズ)
1990-91シーズン成績
1試合平均 22.9得点 4.0リバウンド 9.7アシスト FG47.6% 3P38.5%
ティム・ハーダウェイと言えば、代名詞となっている〝キラークロスオーバー″。
それまで、ドリブルを右手から左手に、左手から右にチェンジすることを表していたクロスオーバーを、相手との駆け引きで一瞬で抜き去る必殺技に高めたのが、ハーダウェイでした。
特にレッグスルーからのクロスオーバーは、あまりの速さと振り幅の大きさに、わかっていても止められない、まさに必殺技でした。
ハーダウェイがゆっくりドライブしながら相手のポイントガードと正対し、1対1を仕掛け始める時の緊張感と余裕がたまらなく好きでした。
そしてこれまたバスケ部みんなマネして練習していました。
結局、あんなにあっさりディフェンスを抜き去ることは、誰にもできませんでしたが(笑)
ハーダウェイは、クロスオーバーからリングにドライブし、レイアップやアウトサイドで待つマリンやリッチモンドにアシストするだけでなく、プルアップのジャンプシュートや3ポイントも高確率で決めていました。
身長が低いこと以外は、本当に穴のない選手でしたね。
1981年NBAドラフト1巡目全体14位でゴールデンステイト・ウォリアーズに指名されると、すぐに先発に抜擢され、1年目から1試合平均14.7得点 8.7アシスト(9位) 2.09スティール(10位)と素晴らしい活躍をみせます。
そして2年目の1990-91シーズンになるとさらに成績を大幅にアップし、リーグを代表するポイントガードとなったのです。
RUN TMCが解体した1991-92シーズンには、1試合平均23.4得点 10.0アシストとさらに成績をアップさせ、オールNBAセカンドチームに選出されています。
この年1992年のオールスターは、HIVウイルスによってシーズン開幕前に引退していたマジック・ジョンソンが一夜限りの復活を果たした特別なオールスターでした。
マジックはHIVでコートから離れていたことが嘘のように素晴らしいプレーを連発。
わたくしリトルが観てきた中で、1番感動したオールスターでしたが、本来ウエスタンカンファレンスのスターターには、ティム・ハーダウェイが選出されていました。
ハーダウェイは、「自分にはまだスターターになれるチャンスがこの先にもあるから」とマジックにスターターを譲ったのです。
マジック・ジョンソン最後のオールスターを特別なものにした、影のMVPだと思います。
ハーダウェイは、1994年世界選手権のアメリカ代表(ドリームチームⅡ)に選出されますが、練習中に左膝前十字じん帯を断裂。
1993-94シーズンを全休するほどの大けがでした。
1994-95シーズンに復帰すると、1試合平均20.1得点 9.3アシストとトップポイントガードの一人であることを証明しましたが、かつての爆発的なスピードは失われ、アウトサイドシュートを中心としたプレイスタイルに変更を余儀なくされていました。
ハーダウェイは、1995-96シーズン途中にマイアミ・ヒートに移籍。
2001年までヒートの司令塔として、チームを牽引しました。
ハーダウェイの背番号10は、マイアミヒートの永久欠番になっています。
2000年にはシドニーオリンピックにアメリカ代表として選出。
最年長のリーダーとして、チームメートのアロンゾ・モーニングとともに金メダルを獲得しています。
183㎝の身長ながら、NBAで14年間もの長い間プレーしたハーダウェイは、クリス・マリン、ミッチ・リッチモンドに続いて、2022年バスケットボール殿堂入りを果たしたのです。
RUN TMC vs スプラッシュブラザーズ
RUN TMCが躍動した2シーズンは、強烈なインパクトを与えてくれました。
その後も、ウォリアーズを応援し続けてきたわたくしリトルを、再度熱狂させたのがステフィン・カリーとクレイ・トンプソンからなるスプラッシュブラザーズです。
果たして、RUN TMCとスプラッシュブラザーズ、どちらが優れているのか?
答えはもちろん、今年4回目のNBA制覇を果たしたスプラッシュブラザーズと言えるでしょう。
カリー、トンプソンにドレイモンド・グリーンを加えたトリオは、オフェンスの爆発力だけでなく、ディフェンスも優れています。
戦力として比較した場合、スプラッシュブラザーズがRUN TMCに負ける要素はないかもしれません。
ただ、ディフェンスが最重要視されハンドチェックも認められていた時代に、RUN TMCがみせた華麗なプレーは、今でも心に焼き付いています。
3人がともにプレーしたのはたった2年間。
その2年間の思い出を、30年以上たった現在も多くのファンが語り合っています。
できることなら、RUN TMC擁するウォリアーズがどこまで強くなっていくのかを、もっともっとみたかったですね・・・。
まとめ
今回は、わたくしリトルの青春、RUN TMCについて語ってきました。
今観ても、RUN TMCのバスケは古くささを感じさせません。
まるで、2022年現在のNBAのトレンドを取り入れているようです。
ティム・ハーダウェイの殿堂入りでRUN TMCの3人に再度スポットがあたったことが、本当にうれしかったです。
授賞式には、ダラス・マーベリックスに所属している、息子のティム・ハーダウェイJr.の姿もありましたね。
ハーダウェイJr.にも父に負けないようにがんばってほしいと思います。
ティムおめでとう!!!
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