腰痛とたたかいながら、NBA、ワールドカップサッカーとスポーツを思う存分楽しんだリトルです。
スーパースター〝メッシ″の最後のワールドカップとしても注目された、サッカーワールドカップカタール大会。
メッシは35歳とは思えない活躍で、母国アルゼンチンを36年ぶりの優勝に導きました。
当初ドイツ、スペインにはかなうわけがないと思っていた森保ジャパン。
まずドイツ戦でのジャイアントキリングで大興奮。
コスタリカ戦で「なんだよー。」とテンションが下がり、スペイン戦では感動の涙を流してしまいました。
短い期間で大きく感情を揺さぶられたため、なんだか少し髪の毛が薄くなってきたような気がしています。
決勝トーナメントに進み、ベスト8をかけた1回戦でクロアチアにPK戦で敗れ、日本代表の快進撃は終わってしまいました。
私たちの想像以上の力を発揮し、感動を届けてくれた日本代表の選手たちには、心から拍手を送りたいと思います。
それにしてもクロアチアは小さい国なのに、スポーツ強いですね。
準決勝でアルゼンチンに敗れたものの、人口410万人の小さな国(福岡県の人口は510万人)が、強豪国相手に戦う姿は、感動的ですらありました。
サッカーにしても、バスケにしても、国を代表している一体感を感じますね。
クロアチアはユーロバスケ2022では、決勝トーナメント1回戦で、ラウリ・マルッカネンが覚醒したフィンランドに敗れてしまいましたが、バスケットボールの世界でも、長年強豪国として優秀な選手をNBAに送り込んでいます。
初代ドリームチームがバルセロナオリンピックの決勝で戦ったのも、クロアチアでしたね。
今回のサッカーワールドカップで、クロアチア代表のリーダーとしてチームを支えていたのがルカ・モドリッチ。
彼の活躍をみていて思い出したのが、バスケクロアチア代表の不動のリーダーだったドラゼン・ペトロビッチです。
今回は、クロアチア出身の元NBA選手で、後に続くヨーロッパ出身NBA選手の先駆けとなった、ドラゼン・ペトロビッチについて語ります。
悲劇の闘将 ドラゼン・ペトロビッチ
クロアチア出身の歴代NBA選手といってまず最初に名前があがるのが、ドラゼン・ペトロビッチ。
〝悲劇のヒーロー″として語り継がれている、ヨーロッパ出身選手の先駆けとなった天才です。
ペトロビッチの誕生からNBA入りまで
旧ユーゴスラビア連邦クロアチア共和国のシベニクという港町の警察署長の息子として生まれたドラゼン・ペトロビッチは、兄の影響でバスケットボールにのめりこんでいきます。
極端に負けず嫌いだった彼は、すぐに頭角を現し、15歳で地元のクラブ、BCベンシカに入団。
高校卒業後は、ベンシカ大学で法学を学びながらプレーを続け、18歳でトップチームのレギュラーとなり、すぐにエースの座をつかみます。
1983年BCシベンカを、ユーゴスラビアン・クラブ・チャンピオンシップ優勝に導く活躍をみせると、同年ナショナルチームにも選出され、ユーゴスラビア中にその名をとどろかせました。
BCシベンカで2年間プレーした後、1年の兵役を経てクロアチアの首都ザグレブの名門クラブチーム、シボナに移籍。
1年目からチームをヨーロッパチャンピオンに導き、自身もヨーロッパベストプレーヤーに選ばれます。
このシーズン、ペトロビッチはユーゴスラビアリーグで1試合平均43.3得点というとんでもない記録を打ち立てます。
1試合で112得点という恐ろしい記録も打ち立てました。
シボナでの4年間で数々のタイトルと称賛を勝ち取ったペトロビッチが、次に選んだ活躍の場はスペインのレアル・マドリード。
レアルでもすぐにエースとしてスパニッシュカップ、ヨーロピアンカップを制し、ついに〝ヨーロッパ史上最高のバスケットボールプレイヤー″とまで呼ばれるようになります。
クロアチアリーグ、スペインリーグで活躍した後、ついにペトロビッチは世界最高峰のバスケットボールリーグNBAに挑戦するため、海を渡る決心をしました。
ペトロビッチNBAでの活躍
ペトロビッチが入団したのはポートランド・トレイルブレイザーズ。
1986年のNBAドラフトで、ペトロビッチはトレイルブレイザーズから3巡目60位で指名されるも、所属していたBCシベンカとの複雑な契約もあり、渡米は見送られていたのです。
1989年、トレイルブレイザーズは、当時所属していたレアルマドリードに、残り3年間の契約違約金約1500万ドルを支払うことで、ペトロビッチをチームに加えることに成功したのです。
しかし、1年目のシーズン(1989-90)は、所属したポートランド・トレイルブレイザーズにクライド・ドレクスラーという絶対的エースのシューティングガードがいたため、平均12分程度の出場時間しか与えられず。
2年目(1990-91)はさらに出場時間を減らし、ペトロビッチの不満は頂点に達します。
自分の実力を発揮できない環境に、人一倍闘争心の強いペトロビッチは我慢ならなかったのです。
ブレイザーズはついにペトロビッチをあきらめ、ニュージャージー・ネッツ(現ブルックリン・ネッツ)へトレードで放出。
すると、1990-91シーズン、ブレイザーズでは1試合平均7.4分の出場で4.4得点(18試合)だった成績が、ネッツでは20.5分の出場で12.6得点(43試合)と、大きく飛躍。
1991-92シーズンは、この年のドラフト2位、ポイントガードのケニー・アンダーソンと、前年のドラフト1位でルーキーオブザイヤーを獲得したデリック・コールマンとのトリオを形成し、チームを6年ぶりのプレーオフに導きます。
シーズン後には、バルセロナオリンピックにクロアチア代表として出場。
決勝で、マジック・ジョンソン、ラリー・バード、マイケル・ジョーダンなどを擁するスーパースター軍団、初代ドリームチームアメリカ代表と戦い、銀メダルを獲得しています。
ペトロビッチは、1991-92、1992-93の2シーズン、ニュージャージーネッツのエースとして、恐ろしいほどの闘争心でチームを牽引しました。
1991-92 1試合平均 20.6得点 3.1アシスト 3P% 44.4%
1992-93 1試合平均 22.3得点 3.5アシスト 3P% 44.9%
1992-93シーズン、ペトロビッチはオールNBAサードチームに選出され、ネッツは2年連続プレーオフに進出。
ただ、この年オールスターに選ばれず、ペトロビッチが悔しさをあらわにしていたことを思い出します。
誰もがネッツの、そしてペトロビッチの明るい未来を想像していました。
衝撃的だったペトロビッチの事故死
1993年NBAシーズンオフの6月にポーランドで開催されるユーロバスケットの予選にクロアチア代表として参加したペトロビッチ。
当初ネッツ側は、かかとのケガを治癒することを優先するため、ユーロバスケへの出場に反対していましたが、ペトロビッチは出場を強行。
決勝でスロベニアに敗れたものの、ユーロバスケ本戦の出場権を獲得しました。
決勝で30得点をあげたペトロビッチは、決勝の翌日に母国に戻るクロアチア代表のチームメイトと別れ、ドイツの首都ベルリン在住のガールフレンドとフランクフルト空港で落ち合います。
当初クロアチア代表のチームメイトと共に、クロアチアの首都ザグレブに向かう予定でチケットもとっていましたが、経由地のフランクフルトで、ガールフレンド(ハンガリー人のバスケットボール選手)も移動中だと知り、急遽予定を変更して彼女の自宅があるベルリンまで同行することにしたのです。
1993年6月7日17時20分、フランクフルトからベルリンに向かうアウトバーンで、その事故は起きました。
ペトロビッチとガールフレンド、ガールフレンドの友達、3人を乗せたフォルクスワーゲンゴルフが、雨の中180km近い猛スピードで、ベルリンに向かっています。
ペトロビッチ達の車と反対車線を走ってきた、雨の中制御不能となったトレーラーが、中央分離帯のガードレールを突き破る事故を起こし、反対車線の3車線を倒れたトレーラーがふさぐ。
そこに猛スピードで突っ込んできたのが、ペトロビッチのガールフレンドが運転するゴルフでした。
助手席でシートベルトをせずに寝ていたペトロビッチの体はフロントガラスを突き破り、前方に投げ出されると、トレーラーの車両に激突。
即死だったそうです。
28年間の短すぎる人生でした。
しかし、たった4年間のNBAでの活躍が、後に続くヨーロッパ選手たちの大きな希望となりました。
現在、渡邊雄太も所属するブルックリン・ネッツのホームアリーナ〝バークレイズ・センター″には、ジェイソン・キッドなど、チームのレジェンドと共に、ペトロビッチの背番号3の永久欠番バナーが掲げられています。
2002年には、マジック・ジョンソンらとともに、バスケットボールの殿堂入りも果たしているペトロビッチ。
それまでソフトだったヨーロッパ選手のイメージを、激しい闘志と卓越した得点能力で大きく変えたペトロビッチは、ヨーロッパの子供たちに、NBAという新たな夢を与えました。
2022-23シーズンのNBAでは、クロアチア出身の選手として、ボーヤン・ボグダノビッチ(デトロイト・ピストンズ)、ダリオ・シャリッチ(フェニックス・サンズ)、イビツァ・ズバッツ(ロサンゼルス・クリッパーズ)らが、それぞれチームの主力として活躍しています。
彼らがNBAを目指し、到達できたのは、ドラゼン・ペトロビッチがNBAへの道を切り開いたからだと思います。
ペトロビッチの活躍は、クロアチアだけではなく、多くのヨーロッパの子供たちに、おおきな夢を与えたのです。
余談ですが、事故が起きた当時、わたくしリトルは、社会人になりたてで、29万円の中古のマークⅡを購入し、慣れない運転で通勤をしていました。
ペトロビッチの事故死の記事をみて、大きなショックを受けると同時に、「シートベルトは絶対にしないといけない。」(運転していたガールフレンドはシートベルトをしており軽傷だった)と強く感じたのを覚えています。
まとめ
今回は、クロアチアの闘将、ドラゼン・ペトロビッチについて語りました。
ワールドカップサッカーカタール大会でクロアチアを引っ張るのルカ・モドリッチ選手を観ていて、なんとなくペトロビッチを思い出したんですよね。
初代ドリームチームとバルセロナオリンピック決勝で戦ったクロアチアチームを引っ張っていたのは、間違いなくペトロビッチでした。
後にシカゴ・ブルズ後期3連覇に貢献するトニー・クーコッチや、ボストン・セルティックスで活躍したディノ・ラジャら豊富なタレントが揃っていたクロアチア代表においても、ペトロビッチは不動のリーダーとしてチームを常に鼓舞していました。
ネッツで素晴らしいリーダーシップをみせ、さあこれからという時に天国に旅立ったペトロビッチ。
もし、ネッツのフロントの言う通り、ユーロバスケ予選出場を見送っていれば・・・。
もし、試合翌日予定通りチームメイトとザグレブまで予定どおり飛行機で移動していれば・・・。
もし、彼女ではなく、ペトロビッチがハンドルを握っていれば・・・。
多くのif・・・が浮かんできます。
人生は、ちょっとしたことで、大きく運命が変わってしまうことを痛感させられますね。
2022-23シーズン開幕時、NBAの開幕ロスターには、アメリカ以外の国、40カ国120人の外国籍選手が登録されています。
120人の中には、八村塁・渡邊雄太の2人の日本人も含まれています。
35年間NBAを観続けたわたくしリトルにとって、マイケル・ジョーダンの時代以上に熱狂できることは、もうないだろうと思っていましたが、より身近な日本人2人の活躍で、50歳を超えた今、熱狂の真っただ中にいるんです。
特にブルックリン・ネッツで、キャンプ契約から這い上がり、チームの躍進に貢献している渡邊雄太選手の活躍には日々胸を躍らせています。
もし、現在NBAから遠ざかっているかつてのファンがいらっしゃるのなら、「今NBA観ないでどうするの!」と強く言ってあげたいです。
確かに、現在NBAはNBA Rakutenが独占放送しているため、離れている方も多いかと思います。
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絶対にワクワクする毎日が待っていますよ。