守護神 ディケンベ・ムトンボを語る【2022ジャパンゲームス レジェンド】

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みなさん、2022NBAジャパンゲームズ ゴールデンステイトウォリアーズ対ワシントン・ウィザーズ観ましたか?

今回、NBA Rakutenアプリに登録していなくても、YouTubeで無料配信されたのはよい試みだったと思います。

ただ、NBAファンを増やすためには、できれば地上波で放送してほしかったですねえ。

NBAチャンピオンのウォリアーズ日本のエース八村塁擁するウィザーズの戦いにしては、盛り上がりがいまいちだった気がします。

会場の盛り上がりはすごかったですけどね。

さて、今回NBA Rakutenで試合を観て、個人的に一番熱くなったのが、豪華なゲストの登場でした。

ウォリアーズのレジェンドとして最初に紹介されたのが、ザザ・パチューリアだったのは、ちょっとツボに入ってしまいましたが・・・。

ウォリアーズからはザザショーン・リビングストンの2人、ウィザーズからはドリュー・グッデンジョージ・ミュアサンアントワン・ジェイミソンの3人がレジェンドとして紹介されました。

みんな思い出深い選手ばかりなんですが、特にNBA歴代最高身長(231cm)ジョージ・ミュアサンのフレンドリーなおじぎが印象的でしたね。

そして、NBAレジェンドとして紹介されたのが、ディケンベ・ムトンボ、リチャード・ハミルトン、ティム・ハーダウェイの3人でした。

3人とも1990年から2000年代にかけてNBAを支えたスター選手で、オールスター出場は3人合わせて16回。

ムトンボとハーダウェイの二人は、バスケットボールの殿堂入りもしています。

久しぶりに見る3人は(ハーダウェイは今年の殿堂入りスピーチで見ましたが)現役の時とは一味違う穏やかな笑顔が印象的でした。

今回は、わたくしリトルの青春を彩ってくれたレジェンドの中から、ディケンベ・ムトンボについて語ります。

※ティム・ハーダウェイについては、RUN TMCについて語った記事をぜひご覧ください。

目次

ディケンベ・ムトンボの基本情報

本名  ディケンベ・ムトンボ・ンポロンド・ムカンバ・ディケンズ・ジャン・ジャック・ワムトンボ

生年月日  1966年6月25日

出身地 コンゴ民主共和国 キンシャサ

身長 218㎝  体重  118kg

出身大学  ジョージタウン大学

NBAドラフト 1991年 1巡目 全体4位(デンバー・ナゲッツ)

NBA在籍期間 18年間 1991年ー2009年

ポジション センター(C)背番号55

所属チーム 1991-96 デンバー・ナゲッツ

      1996-01 アトランタ・ホークス

      2001-02 フィラデルフィア・76ers

      2002-03 ニュージャージー・ネッツ

      2003-04 ニューヨーク・ニックス

      2004-09 ヒューストン・ロケッツ

NBAオールスター出場 8回(1992 1995-98 2000-02)

オールNBAセカンドチーム (2000)

オールNBAサードチーム 2回(1997 2001)

NBA最優秀守備選手賞 4回(1994 96 97 00)

NBAオールディフェンシブファーストチーム 3回(1996 97 00)

NBAオールディフェンシブチームセカンドチーム 3回(1994 98 01)

NBAリバウンド王 2回(2000 01)

NBAブロック王 3回(1994 95 96)

NBA通算記録

レギュラーシーズン 1試合平均 9.8得点 10.3リバウンド 2.8ブロック

プレイオフ1試合平均 9.1得点  9.5リバウンド 2.5ブロック

幼少期~大学時代

彼はコンゴ共和国(当時はザイール)のキンシャサで10人兄弟の7番目として生まれました。

ディケンベ・ムトンボの逸話の一つに、とんでもない名前の長さがあげられます。

ディケンベ・ムトンボ・ンポロンド・ムカンバ・ディケンズ・ジャン・ジャック・ワムトンボ

まるで落語の「寿限無」のような長い名前は、両親、親戚の人達からつけてもらった名前をつなげたからだそうです。

もう一つ、有名な話が、彼はものすごく優秀な生徒だったということです。

父親が学校の教師(校長までつとめた)という環境で生まれ、地元でも有名な秀才だったムトンボは、アメリカの奨学金を受け、医師になるためジョージタウン大学へ進学することになります。

勉学にとりくむためアメリカに渡った彼を待ち受けていたのは、パトリック・ユーイングを育てた名将ジョン・トンプソンでした。

高校生の時にはすでに身長210cmを超えていたムトンボでしたが、子供の頃はサッカーに夢中になっていました。

身長が人一倍高かったため、バスケを勧められましたが、「身体接触が多いからバスケは嫌いだった。両親にほとんど強制されて仕方なく始めた。」と後に語っています。

それでも、バスケを始めて1年余りでナショナルチーム代表に選ばれるまで成長。

名将ジョン・トンプソンがこれほどの逸材をほっておくわけがありませんでした。

2年生になってから公式戦に出場すると、1学年下のアロンゾ・モーニングとツインタワーを形成し、徐々に頭角をあらわします。

4年時には、1試合平均15.2得点、12.2リバウンドと優秀な成績を残し、ビッグイースト・カンファレンスの最優秀守備選手賞を受賞

学業も怠ることなく、外交学と言語学の学位を取得し、優秀な成績を残し卒業します。

地元キンシャサで使用していたルバ語のほかに、4つのアフリカ言語、英語、フランス語、スペイン語、ポルトガル語と9つの言語を話すことができる、何リンガルかわからない状態となりました。

そして1991年NBAドラフト1巡目全体4位でデンバー・ナゲッツに指名されます。

デンバー・ナゲッツ時代

ムトンボが入団する前の1990-91シーズン、ナゲッツは20勝62敗と大きく負け越しています。

そんな弱小チームに入団したムトンボは、ルーキーながら全試合に先発出場

ルーキーながらオールスターに選出されます。

1992年のオールスターといえば、HIVウイルスによって引退したマジック・ジョンソンが一夜だけの復活を果たした特別なオールスターでした。

注目されたオールスターにおいて、ムトンボはチャールズ・バークレーに吹っ飛ばされながらダンクを決められ、倒れたところにボールを渡される屈辱を受けます。

解説の結城昭二さんが、「こりゃ、トンボだ。」と言ったのが、とても印象的でした。

結局ルーキーの年は24勝62敗と勝ち星をのばせず。

しかしムトンボは1試合平均16.6得点、12.3リバウンド、2.2アシスト、3.0ブロックと素晴らしいスタッツを残し、オールルーキーファーストチームに選出されます。

平均得点の16.6は、ムトンボの18年間におよぶ長いNBA生活で、最も高い平均得点でした。

身体は細く、走り方もぎこちなく、けして器用ではないものの、長い手足と頭脳を使った献身的なプレーは、徐々にナゲッツのチーム力を上げていきます。

入団3年目の1993-94シーズン、ナゲッツはやっと42勝40敗と勝ち越し、第8シードでプレイオフに進出

ムトンボにとっては初めてのプレイオフで、ナゲッツは奇跡を起こします。

1回戦の相手は、ショーン・ケンプゲイリー・ペイトンを中心に、リーグ全体首位(63勝19敗)のシアトル・スーパーソニックス

当時1回戦は3勝したチームの勝利でしたが、1位のチームに8位のチームが勝利したことは、この時点まで1度もありませんでした。

ナゲッツは第1戦、2戦を落とし、がけっぷちに追い込まれますが、そこから奇跡の3連勝

史上初めてトップシードを破った第8シードとなります。

ムトンボは1回戦の5試合で、1試合平均12.6得点、12.2リバウンド、そしてなんと6.2ブロックを記録。

まさに守護神としてリーグ最強チームを封じ込めたのです。

終了のブザーが鳴り、リバウンドでつかんだボールを両手で抱え、床に倒れて喜びの涙を流すムトンボの姿が印象的でした。

カンファレンスセミファイナルの相手は、ジョン・ストックトン&カール・マローンを擁する強豪ユタ・ジャズ

圧倒的な戦力差があると言われながら、最終第7戦まですすみましたが、惜しくも敗退。

ジャズとの7戦でも、ムトンボは1試合平均13.7得点、11.9リバウンド、5.4ブロックと活躍し、評価を上げました。

この1993-94シーズンから1995-96シーズンの3シーズン、ムトンボはブロック王となり、リーグを代表する守備型センターとしての地位を確立します。

しかし、チームは1994-95シーズン41勝41敗、再度第8シードでプレイオフに進出するも、サンアントニオ・スパーズに1勝もできず完敗。

ムトンボ自身は、この年ルーキーの時以来のオールスター出場、初の最優秀守備選手賞受賞3年連続ブロック王と、選手としての価値を高めますが、チームの勝利にはなかなか繋がらない状態でした。

1995-96シーズンを35勝47敗と大きく負け越すと、ムトンボはアトランタ・ホークスにトレードされたのです。

アトランタ・ホークス時代

アトランタ・ホークスのヘッドコーチは名将レニー・ウィルケンズ

チームには、スティーブ・スミスムーキー・ブレイロック、そして初代ドリームチームに学生枠で出場したクリスチャン・レイトナーなど、地味ながら勝利に貢献できる選手が揃っていました。

迎えた1996ー97シーズン、ムトンボは2度目の最優秀守備選手賞を受賞する大活躍。

チームは56勝26敗と好成績をあげ、第4シードでプレイオフに進出すると、1回戦でデトロイト・ピストンズを3勝2敗で倒します。

しかし、カンファレンスセミファイナルで、当時最強のブルズに4勝1敗で敗退

最後は完敗でしたが、明るい未来を予感させるシーズンでした。

しかし、翌1997-98シーズン50勝32敗、イースタン5位でプレイオフに進むもシャーロット・ホーネッツに3勝1敗で完敗。

ムトンボ自身は3度目の最優秀守備選手賞に輝く素晴らしいシーズンとなりましたが、チームは伸び悩みを感じる1年でした。

1998-99の短縮シーズン(ロックアウトにより全50試合)は、31勝19敗のイースタン4位でプレイオフ進出。

1回戦を勝ち抜くも、カンファレンスセミファイナルで、イースタン8位のニューヨーク・ニックスに0勝4敗のスウィープで敗れ、ミラクルニックスの引き立て役になってしまいました。

シーズン終了後、ホークスのフロントはチームの解体を選択し、エースのスティーブ・スミス、ムーキー・ブレイロックを放出

ホークスで優勝するというムトンボの夢は、かないませんでした。

しかし、弱小チームとなったホークスで奮闘するムトンボに、転機が訪れます。

フィラデルフィア・セブンティシクサーズ時代

2000-01シーズン、史上最も小柄な得点王、アレン・アイバーソン擁するフィラデルフィア・セブンティシクサーズが開幕から10連勝と最高のスタートをきります。

シクサーズのセンターは前年のブロック王で、守備力の高いテオ・ラトリフ

ラトリフはこの年ファン投票でイースタンの先発センターに抜擢されていました。

しかし、ケガのためラトリフの欠場が続くと、シクサーズのフロントは優勝のためにムトンボを獲得する賭けに出ます。

ムトンボはオールスター明けにラトリフらとのトレードでシクサーズに加入すると、圧倒的な存在感でゴール下を制圧。

1試合平均13.5リバウンドでリバウンド王となり、自身4回目の最優秀守備選手賞を獲得します。

シクサーズは56勝26敗のイースタン首位でプレイオフに進出すると、インディアナ・ペイサーズ(3勝1敗)、トロント・ラプターズ(4勝3敗)、ミルウォーキー・バックス(4勝3敗)を倒しファイナルに進出しました。

ファイナルの相手はシャキール・オニールコービー・ブライアントを擁する、前年チャンピオンのロサンゼルス・レイカーズ

歴代最強チームとも言われる2000-01シーズンのレイカーズは、無敗でファイナルまで駆け上がります。

下馬評では、圧倒的にレイカーズ有利の中シクサーズは、初戦をオーバータイムに持ち込みます。

アイバーソンが48得点をかせぎ、大事なところではシャキールオニールを止めるハック・ア・シャックを用いて、何とかシクサーズは107対101で勝利。

ムトンボは、リーグ最強センター、シャキール・オニール相手に身体をはり、ファールを重ねながらも13リバウンドを奪う活躍をみせました。

第2戦からは、コービー、シャックの爆発をとめれず、ビッグショットロブことロバート・オーリーの土壇場での3ポイントが飛び出すなど、4連敗。

シクサーズの、そしてムトンボの夢、チャンピオンリングには手が届きませんでした。

キャリア後期~引退

ムトンボは、翌シーズンもシクサーズで戦いましたが、アイバーソンをはじめケガ人が続出し、43勝39敗と大きく成績を落とし、イースタンカンファレンス6位でプレイオフに進出。

ムトンボはレギュラーシーズン1試合も休むことなく、1試合平均11.5得点 10.8リバウンド 2.4ブロックと奮闘、オールディフェンシブセカンドチームに選ばれる活躍をみせました。

しかし、シクサーズはプレイオフ1回戦でボストン・セルティックスに敗れ、ムトンボのシクサーズでの挑戦は終わりました。

2002-03シーズンはニュージャージー・ネッツに移籍したムトンボは、手首のけがによる欠場が増え、成績も下降。

その後ニューヨーク・ニックスシカゴ・ブルズヒューストン・ロケッツを渡り歩きます。

キャリア最後のチーム、ヒューストン・ロケッツ(2004-09)では、姚明(ヤオ・ミン)の控えとしてプレーしていましたが、2006-07シーズンに姚明がケガで欠場が続いた際は33試合に先発出場

先発した試合では、二桁リバウンドを奪うなど奮闘しました。

しかし、2009年プレーオフ1回戦のポートランド・トレイルブレイザーズ戦で左膝前十字じん帯断裂の大ケガを負い、ムトンボの選手としての旅は終わりを迎えたのです。

2015年にアトランタ・ホークス、2016年にデンバー・ナゲッツで、ムトンボの背番号55が永久欠番になりました。

2015年には、バスケットボールの殿堂入りも果たしています。

NBAの長い歴史の中でブロック数「3289」はアキーム・オラジュワンに続いて歴代2位

最優秀守備選手賞4回はベン・ウォレスと並んで歴代最多

まさにゴール下の守護神として君臨してきました。

NBAの舞台で大活躍をしてきたムトンボでしたが、引退後もさらに活躍は続きます。

ムトンボ 引退後の大活躍

ムトンボは、現役時代から故国のコンゴ共和国に私財をつぎこみます。

母国コンゴ共和国の医療設備は、他国に比べてかなり遅れている状況でした。

もともと医学の道を目指していたムトンボは、母国の病院に対し、資金やベッド、医療器具などを送る活動を続けていました。

1997年には故国の生活環境改善のため「ディケンベ・ムトンボ財団」を設立。

2007年にはついに故郷のキンシャサに300床を有する病院を建設します。

病院の名前は「ビアンバ・マリー・ムトンボ病院」

内戦により病院に行けず、脳卒中で倒れた母親の名前をつけた病院でした。

投じた私財は1500万ドル(当時約17.5億円)と言われています。

「アメリカではみな自分自身のために成功を追い求める。でもアフリカの考え方では、成功は家族のためのものなんだ。自分がここまで成長するのに、多くの人が手を貸してくれた。今度は私が彼らの手助けをする番だ。」とムトンボは語っています。

人道主義者としての活動は、母国だけにとどまりません。

東日本大震災の時には津波で甚大な被害を受けた宮城県仙台市で、子供たちにバスケットボールクリニックを行うため来日もしています。

ムトンボの活躍のおかげで救われた人はどれだけいるでしょうか?

「コンゴでは、バスケットボールを知らない人はいるが、ムトンボを知らない人はいない。」と言われるまでになった大スター。

数々の表彰を受けながら、ムトンボは今後も母国発展のために尽くしていくでしょう。

医師を目指してアメリカに渡った青年は、より大きな存在となって、母国の発展のため今も奮闘しているのです。

まとめ

今回は、守護神ディケンベ・ムトンボについて語りました。

相手のシュートを豪快にブロックした後、人差し指を左右に振る姿は、本当にかっこよかったですね。

逆にジョーダンにダンクがムトンボの前でダンクを決めて、指を振りかえした時はもっとかっこよかったですけど。

ダンクは43秒から

引退後も、さまざまなチャリティーや慈善活動を行い、母国に病院まで建設したスーパースタームトンボ。

まさにレジェンドにふさわしい人物ではないでしょうか?

こうしてムトンボの記事をまとめると、まるで偉人の伝記を読んだような気分になりました。

現在のNBAではセンターの重要性が下がってきていますが、やはり守護神と呼べるブロッカーの活躍をまたみたいですね。

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