2023-24シーズン、〝キング″レブロン・ジェームズがとんでもない記録を打ち立てました。
現地時間3月2日に行われたデンバー・ナゲッツ戦で、前人未踏のNBA通算4万得点を達成したのです。
4万得点がどれだけ凄いことなのか、いまいち伝わりにくいかと思うので例を出すと、昨シーズンNBAの最多得点が、ジェイソン・テイタムの2225得点。
この2225得点を18シーズン毎年続けたら、4万50得点になります。
圧倒的な得点力に加え、ケガをしない強靭な肉体と精神力も必要となる、前人未到の記録です。
レブロンが史上最高の選手(GOAT=Greatest Of All Time)と呼ばれるに値する選手であることは間違いないのですが、GOAT議論になると、必ずもう一人のスーパースターがレブロンの前に立ちふさがります。
〝神様″マイケル・ジョーダンです。
今回はNBAを約35年間観つづけてきたわたくしリトルが、NBAの、そして世界中のスポーツの頂点を極めた男、マイケル・ジョーダンについてとことん語ります。
リトルにとってのマイケル・ジョーダンとは
NBAを35年間観つづけているわたくしリトルにとって、マイケル・ジョーダンは本当に神様のような存在です。
史上最高の選手(GOAT:Great Of All Time)は、わたくしリトルにとって間違いなくマイケル・ジョーダンで、今後どんなにすごい選手が現れても、変わることはないでしょう。
なぜなら青春時代すべてが、マイケル・ジョーダンの熱狂の中にいたから。
ジョーダンが「個人成績はすごいがでチームを勝たせることができない選手」と言われ続けた時代 ~ 〝バッドボーイズ″デトロイト・ピストンズに叩きのめされ続けた時代 ~ 歓喜の初優勝からの3連覇 ~ 父の死、そして大リーグへの挑戦 ~ NBAに復活、そしてマジック戦での屈辱 ~ 涙の優勝からの3連覇 ~ ブルズ崩壊、2度目の引退 ~ ウィザーズでの復活、そして引退。
わたくしリトルが高校生の時から30代初めまでという、最もバスケを楽しんでいた時代に、これだけの壮大なドラマを体感してきたのです。
若きリトル青年の心を熱く燃やしたジョーダンのプレーは、興奮は、いまでも脳裏にしっかり焼きついています。
きっと今の若いNBAファンにも、同じように心を燃やしてくれる選手がいるでしょう。
レブロン・ジェームズ、ステフィン・カリー、二コラ・ヨキッチ、ヤニス・アデトクンポ、ルカ・ドンチッチ・・・。
一人ひとりのファンの中にGOATと呼べる選手がいると思います。
よくGOATはジョーダンか、レブロンかといった議論が白熱しているような記事が出ていますが、正直あまり意味はありませんね。
スタッツや受賞歴で比べてみても、誰もが納得するような答えが出るものじゃありませんから。
まあ、答えが出ない話を「ああでもない」「こうでもない」って言いあうのが、一番楽しいのかもしれませんが(笑)。
とにかく、マイケル・ジョーダンはわたくしリトルのGOATで、青春時代のすべてです。
今回は当ブログの100記事目ということで、マイケル・ジョーダンについて語ります。
ブログを立ち上げた時から「もし100記事続いたら、その時はジョーダンについて書こう!」と決めていましたから。
マイケル・ジョーダン プロフィール
マイケル・ジェフリー・ジョーダン
1963年2月17日生まれ
身長 198㎝
体重 98㎏
ポジション SG
出身校 ノースカロライナ大学
1984年ドラフト1巡目全体3位(シカゴ・ブルズ)
NBA在籍期間:1984-1993 1995-1998 2001-2003
背番号歴 23 (12) 45
※ 背番号12は、試合前にユニフォームが盗まれた際、1度だけ着用
所属チーム:シカゴ・ブルズ ワシントン・ウィザーズ
マイケル・ジョーダン 生涯スタッツ・受賞歴
マイケル・ジョーダン 生涯スタッツ
レギュラーシーズン
1072試合出場 30.1得点 6.2リバウンド 5.3アシスト 2.3スティール FG49.7% 3P32.7%
プレーオフ
179試合出場 33.4得点 6.4リバウンド 5.7アシスト 2.1スティール FG48.7% 3P33.2%
ジョーダンの生涯スタッツを見ると、平均得点30.1得点が光っていますね。
NBAの歴史の中で、最も生涯平均得点の高い選手です。
生涯平均得点で30点を超えているのは、マイケル・ジョーダンのほかには、1試合100得点したこともある怪物ウィルト・チェンバレンのみ。
ちなみにジョーダンは現役最後の2シーズン、自らも共同オーナーとして名を連ねていたワシントン・ウィザーズで現役復帰をはたしていますが、この2シーズンを除いたシカゴ・ブルズ時代のスタッツだけをみると、平均得点は31.5得点に跳ね上がります。
39歳となり、衰えがみえていたワシントン・ウィザーズでのラストシーズン。
ファンの思いとしては「まだまだジョーダンのプレーが観たい」「生涯平均得点が1位の間にやめてくれ」二つの思いがせめぎ合っていました。
ジョーダンのスタッツをみて特筆すべき点は、レギュラーシーズンよりもプレーオフで、大きく得点が伸びているところ。
よりエースに対してのディフェンスが厳しくなるプレーオフで、スタッツを伸ばしています。
当時のシカゴ・ブルズに勝利するためには、「ジョーダンを潰す」ことが絶対条件でしたから、対戦相手はあの手この手でジョーダンに襲いかかりました。
その中で大きく得点を伸ばし、チームを勝利に導いてきたジョーダンは、真のスーパーヒーローでしたね。
マイケル・ジョーダン 受賞歴
NBAチャンピオン×6(1991-93 96-98)
NBAファイナルMVP×6(1991-93 96-98)
NBAシーズンMVP×5(1988 91 92 96 98)
オールNBA1stチーム×10(1987-93 96-98)
オールNBA2ndチーム(1985)
NBA最優秀守備選手賞(1988)
NBAオールディフェンシブ1stチーム×10(1988-93 96-98)
NBA新人王(1985)
NBAオールスターMVP×3(1988 96 98)
NBAオールスター×14(1985-93 96-98 02 03)
※1986年はケガのため出場せず
NBA得点王×10(1987-93 96-98)
NBAスティール王×3(1988 90 93)
NBAスラムダンクコンテスト優勝×2(1987 88)
NBA50周年記念オールタイムチーム(1996)
NBA75周年記念チーム(2021)
受賞歴をみても、圧倒的な存在であったことがおわかりいただけるでしょう。
6度のファイナル出場すべてで優勝を勝ちとり、自身はすべてファイナルMVPを受賞。
シーズンMVPは5回受賞していますが、正直もっと受賞してもおかしくなかったと思います。
圧倒的な得点力で一世を風靡したジョーダンですが、ディフェンスも超一流。
スティール王にも3度輝き、最優秀守備選手賞も受賞しています。
まさにパーフェクトなバスケットボールプレイヤーですね。
ルーキーシーズンからオールNBA2ndチーム入りし、ケガでレギュラーシーズン18試合出場にとどまった2年目と、ウィザーズでの2シーズンをのぞく、11シーズンすべてでオールNBA入り。
オールスターには、プレーした14シーズンすべてで選出されています。
とにかく当時のマイケル・ジョーダンの人気は、今では考えられないほどの社会現象となっていました。
ジョーダンがデビューしてからもうすぐ40年になりますが、いまだに「エア・ジョーダン1」の人気が高いのも、凄いことですよね。
マイケル・ジョーダン 誕生~ドラフトまで
マイケル・ジョーダンは1963年2月17日、ニューヨーク州ニューヨーク市ブルックリンで、ジョーダン家の三男として生まれました(5人兄弟 姉 兄二人 妹)。
アメリカ空軍で勤務後に電気技術者となった父ジェームズと、高校の同級生で銀行に勤める母デロリスの三男として生まれたマイケルは、とても食欲が旺盛で、生後3週間でシリアルを食べていたそうです(笑)。
幼少期、野球好きの父の影響で大リーグを夢見ていたジョーダン少年でしたが、11歳の時に庭にバスケットゴールが設置されたことから、バスケにのめり込んでいきます。
1歳年上の兄(次男)ラリー・ジョーダンと1on1を繰り返す日々。
ラリーは学校でもスター選手で、ジョーダンはいつも兄にコテンパンにやられていたそうです。
「兄ラリーの半分よりうまくなりたい」との思いから、兄がつけていた背番号45の半分より大きい、23番をつけたというのは、有名な話ですね。
ジョーダンは地元のレイニー高校に進みますが、当初1軍には入れず。
悔しい思いをバネに激しいトレーニングをつみ、身長が10㎝伸びたこともあって見事スターターの座をゲットし、大活躍をみせました。
数々の強豪校からリクルートされたジョーダンは、地元のノースカロライナ大学に進学。
当時ノースカロライナ大学には、NBAでも大活躍することになる、ジェームズ・ウォージーやサム・パーキンスがいました。
名将ディーン・スミスヘッドコーチの元、1年生からスターターとして大活躍したジョーダンは、NCAAトーナメント決勝で試合を決めるジャンプシュートを沈め、ノースカロライナ大学を優勝に導きます。
パトリック・ユーイング擁するジョージタウン大学を、失意のドン底におとしいれた一撃で、ジョーダンの名は全米にとどろきました。
大学3年生終了後、NBAへの挑戦を表明していたジョーダンは、アメリカ代表の一員としてロサンゼルスオリンピックに出場。
パトリック・ユーイングやクリス・マリンなど、のちのNBAプレイヤーたちと共に戦い、アメリカ代表は平均32点差をつける圧倒的な強さで、金メダルを獲得しています。
オリンピックでの活躍により、マイケル・ジョーダンの名は、全米だけでなく世界に知れ渡ることになりました。
ジョーダンは1984年のNBAドラフト1巡目全体3位でシカゴ・ブルズに指名されます。
この年の全体1位は、歴代最強センターの1人にもあげられる、213㎝のアキーム・オラジュワン(ヒューストン・ロケッツ)。
全体2位は、ケガのためNBAで活躍することはできなかった216㎝のセンター、サム・ブーイ(ポートランド・トレイルブレイザーズ)が指名されています。
当時は、身長の高い選手が圧倒的に求められている時代でした。
ブレイザーズの場合は、前年シューティングガードのクライド・ドレクスラーを指名していたこともありますが。
ジョーダンとドレクスラーの競演も、ちょっと見てみたかった気もしますが、やはりジョーダンにはシカゴが似合いますね。
マイケル・ジョーダン ルーキーシーズン
ジョーダンのNBAデビュー戦は、1984年10月26日に行われたワシントン・ブレッツ戦。
のちに自らがオーナーとなる、ワシントン・ウィザーズの前身であるブレッツとの試合でNBAデビューを果たしました。
デビュー戦で16得点 6リバウンド 7アシスト 2スティール 4ブロックと、オールラウンドな活躍をみせ、ブルズファンの期待を高めます。
その後ジョーダンの活躍はファンの期待を大きく超え、熱狂を生み出すことになるのです。
デビュー3戦目のミルウォーキー・バックス戦で37得点を記録し、ブルズを勝利に導くと、9戦目のサンアントニオ・スパーズ戦では45得点を記録。
人間離れした跳躍力から繰り出すスラムダンク、ダブルクラッチ、トリプルクラッチ・・・
これまで見たこともない華麗なプレーは、世界中のバスケットボールファンを驚かせました。
ルーキーながらNBAオールスターにもファン投票で選出され、アイザイア・トーマスらがジョーダンの活躍をねたみ、パスを回さない「フリーズアウト事件」も勃発。
当時ジョーダンは高価なネックレスなどをつけてプレーしており、生意気だと思われていたんでしょう。
アイザイア・トーマスは否定していますが・・・。
マイケル・ジョーダン個人は圧倒的な活躍をみせたものの、チームは38勝44敗と勝ち越すことはできず。
それでもなんとかイースト7位でプレーオフに進出し、2位のミルウォーキー・バックスと対戦します。
初めてのプレーオフでも、ジョーダンの活躍は圧倒的でした。
しかしチーム力の差は大きく、1勝3敗でシカゴ・ブルズは敗退し、ジョーダンのルーキーシーズンは終わりました。
マイケル・ジョーダンのルーキーシーズンのスタッツは・・・
1984-85シーズンスタッツ
82試合 平均38.3分出場
28.2得点 6.5リバウンド 5.9アシスト 2.4スティール FG51.5%
1985プレーオフスタッツ
4試合 平均42.8分出場
29.3得点 5.8リバウンド 8.5アシスト 2.8スティール FG43.6%
ジョーダンは当然のようにルーキー・オブ・ザ・イヤーに選出されました。
ちなみにアキーム・オラジュワンのルーキーシーズンのスタッツも、82試合すべてに先発出場し、平均20.6得点 11.9リバウンド 2.7ブロックと、例年であれば文句なしで新人王といえるモンスタースタッツを残しているのですが、相手が悪かったですねえ。
マイケル・ジョーダン バードから神と呼ばれる
NBA2シーズン目、ジョーダンはケガに苦しみます。
シーズン開幕から3試合目の10月29日、ゴールデンステイト・ウォリアーズ戦でジョーダンは左足を骨折。
ブルズのコーチやフロントは、シーズンを全休し、しっかり完治させるよう説得したものの、ジョーダンは制止を振り切り、3月15日のミルウォーキー・バックス戦で強引に復帰します。
結局1985-86シーズンは18試合の出場にとどまり、18試合のうち11試合はベンチからの出場。
マイケル・ジョーダンの1985-86シーズンのスタッツは・・・
1985-86シーズンスタッツ
18試合 平均25.1分出場
22.7分出場 3.6リバウンド 2.9アシスト 2.1スティール FG45.7%
開幕3試合目で負った大ケガからシーズン後半に復帰し、少しづつプレーしながらリハビリを行い、プレー感覚をとりもどしていきました。
チームはシーズンのほとんどをジョーダン抜きで戦ったため、30勝52敗と大きく負け越したものの、奇跡的に第8シードでプレーオフに進出します。
プレーオフ1回戦の相手は、リーグトップ67勝15敗を記録したボストン・セルティックス。
ラリー・バード、ケビン・マクヘイル、ロバート・パリッシュのビッグ3に加え、6thマンにシーズンMVP受賞歴のあるビル・ウォルトンを加えた1985-86シーズンのボストン・セルティックスは、歴代最強チームの一つとして語り継がれている伝説のチームです。
結果このシーズンのチャンピオンとなるセルティックスに、ブルズは0勝3敗でスウィープされてしまうのですが、プレーオフ1stラウンドで最も輝いたのは、敗れたシカゴ・ブルズの若きエース、マイケル・ジョーダンでした。
ケガの影響が心配されながらも、ジョーダンは第1戦で49得点を記録。
骨折の影響を感じさせないプレーをみせましたが、チームとしては最強セルティックスに104-123と、まったく歯が立ちませんでした。
迎えた第2戦。
ボストンガーデンに集まった熱狂的セルティックスファンたちは、ジョーダンのプレーに声を失うこととなります。
セルティックスはディフェンスに定評のあった若き熱血漢、ダニー・エインジをジョーダンにマンマークさせますが、ジョーダンの勢いを完全に止めることはできず。
あらゆるテクニックを駆使し得点するジョーダンに、ボストンガーデンにファンのため息が広がりました。
2ndオーバータイムまで進んだ熱戦の末、131-135でシカゴ・ブルズは敗れてしまいましたが、ジョーダンの華麗なプレーの数々は、大きな話題となりました。
ジョーダンはこの試合41本のシュートを放ち22本を決め(3ポイントシュートは成功なし)、フリースロー21本中19本を成功。
計63得点を記録し、最強セルティックスを相手に大健闘をみせました。
プレーオフでの1試合63得点は、2024年現在でも破られていないNBA記録です。
試合後ボストン・セルティックスのエース、ラリー・バードは「あれはマイケル・ジョーダンの姿をした神だった」という名言を残しました。
ジョーダンは弱冠23歳で、レジェンドラリー・バードから、神の称号を与えられたのです。
マイケル・ジョーダン 〝バッドボーイズ″ピストンズの壁
NBA3年目の1986-87シーズン、ジョーダンは1試合平均37.1得点を記録し、初の得点王に輝きます。
オールNBA1stチームにも選出され、アクロバティックなプレーの数々で世界中にジョーダンフィーバーを巻き起こしました。
しかし相変わらずシカゴ・ブルズの成績は伸びず、40勝42敗、第8シードでプレーオフに進出するのがやっとの状態。
プレーオフ1回戦で再びボストン・セルティックスに0勝3敗で敗退すると、「ジョーダンは個人成績は素晴らしいが、チームを勝たせることはできない」「ジョーダンはセルフィッシュなプレーヤーだ」と、批判の声も聞かれるようになりました。
そんな中、シカゴ・ブルズの大きな転機となったのが、1987年のNBAドラフトです。
ブルズはドラフト1巡目全体5位でシアトル・スーパーソニックスに指名されたスコッティ・ピッペンをトレードで獲得。
ドラフト10位でパワーフォワードのホーレス・グラントを獲得したのです。
2人がジョーダンの元で大きく成長していったことは、皆さんもご存じかと思います。
1987-88シーズン、ジョーダンは攻守に大活躍。
スタッツをまとめると・・・
1987-88シーズンスタッツ
82試合 平均40.4分出場
35.0得点 5.5リバウンド 5.9アシスト 3.2スティール 1.6ブロック FG53.5%
圧倒的な攻撃力で2年連続得点王に輝くと、3.2スティール&1.6ブロックと驚異的なディフェンス能力も発揮。
得点王だけでなく、初めてのスティール王にも輝きました。
ジョーダンは初のシーズンMVPに加え、最優秀守備選手賞も獲得。
当然のようにオールNBAチーム、NBAオールディフェンシブ1stチームにも選ばれ、「史上最高のバスケットボール選手」と誰もが認めるスーパースターとなりました。
ジョーダンに足りないのはチャンピオンリングのみ。
ジョーダンの活躍に導かれ、ブルズは1987-88シーズン、50勝32敗と大きく勝ち星を伸ばし、イースタンカンファレンス3位でプレーオフに進みます。
1stラウンドの相手は、クリーブランド・キャバリアーズ。
ノースカロライナ大学でジョーダンの後輩だったセンター、ブラッド・ドアティと、シュート力に定評のある若き司令塔、マーク・プライスを中心としたキャブスは、当時一番勢いのあるチームでした。
シリーズは2勝2敗の大熱戦となりましたが、迎えた最終第5戦(当時1stラウンドは5戦3勝制)、マイケル・ジョーダンは39得点 4リバウンド 6アシスト 2スティール 2ブロックと攻守に大活躍し、101-107でキャブスを倒します。
マイケル・ジョーダンは、初めて1stラウンドの壁を突破したのです。
バッドボーイズ・ピストンズとのドラマ 開幕
カンファレンスセミファイナルの相手はイースタンカンファレンス2位のデトロイト・ピストンズ。
ピストンズは激しいディフェンスを武器に、イースタンカンファレンスで猛威をふるっていました。
ピストンズのエースは、オールスターゲームでおこった「フリーズアウト事件」でジョーダンと険悪な関係と噂されていた名ポイントガード、アイザイア・トーマス。
「天使の笑顔と悪魔の心を持つ男」と言われたトーマスは、現在でもマジック・ジョンソンに次ぐ実力を持ったポイントガードと言われています。
のちに6回のオールスター出場を果たすシューティングガードのジョー・デュマースや、短時間で大量得点をとることから、「マイクロウェーブ(電子レンジ:一気に温めることから)の異名をもつ6thマン、ビニー・ジョンソンなど実力者がそろうピストンズでしたが、最大の特徴は暴力的なまでのディフェンス。
史上最凶の選手と言われるビル・レインビアを中心に、若きデニス・ロッドマン、ベテランのリック・マホーンらがインサイドにドライブしてきた選手を全力でつぶしにかかるピストンズのディフェンスは、現在のNBAでは考えられない危険なものでした。
カンファレンスセミファイナルでバッドボーイズは、エースのジョーダンを叩き潰しに来ました。
インサイドにドライブするたびに、屈強なディフェンダーたちからフロアに叩きつけられるジョーダン。
ブルズは1勝4敗でピストンズに完敗します。
レギュラーシーズン平均35.0得点を記録していたジョーダンは、ピストンズとの5試合で平均27.4得点と抑え込まれてしまいました。
「ジョーダンはチームを勝たせることはできない」という声は、ますます大きくなっていきました。
初期ジョーダンのハイライト「ザ・ショット」誕生
1988-89シーズン、ジョーダンは引き続き活躍を続けたものの、チームは47勝35敗とやや成績を落とし、イースタンカンファレンス6位でプレーオフに進出。
対戦するのは、前年のプレーオフ1stラウンドで、なんとかブルズが勝利したクリーブランド・キャバリアーズでした。
前年と違うのは、キャブスがホームコートアドバンテージを持っていたこと。
キャブスはプライスとドアティのコンビに加え、ラリー・ナンス、ロン・ハーパー、ジョン・ホットロッド・ウイリアムス、クレイグ・イーローなど、有能なロールプレイヤーが揃った強豪チームとなり、イースタンカンファレンス3位の好成績をおさめていました。
レギュラーシーズンの直接対決では、6試合すべてでキャブスが勝利しており、キャブス有利と言われていましたね。
実力伯仲の両チームは互いに譲らず、前年と同じように2勝2敗で運命の第5戦へ。
試合は一進一退で、第4クオーター残り時間6秒でジョーダンがシュートを決め、99-98とブルズが1点リード。
タイムアウト後に、スローインをしたクレイグ・イーローが、リターンパスを受けレイアップを沈め99-100と再びキャブスが1点リード。
ブルズはタイムアウトをとり、最後のプレーをデザインします。
残り3秒。
キャブスのホームコートで観客のディフェンスコールが響く中、右サイドスリーポイントライン外でインバウンドパスを受けたジョーダンは、左手でドリブルを2つつくと、ディフェンスについていたクレイグ・イーローより一瞬早く空中に飛び上がりシュートモーションに入ります。
ブロックに飛ぶイーロー。
タイミングは完璧。
しかし、ジョーダンがシュートを放ったのは、イーローが着地した後でした。
ボールがリングを通過したのを確認し、空中に再度高く飛び上がり喜びのガッツポーズを繰り返すジョーダン。
映画のラストシーンを観ているようでした。
歴史に残るブザービーターは、初期ジョーダンのハイライトといえるでしょう。
バッドボーイズへの2度目の挑戦
1988-89シーズン、クリーブランド・キャバリアーズとの激闘を制したシカゴ・ブルズは、カンファレンスセミファイナルで、パトリック・ユーイング擁するニューヨーク・ニックスを4勝2敗で破り、ついにカンファレンスファイナルにたどり着きます。
立ちはだかるのは、レギュラーシーズン63勝19敗、リーグ全体1位の勝率を残したデトロイト・ピストンズ。
前年シカゴ・ブルズに圧勝したピストンズは、NBAファイナルに進出したものの、マジック・ジョンソン擁するロサンゼルス・レイカーズに最終第7戦で敗れ、優勝を逃していました。
雪辱を果たすべくプレーオフに挑んだピストンズは、1stラウンドでボストン・セルティックス、カンファレンスセミファイナルでミルウォーキー・バックスをそれぞれスウィープ(4勝0敗)で倒し、ブルズ戦へ挑みます。
ピストンズ圧倒的有利の声が聞こえる中、ホームコートで行わるカンファレンスファイナル第1戦で、ジョーダン擁するブルズは見事に勝利。
ジョーダンはバッドボーイズの厳しいディフェンスを受けながら32得点 11リバウンド 4アシストを記録し、勝利に貢献しました。
しかし第2戦はアイザイア・トーマスの33得点の活躍もありピストンズが勝利。
第3戦でジョーダンが46得点と爆発し、ブルズが2勝目をあげたものの、その後は「ジョーダン・ルール」と呼ばれるファール覚悟でジョーダンをたたき潰すディフェンスが功を奏し、ピストンズが4勝2敗でまたも勝利しました。
ピストンズはNBAファイナルに進み、前年敗れたロサンゼルス・レイカーズを4勝0敗のスウィープで下し、優勝しています。
ジョーダン擁するブルズを叩きつぶした悪の軍団ピストンズは、ついにNBAの頂点に立ったのです。
対ピストンズ 3度目の屈辱
1989-90シーズン開幕前、シカゴ・ブルズに大きな変化がありました。
これまでブルズを率いていたダグ・コリンズHCがチームを去り、前年までアシスタントコーチだったフィル・ジャクソンが新ヘッドコーチとなったのです。
フィル・ジャクソンはアシスタントコーチのテックス・ウインターが構築したトライアングル・オフェンスのシステムを採用。
ジョーダンの個人技に頼るのではなく、ジョーダンの得点を減らしてでも、まわりの選手を生かす戦術を取り入れました。
ジョーダンは平均33.6得点で当然のように得点王となっただけではなく、2回目のスティール王にも輝き、攻守で圧倒的な力を発揮しました。
1989-90シーズン、ジョーダンが大きく進化したのが3ポイントシュート。
デビューしてから1988-89シーズンまでの5シーズン、トータルで287本しか放っていなかった(成功58本 20.2%)3ポイントシュートを、1989-90シーズンは245本試投し92本決めています(成功率37.6%)。
これもトライアングルオフェンスの成果と、ジョーダンの努力のたまものですね。
ロングレンンジのシュートが弱点と言われていたジョーダンが、弱点を克服したシーズンとなりました。
1989-90シーズンスタッツ
82試合 平均39.0分出場
33.6得点 6.9リバウンド 6.3アシスト 2.8スティール 0.7ブロック FG52.6% 3P37.6%
スコッティ・ピッペンやホーレス・グラントの成長もあり、1989-90シーズンブルズは55勝27敗と大きく成績を伸ばし、イースタンカンンファレンス3位でプレーオフに進みます。
1stラウンドでミルウォーキー・バックス、カンファレンスセミファイナルでフィラデルフィア・76ersを一蹴し、迎えたカンファレンスファイナルの相手は3年連続、〝バッドボーイズ″デトロイト・ピストンズ。
前年優勝したチームから、屈強なディフェンダーリック・マホーンを、新チームのNBA加入(ミネソタ・ティンバーウルブズ、オーランド・マジック)のためのエクスパンションドラフトで失ったピストンズでしたが、危なげなくプレーオフを勝ち進んできていました。
カンファレンスファイナルはホームコートのチームが勝利する展開が続き、3勝3敗で勝負はデトロイトで行われる第7戦へ。
ブルズにとって千載一遇のチャンスでしたが、大事な試合で異変がおきます。
今シーズン大きな成長をみせ、ジョーダンに次ぐセカンドスコアラー(レギュラーシーズン平均14.4得点)に成長したスコッティ・ピッペンが、偏頭痛のためまともにプレーできなくなってしまったのです。
ピストンズとの第7戦、ジョーダンは45分間出場し、31得点 8リバウンド 9アシストといつもどおりの大活躍をみせましたが、ブルズは74-93で完敗しました。
ピッペンのスタッツは42分出場し、2得点 4リバウンド 2アシスト。
明らかに精彩を欠くピッペンを、42分間出場させたことに、フィル・ジャクソンHCの思いを感じました。
「ブルズはピッペンの成長なしには勝てない」というメッセージを、ピッペン本人に伝えたかったのでしょう。
当時は「ピッペンはピストンズの激しいディフェンスが恐ろしくて偏頭痛になった」などと嘲笑されていました。
ブルズを応援しているわたくしリトルは、本当に悔しかったです。
心からピッペンを応援していました。
「あんたはできる子や!」と。
その後のピッペンの活躍は、言うまでもないですよね。
ピストンズとの第7戦の翌日、スコッティ・ピッペンとホーレス・グラントはブルズの練習場に現れ、翌シーズンの活躍を誓い、トレーニングを始めたそうです。
こういう成長物語も含めて、ジョーダンとブルズの物語は素晴らしいのです。
マイケル・ジョーダン 歓喜の初優勝
1990-91シーズンシカゴ・ブルズは61勝21敗、ついにイースタンカンファレンス1位となります。
82試合すべてに先発出場したジョーダンのスタッツは・・・
1990-91シーズンスタッツ
82試合 平均37.0分出場
31.5得点 6.0リバウンド 5.5アシスト 2.7スティール 1.0ブロック FG53.9% 3P31.2%
前年より約2点平均得点が落ちましたが、これはトライアングルオフェンスの成果によるものだったと思います。
ジョーダンは当然のように5年連続の得点王に輝き、2度目のシーズンMVPにも選出されました。
ブルズはイーストの第1シードでプレーオフに進むと、1stラウンドでパトリック・ユーイング擁するニューヨーク・ニックスを3勝0敗、カンファレンスセミファイナルでチャールズ・バークレー擁するフィラデルフィア・76ersを4勝1敗で下し、ライバルたちを寄せつけずカンファレンスファイナルへ。
プレーオフで3年連続敗退の屈辱を受けた因縁の敵、デトロイト・ピストンズと4度目の戦いに挑みます。
昨年までと違うのは、ブルズがホームコートアドバンテージを持っていること。
1988-89、1989-90とリーグ2連覇を果たしていたピストンズでしたが、このシーズンは50勝32敗とやや勢いを落としていました。
ピストンズはプレーオフ1stラウンドのアトランタ・ホークスに最終第5戦でなんとか勝利。
カンファレンスセミファイナルでは、ボストン・セルティックスを4勝2敗で破ったものの、前年までの強さは感じられませんでしたね。
結果は4勝0敗、ブルズの圧勝でした。
最終戦となった第4戦では、デニス・ロッドマンがレイアップシュートを狙ったピッペンを思いっきり観客席まで突き飛ばすダーティープレーも飛び出し、ピッペンは顎を6針縫うケガを負いましたが、昨シーズンまでの弱いピッペンはもういませんでした。
ピストンズとの4試合、ジョーダンは平均29.8得点 5.3リバウンド 7.0アシスト 2.3スティール 1.8ブロックを記録。
昨シーズン大きなブレ―キとなったピッペンは、平均22.0得点 7.8リバウンド 5.3アシスト 3.0スティール 2.0ブロックを記録し、バッドボーイズに完璧なリベンジを果たしました。
こうして、4度目の挑戦で初めてデトロイト・ピストンズにプレーオフで勝利したのです。
シカゴ・ブルズが初めて進んだNBAファイナルの相手は、マジック・ジョンソン擁するロサンゼルス・レイカーズ。
マジック対ジョーダンの新旧スーパースター対決は大きな注目を集めます。
第1戦はジョーダンがマジックにマッチアップ。
第4クオーター、一進一退の攻防が続く中、試合残り14秒で、ジョーダンの大学時代のチームメイト、サム・パーキンスが値千金の逆転スリーポイントをヒット。
その後逆転を狙ったジョーダンのシュートは決まらず、91-93でレイカーズが初戦を勝利。
迎えた第2戦、フィル・ジャクソンHCは、レイカーズの司令塔マジック・ジョンソンに対して、よりサイズのあるピッペンをマッチアップさせます。
これが功を奏し、ブルズは107-86で圧勝。
第3戦はオーバータイムまでもつれた熱戦となりましたが、52分間出場し29得点を獲得したジョーダンの活躍もあり、104-96でブルズが勝利しました。
第4戦では、ブルズのディフェンスが光り、97-82とロースコアになった試合を制し、3勝1敗と悲願の優勝に王手をかけます。
この試合でレイカーズの主力、ジェームズ・ウォージーとバイロン・スコットがケガで離脱。
圧倒的に有利となったブルズの前に、意外な選手が立ちはだかりました。
第5戦、レイカーズはマジック・ジョンソンが16得点 11リバウンド 20アシストと鬼気迫るプレーをみせると、ベンチから出てきた無名の新人エルデン・キャンベルが21得点の大爆発。
レギュラーシーズン平均2.8得点だったキャンベルの爆発で、レイカーズは勢いづきます。
しかしレイカーズの3点リードで迎えた第4クオーター、ジョーダンを中心にブルズがスパーク。
ジョーダンは自らシュートを決め、チームメイトにパスをさばき、自由自在にオフェンスをコーディネートしていきました。
最後はマジックの3ポイントシュートをジョーダンがブロック。
101-108で見事にシカゴ・ブルズが勝利し、ついにNBAチャンピオンに輝きました。
「チームを勝たせることはできない」と言われ続けたジョーダンは、ブルズ入団から7シーズン目で、シカゴ・ブルズを頂点に導いたのです。
1991年NBAファイナルスタッツ
5試合 平均44.0分出場
31.2得点 6.6リバウンド 11.4アシスト 2.8スティール 1.4ブロック FG55.8% 3P50.0%
文句なしのファイナルMVPに輝いたジョーダンは、NBAの主役の座をマジック・ジョンソンから受け継ぎ、NBAだけではなく、プロスポーツ選手の象徴として一世を風靡していくのです。
まとめ
今回は史上最高の選手、マイケル・ジョーダンの誕生から初優勝までを語りました。
世界中を熱狂させたジョーダンのプレーは、今観ても衝撃的です。
圧倒的な実力を持ちながら何度も打ちのめされてきたジョーダンが、1991年のカンファレンスファイナルでピストンズを完膚なきまで叩きのめした時、当時大学生だったわたくしリトルはバスケ部のチームメイトと抱き合って喜びました。
初めてのファイナルがマジック・ジョンソン擁するロサンゼルス・レイカーズだったことも、最高にドラマチックでしたね。
1980年代のNBAをリードしたマジック・ジョンソンから、マイケル・ジョーダンにバトンが渡されたファイナルだったと思います。
当時大学生だったわたくしリトルは、4畳半の部屋で食い入るように小さなテレビで、ジョーダンが優勝トロフィーを抱きしめる姿を見つめ、涙を流しました。
マジック・ジョンソンが1991-92シーズン開幕前に、HIVウイルス感染を公表し引退したことも(復活もしますが)、1991年NBAファイナルを特別なものにした大きな理由となってしまいましたね。
わたくしリトルの青春の大きな部分をしめた、マイケル・ジョーダンとシカゴ・ブルズのドラマは、まだまだ序章です。
次回の記事もマイケル・ジョーダンの活躍とドラマを語っていきたいと思います。
どうぞご期待ください。