前回の記事でマイケル・ジョーダンの誕生から初優勝までのドラマを語ってきました。
今回はマジック・ジョンソン擁するレイカーズを破り初優勝を果たしたジョーダンの、その後の栄光と絶望、そして再生の物語をお伝えしたいと思います。
NBAを約35年間観つづけてきたわたくしリトルにとって、マイケル・ジョーダンは青春そのものです。
10年以上にわたってジョーダンのプレーだけでなく、数々のドラマを体感し、心を揺さぶられてきました。
当時の感情を思い出しながら、マイケル・ジョーダンの激動の人生を振りかえりたいと思います。
1991-92 マイケル・ジョーダン 連覇への挑戦
1991-92シーズン、前年初優勝をはたしたシカゴ・ブルズの選手たちには、自身がみなぎっていました。
開幕4戦目から14連勝するなど、破竹の勢いで勝利をかさね、シーズン65勝17敗を記録します。
もちろんリーグ全体1位。
ジョーダン自身は、麻薬取引でつかまった人物と賭けゴルフを行っていた事実が発見されるなど、コート外でのスキャンダルが注目されるシーズンでしたが、コート上では圧倒的な存在感をみせつけました。
レギュラーシーズンのジョーダンのスタッツは・・・
1991-92レギュラーシーズン スタッツ
80試合 平均38.8分出場
30.1得点 6.4リバウンド 6.1アシスト 2.3スティール FG51.9% 3P27.0%
前年から平均得点は1.4点下がりましたが、フィル・ジャクソンHC(ヘッドコーチ)が取り入れたトライアングル・オフェンスが浸透したチームの中で、圧倒的な存在感をみせつけました。
チームメイトのスコッティ・ピッペンは前年の平均17.8得点⇨21.0得点と、大幅に得点力をアップ。
ピッペンと同期入団のホーレス・グラントも前年の平均12.8得点⇨14.2得点、平均リバウンドも8.4⇨10.0と大きな成長をみせています。
たくましくなったチームメイトたちと共に勝利を重ねたジョーダンは、6年連続得点王、2年連続3度目のシーズンMVPに輝きました。
新たなライバル ニューヨーク・ニックス
迎えたプレーオフ、ブルズは1stラウンドでマイアミ・ヒートを3勝0敗のスウィープで倒し、カンファレンスセミファイナルへ。
相手は1stラウンドで、デトロイト・ピストンズとの激しいディフェンス合戦を制した、ニューヨーク・ニックスでした。
マーク・ジャクソン、ジョン・スタークス、グレッグ・アンソニー(現在オーランド・マジックで活躍するコール・アンソニーの父)などの優秀なガード陣に加え、チャールズ・オークレー、アンソニー・メイソン、ゼイビア・マクダニエルなどの屈強なインサイド陣が揃ったニックス。
チームをまとめるのは大黒柱パトリック・ユーイング。
指揮をとるのは、1980年代にショータイム・レイカーズをつくりあげた名将、パット・ライリーHCでした。
速攻を中心とした、華麗なオフェンスを武器としていたレイカーズとは違い、ニックスでは激しいディフェンスを軸にチームを造り上げたパット・ライリーHC。
選手たちの特徴を生かすチーム造りを行う、まさに名将でした。
シカゴで行われた第1戦、激しいディフェンス合戦を制したのは、パトリック・ユーイングが34得点の大活躍をみせたニューヨーク・ニックスでした。
ジョーダンは31得点といつもどおりの活躍をみせたものの、ブルズは89-94で敗れ、ホームコートアドバンテージを失ってしまいます。
第2戦、第3戦はブルズが勝利したものの、第4戦はニックスが取り返すなど、一進一退の攻防が続き、3勝3敗で勝負はついに第7戦へ。
負ければ敗退となる運命の一戦で、マイケル・ジョーダンの勝負強さがいかんなく発揮されます。
ジョーダンは42得点 6リバウンド 4アシスト 2スティール 3ブロックと攻守に圧倒的な存在感を発揮し、ブルズを勝利に導きました。
カンファレンスセミファイナルの7戦で、ブルズの平均得点が92.4点、ニックスが88.6点と、激しいディフェンス合戦となった中、ジョーダンは平均31.3点を記録し、スーパースターの凄みを見せつけました。
ニックスは、1980年代後半のデトロイト・ピストンズに代わって、ブルズと名勝負を繰り広げていくことになります。
NBAファイナル1992 ジョーダンvsドレクスラー
カンファレンスファイナルでクリーブランド・キャバリアーズを4勝2敗で下したシカゴ・ブルズは、ウエスタンカンファレンス第1シードのポートランド・トレイルブレイザーズとのNBAファイナルに挑みます。
ブレイザーズには、司令塔のテリー・ポーター、スモールフォワードのジェローム・カーシー、3度オールスターに選出されたパワーフォワードのバック・ウイリアムズ、213㎝ 125㎏の巨漢センターケビン・ダックワース、6thマンのクリフォード・ロビンソンなど、優秀な選手がそろっていました。
あと忘れてならないのが、セルティックス時代ジョーダンにマッチアップしていたダニー・エインジ。
ジョーダンとゴルフ仲間のエインジは、行く先々でジョーダンと戦うことになるんです(笑)。
チームのエースは、当時ジョーダンと並び、リーグを代表するシューティングガードだったクライド・ドレクスラー。
1992年当時、ファイナルの中継やNBA情報誌では、「ナンバー1シューティングガード対決」「エア対グライド」とあおりまくっていましたね。
注目が集まる第1戦。
マイケル・ジョーダンが試合開始から異次元の得点力を発揮します。
本来苦手と言われていた3ポイントシュートを前半だけで6本ヒット!
35得点を記録したジョーダンの活躍で、ブルズは15点をリードして前半を終えると、後半も圧倒し122-89でブレイザーズに完勝しました。
後半はベンチで過ごす時間が多かったジョーダンは、計39得点を記録し、16得点だったドレクスラーに格の違いをみせつけました。
前半最後6本目の3ポイントを決めたジョーダンが、信じられないとでも言うかのように肩をすくめたシーンは、あまりにも有名です。
第2戦、ジョーダンが39得点と活躍したものの、104-115で落としたブルズでしたが、敵地での第3戦に勝利し、ホームコートアドバンテージを取り返します。
第4戦を落としたブルズでしたが、第5戦はジョーダンの46得点の大爆発で勝利。
ブルズ3勝2敗で迎えた第6戦、ブレイザーズの激しいディフェンスでジョーダンは最初の11分間を無得点に抑えられます。
第2クオーターから徐々にシュートが決まりだしたものの、第3クオーターを終えた時点で、ブルズは64-79と15点のビハインドを背負っていました。
ここでブルズのフィル・ジャクソンHCが奇策を用います。
15点差を追う第4クオーター開始からマイケル・ジョーダンら主力をベンチに下げ、スコッティ・ピッペン+控え選手4人(BJ・アームストロング、ボビー・ハンセン、スコット・ウイリアムズ、ステイシー・キング)をコートに送りこんだのです。
ピッペンと4人のベンチメンバーは、激しいディフェンスと思い切りのよいシュートでブレイザーズに襲いかかります。
ブルズの勢いに飲みこまれたブレイザーズの選手たちはミスを連発。
第4クオーター開始時に15点あったブレイザーズのリードは、わずか3分24秒の間に、たったの3点になってしまったのです。
ベンチで立ちあがり、何度もガッツポーズを繰り返してチームを鼓舞するジョーダンの姿が印象的でしたね。
たまらずタイムアウトをとったブレイザーズでしたが、タイムアウト明けにブルズのベンチから出てきたのは、ボビー・ハンセンに代わったマイケル・ジョーダンでした。
ブレイザーズも粘りをみせたものの、第4クオーターはジョーダンが支配し、97-93でシカゴ・ブルズが勝利。
見事に2連覇を果たしました。
「名将フィル・ジャクソンの奇策が功を奏した」と言われていますが、正直「試合をあきらめてベンチメンバー出したら追いついちゃった」というのがホントのところじゃないか・・・と思っちゃいますが(笑)。
第6戦、ジョーダンは第1クオーターを2得点と抑え込まれたものの、試合をおわってみれば33得点 4リバウンド 4アシスト 4スティール、1ブロックと、攻守にわたって大活躍をみせています。
1992 NBAプレーオフとファイナルの、ジョーダンのスタッツは・・・
1992NBAプレーオフ スタッツ
22試合 平均41.8分出場
34.5得点 6.2リバウンド 5.8アシスト 2.0スティール FG49.9% 3P38.6%
1992NBAファイナル スタッツ
6試合 平均42.3分出場
35.8得点 4.8リバウンド 6.5アシスト 1.7スティール FG52.6% 3P42.9%
圧倒的な得点力でシカゴ・ブルズを2連覇にみちびき、ファイナルMVPを受賞しました。
マイケル・ジョーダン 初代ドリームチームでの栄光
1992-93シーズン開幕前、ジョーダンは男子バスケットボールアメリカ代表の一員として、バルセロナオリンピックに参加しました。
初代ドリームチームです。
マジック・ジョンソン、ラリー・バードをはじめ、当時NBAのトップスターだった11人に、大学バスケ界のスーパースター、クリスチャン・レイトナーを加えた12人は、世界中のスポーツファンに驚きをあたえました。
オリンピックを通じて平均44点差をつける圧倒的な強さをみせつけ、アメリカは当然のように金メダルを獲得。
世界中にNBAブームを巻きおこしました。
特にヨーロッパで人気が高まり、現在のNBAで多くの外国籍選手が活躍している要因となっています。
日本でも漫画「スラムダンク」の人気も重なり、一気にバスケ部員が増えたとニュースになっていましたね。
ジョーダンの人気も爆発し、「エアジョーダン」を履く若者が街にあふれていました。
ドリームチームについては、別記事をごらんください。
1992-93 マイケル・ジョーダン 前期3ピート達成
1992-93シーズン、シカゴ・ブルズに昨シーズンの勢いはありませんでした。
前年より勝ち星を10落とし、57勝25敗。
イースタンカンファレンスの中では、ニューヨーク・ニックスに次ぐ2位でシーズンを終えました。
2年連続シーズンをフルで戦い、ジョーダンとピッペンはバルセロナオリンピックまで全試合をプレー。
身体的、精神的な疲労は、とてつもないものだったでしょう。
それでもジョーダンは・・・
1992-93レギュラーシーズンスタッツ
78試合 平均39.3分出場
32.6得点 6.7リバウンド 5.5アシスト 2.8スティール FG49.5% 3P35.2%
7年連続7度目の得点王を獲得。
平均2.8スティールで3度目のスティール王にも輝きました。
当然オールスター選出、オールNBA1stチーム、NBAオールディフェンシブ1stチームには選出されたものの、シーズンMVP投票では2位に終わっています。
このシーズンのMVPを受賞したのは、8シーズンを過ごしたフィラデルフィア・76ersからフェニックス・サンズへ移籍したチャールズ・バークレーでした。
バークレーは198㎝ 114㎏と上背はないものの、圧倒的なパワーとハッスルプレーでゴール下を制圧。
サンズをリーグ1位の62勝20敗へとみちびきました。
ドリームチームの一員としてオリンピックで金メダルを獲得していたバークレーは、ジョーダンの親友であり、ピッペンの兄貴的存在でしたね。
NBAプレーオフ ニューヨーク・ニックスとの死闘再び
シカゴ・ブルズはイースト2位でプレーオフに進むと、1stラウンドでアトランタ・ホークス、カンファレンスセミファイナルでクリーブランド・キャバリアーズを4勝0敗のスウィープで下します。
迎えたカンファレンスファイナルで、ブルズの前に立ちはだかったのは、またもニューヨーク・ニックスでした。
これまでと違うのは、ニックスの方がシード順位が上だということ。
ブルズの57勝25敗(第2シード)に対して、ニックスは60勝22敗(第1シード)を記録していました。
前年ブルズに敗れたニックスは、トレードでマーク・ジャクソンやジェラルド・ウィルキンスを放出し、ポイントガードのドック・リバース(現ミルウォーキー・バックスヘッドコーチ)と、インサイドで強さを発揮するチャールズ・スミスを獲得。
チーム力をアップしていました。
エースのパトリック・ユーイングを中心に、より強固なディフェンスを構築し、〝打倒ブルズ″でチームが団結していましたね。
まるでかつてのブルズがピストンズに挑み続けたように。
ホームコートアドバンテージを持っていたニックスは、ホームコート「マジソンスクエアガーデン」での第1戦、2戦に連勝。
ジョーダンは第1戦で27得点、第2戦で36得点を記録したものの、どちらもシュート成功率は30%台と、激しいディフェンスに苦しめられます。
ジョーダンをマークしたのは、ドラフト外からマイナーリーグを経て、ニューヨーク・ニックスのスターターの座を勝ちとったジョン・スタークス。
激しいディフェンスが持ち味のスタークスは、ジョーダンを徹底的にマークしました。
0勝2敗と苦しいスタートになったブルズは、第3戦、ジョーダンがシュート成功率16.7%(18本中3本成功)の22得点と極度の不振におちいったものの、ピッペンの29得点の活躍で103-83と圧勝。
第4戦では、ジョーダンがついに爆発し、54得点を記録、ブルズが勝利し2勝2敗のタイに追いつきました。
完全に波にのったブルズは第5戦、第6戦を連勝し、苦しみながらも3年連続NBAファイナルに進みます。
NBAファイナル 1993 ジョーダンvsバークレー
ファイナルでブルズの前に立ちはだかったのは、レギュラーシーズンリーグ全体1位のフェニックス・サンズ。
サンズはシーズンMVPを獲得したチャールズ・バークレーを筆頭に、ポイントガードのケビン・ジョンソンや、シューティングガードのダン・マーリー、新人のリチャード・デュマスなど、7人もの選手が2ケタ得点を記録する、リーグ№1のオフェンスチームでした。
ちなみに、このサンズにもダニー・エインジがいます(シーズン平均11.8得点)。
フェニックスで行われた第1戦、ジョーダンが31得点、ピッペンが27得点を記録し、敵地での1勝をもぎとります。
第2戦ではバークレーが42得点と奮起したものの、ジョーダンも負けじと42得点を記録。
ピッペンが15得点 12リバウンド 12アシスト 2スティール 2ブロックとオールラウンドな活躍をみせたブルズが、連勝をかざりました。
敵地での2連勝で、ファンはブルズの優勝を確信しましたが、第3戦でサンズの選手たちは意地をみせます。
ダン・マーリーの28得点を筆頭に、ケビン・ジョンソン25得点、チャールズ・バークレー24得点、リチャード・デュマス17得点、トム・チェンバース12得点、マーク・ウエスト11得点、ダニー・エインジ10得点と、7人が2ケタ得点を記録。
ジョーダンが44得点、ピッペンが26得点を記録したブルズとの、3rdオーバータイムまでもつれた死闘をサンズが制し、スウィープ負けを回避しました。
勢いに乗りたかったサンズでしたが、第4戦で神様マイケル・ジョーダンが記憶に残る大爆発をみせます。
46分間出場したジョーダンは、37本中21本(3ポイントシュートは1本試投し成功は0)のシュートを沈め、55得点を記録。
サンズの勢いを完全に断ち切り、ブルズは3勝1敗と王手をかけました。
優勝のかかった第5戦、試合前からシカゴの街は興奮のるつぼの中にありました。
人気絶頂のシカゴ・ブルズが地元で3連覇を決めることになれば、市民の喜びが爆発し、暴動に発展する危険性を指摘する声もあがっていました。
そんな中、サンズの選手たちは「シカゴの街を救え」を合言葉に、ブルズに立ち向かいます。
結果は98-108でフェニックス・サンズの勝利。
見事にシカゴの街を、暴動から救いました。
フェニックスに舞台を移した第6戦。
フェニックスのファンは、地元にもどってきた選手たちに大歓声を送りました。
試合はブルズペースで進み、第3クオーターを終えて87-79とブルズが8点のリード。
しかしここからサンズは激しいディフェンスでブルズを追い詰めていきます。
第4クオーター、ブルズの24秒バイオレーションをたて続けに誘発するなど、サンズのディフェンスが機能し、残り6分9秒でついに逆転に成功。
一進一退の攻防がつづいた中、試合時間残り1分を切ったところで、サンズのフランク・ジョンソンがミドルシュートをミス。
リバウンドを奪ったジョーダンはそのままスルスルとサンズのディフェンスのあいだを駆け抜け、大きく飛び上がり、簡単にレイアップを沈めるビッグプレー(通称グライダー)を決め、残り38.1秒で96-98の2点差まで詰め寄ります。
焦ったサンズは、ダン・マーリーのシュートがエアボールとなり、24秒バイオレーションでボールはブルズへ。
残り時間は14.4秒。
誰もがマイケル・ジョーダンに注目していました。
ここまで第4クオーターにブルズがあげた9得点はすべてジョーダンの得点でしたから、当然でしょう。
ジョーダンはバックコートからドリブルでボールを運ぶと、トップ・オブ・ザ・キーに立つピッペンにパス。
ピッペンはディフェンスをかわし、ドリブルを2回つきゴールへ向かうと、ゴール下のホーレス・グラントへパス。
グラントはすかさず振り向きざまにスリーポイントラインの外で待つジョン・パクソンに、完璧なラストパスを出しました。
ジョーダン、ピッペンに激しいディフェンスを集中させていたため、パクソンは完全なノーマークとなっています。
美しいシュートフォームから放たれた3ポイントシュートは見事にリングを射抜き、土壇場でブルズは99-98と逆転を果たしました。
漫画「スラムダンク」の小暮くんを思い起こさせるこのシーンは、今観ても震えますね。
サンズはすかさずタイムアウト。
残り時間は3.9秒。
すさまじい緊張感がアリーナに広がる中、ケビン・ジョンソンの逆転を狙ったジャンプシュートを、ホーレス・グラントがブロックし、ブルズは見事に3連覇をかざりました。
試合終了後にジョーダンとバークレーが抱き合って健闘をたたえあった後、仲間と抱き合い、おたけびをあげるジョーダンと、うつむきながらコートを去るバークレーの対比が心に残っています。
プレーオフとNBAファイナル、ジョーダンのスタッツは・・・
1993NBAプレーオフ スタッツ
19試合 平均41.2分出場
35.1得点 6.7リバウンド 6.0アシスト 2.1スティール FG47.5% 3P38.9%
1992NBAファイナル スタッツ
6試合 平均45.7分出場
41.0得点 8.5リバウンド 6.3アシスト 1.7スティール FG50.8% 3P40.0%
シカゴ・ブルズは見事に3連覇を果たし、マイケル・ジョーダンは3年連続のファイナルMVPを受賞。
NBAの世界ですべてを手に入れたジョーダンでしたが、この後かけがえのない大きなものを失うことになるのです。
父の死~大リーグへの挑戦
NBAの世界で、すべての栄光を手に入れ、社会現象まで巻き起こしたマイケル・ジョーダンは、1992-93シーズン開幕前、シカゴ・ブルズのオーナー、ジェリー・ラインズドーフに「もう自分がプレーする時間はそう長くない」と伝えていました。
ボストン・セルティックスやデトロイト・ピストンズに叩きのめされてきた苦しい時代を経て、すべてを成し遂げたジョーダンにとって、新たなモチベーションが沸いてこなくなったのでしょう。
また、ジョーダンの存在が大きくなりすぎ、プライベートは無いに等しく、多額のギャンブルなどで激しいバッシングも受け、心身ともに疲弊していたと思われます。
そんな中、シカゴ・ブルズが3連覇を果たした1か月後、ショッキングなニュースが世界を駆け抜けました。
「ジョーダンの父、殺害される!」
マイケルの父親、ジェームズ・ジョーダンは知人の葬式に参列後、帰宅のため車で移動していました。
長距離の運転で疲れたジェームズは、路肩に車を駐めて眠っていたところを、2人組の男に襲われ、射殺されたのです。
犯人は18歳の少年2人でした。
息子のマイケルが父に贈った高級車(レクサス)を、2人の少年は奪おうとして、結果的に銃を発射。
父ジェームズの命を奪ったのです。
享年56歳でした。
誰よりも自分を応援してくれていた父を失ったジョーダンの悲しみは、想像することすらできません。
事件から約3か月後の10月に、ジョーダンは会見を開き「もはや証明するものはない」とNBAからの引退を発表します。
世界中のNBAファンは驚き、悲しみましたが、ジョーダンの引退には、覚悟もできていました。
しかし1999年2月7日、ファンが予想もしていなかった驚きのニュースが飛び込んできます。
「マイケル・ジョーダン MLBシカゴ・ホワイトソックスと契約」
大リーグのシカゴ・ホワイトソックスのオーナーは、シカゴ・ブルズのオーナーでもある、ジェリー・ラインズドーフでした。
ジョーダンは父が愛していたベースボールの世界に挑戦したのです。
バスケットボールですべてを勝ちとったマイケル・ジョーダンの新たな挑戦でした。
ジョーダンはマイナーリーグ(2A)に所属するホワイトソックス傘下のバーミンガム・バロンズで新たなる挑戦をはじめました。
未来を夢みて汗を流す若者たちとともに、真剣にバットを振る日々。
スーパースターの新たな挑戦に否定的な声もありましたが、ジョーダンは本気でした。
ジョーダンがバーミンガム・バロンズで残した成績は・・・
127試合出場 打率.202 3本塁打 51打点 30盗塁
メジャーリーグを目指す野球選手としては厳しいスタッツですが、世界一のバスケットボール選手であるジョーダンが30歳で挑戦した証としては、素晴らしい結果だったと思います。
1994-95 マイケル・ジョーダン NBA復帰~屈辱の敗戦
マイケル・ジョーダンの大リーグ挑戦は、MLBがストライキに突入したことで、終わりを迎えます。
そんな中、戦う場所をなくしたジョーダンと、ブルズでチームメイトだったBJ・アームストロングが朝食をともにしたことで、運命は大きく変わりました。
アームストロングは、「チームメイトに会いに行こう」と、ジョーダンをブルズの練習に誘ったのです。
何度か練習に参加したジョーダンは、バスケットボールへの情熱をとり戻し「Im’ Back」と書かれたFAXがメディアへ送られ、電撃復帰をすることとなります。
当時は「いきなり活躍できるほど、NBAは甘くない」と復帰に否定的な記事も多く出ていましたね。
1994-95シーズン終盤の現地時間3月19日、インディアナ・ペイサーズ戦でジョーダンは復帰。
かつて兄がつけていた背番号45をつけたジョーダンは、復帰戦で43分出場し、19得点 6リバウンド 6アシスト 3スティールを記録。
復帰4戦目のアトランタ・ホークス戦では32得点を記録した上、試合を決めるブザービーターまで沈める大活躍をみせます。
試合残り5.9秒、97-98でホークスが1点リードの場面。
バックコートからボールを運んできたジョーダンは、ディフェンスにつくスティーブ・スミスをあざわらうかのように、トップ・オブ・ザ・キーでドリブルフェイクをかけると、正面やや右の位置で飛び上がり、美しいジャンプシュートを決めました。
かつて何度も目にした光景に、ブルズファンは総立ち。
ジョーダンは何度もガッツポーズを繰り返し、ホームコートをポンポンとたたきました。
「俺は帰って来たぞ」とでも言うかのように。
つづく復帰第5戦では、聖地マジソンスクエアガーデンで行われたニューヨーク・ニックス戦で55得点を記録。
113-111で強豪ニックスに勝利したこの試合は、「ダブルニッケル(5セント硬貨をニッケルと呼ぶため)」と呼ばれ、いまでも語り継がれています。
1994-95シーズンのジョーダンのスタッツは・・・
1994-95レギュラーシーズン スタッツ
17試合 平均39.3分出場
26.9得点 6.9リバウンド 5.3アシスト 1.8スティール FG41.1% 3P50.0%
長い間バスケから離れていたため、シュート成功率は低かったものの、衝撃的な活躍をみせました。
ブルズはジョーダン復帰後の17戦で14勝をあげ、47勝35敗、第5シードでプレーオフに進みます。
プレーオフ1stラウンドの相手は、「フューチャーブルズ」と呼ばれたシャーロット・ホーネッツ。
ラリー・ジョンソン、アロンゾ・モーニングら若手の有望株がそろう、勢いのあるチームでした。
シャーロットで行われた第1戦で、ジョーダンは48得点を記録。
若手のそろうホーネッツに先制パンチを浴びせると、勢いそのままに4勝0敗のスウィープで1stラウンドを突破します。
カンファレンスセミファイナルの相手は、NBA3年目の怪物センター、シャキール・オニールと、NBA2年目の司令塔、アンファニー・〝ペニー″・ハーダウェイ擁するオーランド・マジックでした。
マジックはレギュラーシーズン57勝25敗を記録し、イースタンカンファレンス1位。
当時最も勢いのあるチームとの対戦は、ブルズにとって厳しい結果となります。
第1戦、試合残り18秒1でブルズが1点をリード。
バックコートでスローインを受けたジョーダンが、ディフェンスをかわしドリブルでフロントコートに進んだところを、マークにつくニック・アンダーソンが後ろからスティール!
速攻から元チームメイトのホーレス・グラントにダンクを決められ、逆転を許したブルズ。
残り時間は6秒2。
フロントコートでインバウンドパスを受けたジョーダンは、インサイドに切りこむと、自らシュートは打たずにピッペンにパス。
ピッペンはキャッチすることができず、痛恨のターンオーバーに。
最終スコア91-94でオーランド・マジックが逆転勝利し、ジョーダンにとっては屈辱の敗戦となりました。
試合後のインタビューで、値千金のスティールを決めたニック・アンダーソンが「彼は以前のジョーダンではなかった」と語ったのが印象に残っています。
第2戦、コートに立つジョーダンの背中には、復帰後につけていた45番ではなく、見慣れた23番の背番号がありました。
リーグからの罰金を覚悟して背番号を変更したジョーダンは、38得点をあげる活躍でブルズを勝利に導きます。
しかし、若いマジックの勢いを止めることはできず、2勝4敗でシカゴ・ブルズはオーランド・マジックに敗退してしまいました。
プレーオフでのジョーダンのスタッツは・・・
1995NBAプレーオフ スタッツ
10試合 平均42.0分出場
31.5得点 6.5リバウンド 4.5アシスト 2.3スティール FG48.4% 3P36.7%
野球に全力を注いだ1シーズンで体重は増え、バスケットボールの体型ではなくなっていたものの、高い得点力は変わらず。
屈辱の敗戦となりましたが、究極の負けず嫌いジョーダンが、次のシーズンでどんな姿をみせてくれるのか、ファンは大きな期待をよせていました。
結局その期待すら大きく超える、大活躍をみせてくれるのですが・・・。
まとめ
「史上最高の選手」「バスケの神様」と言われるマイケル・ジョーダン。
常に栄光の中にいるイメージがあるジョーダンですが、ギャンブルで大バッシングを受け、衝撃の事件で父を失い、大リーグへの挑戦は志半ばで挫折、NBA復帰後に自らのミスで大事な試合を落とし・・・
スーパースターであるジョーダンも、大きな苦しみを抱えていました。
私たちが想像もつかないくらいの大きな苦しみを、自らの努力で乗りこえたからこそ、栄光の後期3連覇があるのだと思います。
NBAを約35年間観つづけているわたくしリトルは、ジョーダンの挫折と栄光の日々をリアルタイムで観てきました。
特に1990年代は、マイケル・ジョーダンと共に過ごした時代だったと勝手に思っています。
プレーだけでなく、その生き方で私たちを魅了し続けたマイケル・ジョーダン。
次回は後期3ピートから引退までをまとめたいと思います。
あーもう、ピッペン仲直りしてくれんかなーっ!