【初代ドリームチームまとめ②】ジョーダン、バークレー、ピッペンの物語

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前回、初代ドリームチームのキャプテン、マジック・ジョンソンとラリー・バードについて語りました。

2人のスーパースターが、ドリームチームへの参加を決めたことで、当時の最高の11人(大学生を除く)を集めることができたのです。

そんなスーパースターが集まった、初代ドリームチームの中でも、特別な存在が3人いると言われています。

マジックとバードと、もう一人が、もちろんマイケル・ジョーダンです。

今回は、マイケル・ジョーダンと、当時の親友チャールズ・バークレー、そしてジョーダンの指導を受け大きく羽ばたいたスコッティ・ピッペンについて語ります。

前回と同じように、スタッツは、レギュラーシーズンの生涯通算成績と、バルセロナオリンピック直前の、1991-92シーズンの成績を、記載しています。

名前の横にある数字は、ドリームチームでの背番号です。

目次

初代ドリームチーム 9 マイケル・ジョーダン 

所属 シカゴ・ブルズ 背番号23
198㎝ 当歳29歳
通算 1072試合 30.1得点 6.2リバウンド 5.3アシスト FG49.7% 3P32.7%
1991-92 30.1得点 6.4リバウンド 6.1アシスト FG51.9% 3P27.0%

言わずと知れた、歴代ナンバー1プレイヤー。

NBAの歴史の中で、最も影響力を持った選手といって、間違いないでしょう。

USAバスケットボールチームが、ドリームチーム結成のため選手を勧誘していた1990-91シーズンは、ジョーダンが初めてチャンピオンリングを手にしたシーズンです。

人気・実力とも世界の頂点に君臨していたジョーダンは、最強チームをうたう「ドリームチーム」に必要不可欠な存在。

しかし、ノースカロライナ大学在学中に、ロサンゼルスオリンピックに出場し、金メダルを獲得していたジョーダンは、ドリームチームへの参加に消極的でした。

ジョーダンは、パトリック・ユーイングや、クリス・マリンらとともに大学生最強チームを結成し、ロサンゼルスオリンピックで、1試合平均32点差をつける圧倒的な強さをみせ優勝しています。

すでに、金メダルを獲得し、アメリカの強さも、個人の能力も、バスケの世界ではすべてを証明しているジョーダンは、バルセロナオリンピックに参加する意義を見いだせなかったのです。

しかし、最強のドリームチームを結成するためには、マイケル・ジョーダンの参加が絶対条件と考えたマジック・ジョンソンや、NBAの関係者の熱意で、ついにジョーダンは参加を決意します。

マジックは、ジョーダンと顔を合わせるたびに「君がオリンピックでプレーしてくれるなら、僕がお金を出してもいい。」と冗談を交えて、何度も説得したそうです。

また、ジョーダンと犬猿の仲と言われていた、〝バッド・ボーイズ″デトロイト・ピストンズのリーダー、アイザイア・トーマスは、ジョーダンのために落選させられたと噂されています。

ただ、NBAを35年間観つづけてきたわたくしリトルが思うに、選ばれたメンバーをみると、アイザイア・トーマスの落選は、当然だとも思います。

当時ポイントガードとしては、普通にジョン・ストックトンの方が上だと思いますし、最後の一人として選ばれたクライド・ドレクスラーの方が、圧倒的に華やかさもありましたし。

なにはともあれ、マイケル・ジョーダンはバルセロナオリンピックへの参加を決意し、ドリームチームは誰もが認める史上最強のチームとなりました。

バルセロナオリンピック直前の1991-92シーズン、シカゴ・ブルズはファイナルで、クライド・ドレクスラー擁するポートランド・トレイルブレイザーズを4勝2敗で下し、2連覇を達成しています。

ファイナルMVPはもちろんマイケル・ジョーダン。

ジョーダンは、ファイナル6試合で、1試合平均35.8得点と、異次元の活躍をみせます。

この年、レギュラーシーズンのMVPも獲得したジョーダンは、誰もが認める世界最高のバスケットボールプレイヤーでした。

スポーツ選手の枠を超越し、社会現象にまでなっていましたね。

ただ、ドリームチームの中では、ジョーダンはかなり控えめでした。

圧倒的な力をもつチームメイトを信頼し、ボールを独占することもなく、時折スーパープレイで観客を魅了する、余裕のあるプレースタイルで、格の違いを見せつけていました。

全6試合に先発した、アメリカ大陸予選のスタッツは・・・

12.7得点 3.8リバウンド 5.0アシスト FG54.7% 3P39.1%

ジョーダンとしては、控えめなスタッツですね。

平均得点は、チーム5位。

シカゴ・ブルズでは考えられないプレースタイルながら、手を抜くのではなく、心からバスケを楽しんでいる印象でした。

そして、8試合すべてに先発出場した、バルセロナオリンピックでのスタッツは・・・

14.9得点 2.4リバウンド 4.8アシスト FG45.1% 3P21.1%

こちらも平均得点は、バークレーに続く2位と、控えめ。

シュートは好調とは言えませんでしたが、時折みせる華麗なプレーで、観客を虜にしていました。

プレーの一つひとつが、芸術のようでしたね。

バスケットボールの世界で歴代ナンバー1の選手、マイケル・ジョーダンを、全世界に広めたのが、このドリームチームでのプレーだったことは間違いありません。

ジョーダンが参加を決意したことで、バルセロナオリンピックのバスケ男子アメリカ代表は、真の〝ドリームチーム″となりました。

わたくしリトルの中で、ジョーダンを超えるスーパースターは、おそらく現れないでしょう。

初代ドリームチーム 14 チャールズ・バークレー 

所属 フェニックス・サンズ 背番号34
198㎝ 当歳29歳
通算 1073試合 22.1得点 11.7リバウンド 3.9アシスト FG54.1% 3P26.6%
1991-92 23.1得点 11.1リバウンド 4.1アシスト FG55.2% 3P23.4%

ジョーダンと変わらない身長ながら、圧倒的な身体能力とパワーとジャンプ力で、ゴール下を制圧したパワーフォワード、チャールズ・バークレー。

NBAオールスターに11回選出され、通算20000点、10000リバウンド、4000アシストをクリアしているスーパースターです。

現役時代から歯に衣きせぬ発言で、13年連続NBAオールインタビューチームに選出され、現在もテレビ解説者として、シャックとの名コンビで活躍しています。

ドリームチーム結成にリーグが動いた1990-91シーズン、バークレーは当然のようにオールNBAファーストチームに選出。

1988年から1991年にかけて4年連続オールNBAファーストチーム入りする、絶頂期でした。

当然のように、ドリームチームの一員として声がかかり、バークレーも快諾します。

大学生(オーバーン大)の時に、ジョーダン、ユーイング、マリンが金メダルを獲得した、ロサンゼルスオリンピックのトライアウトに参加していたバークレー。

圧倒的な実力で、ジョーダンとともに大学生版ドリームチームの中心になると思われていました。

しかし、ロサンゼルスオリンピックのヘッドコーチが、インディアナ大学を率いるボビー・ナイトだったため、バークレーは選考から漏れたのです。

ボビー・ナイトは、NCAAトーナメントで、インディアナ大学を3度優勝に導いた名コーチ。

素晴らしい記録を残した半面、試合中に激高して選手の首元をつかんだり、選手に屈辱的な言葉をぶつけたり、パイプ椅子をコートに投げ入れるなど、今ではアウトな指導法で有名でした。

わたくしリトルの高校時代の監督は、ボビー・ナイトを参考にしていたのではないかと思います(笑)。

当時、ボビー・ナイトの指導法が虐待的であると批判する人はほんの一部で、多くの人はボビーの指導に心酔していました。

しかし、バークレーにとって、ボビーの指導法は、まったく受け入れられないものだったのです。

一時選考会で、ジョーダンと並び強烈なインパクトを放っていたバークレーに、ヘッドコーチのボビー・ナイトは、「次は体重を落として来い。」と言い放ちました。

当時バークレーは198㎝ながら、なんと128kg!

ケガの不安もあり、やせるようにボビー・ナイトが指示したのも、当然でした。

しかし、翌週バークレーはより太って現れたのです。

明らかに、ボビー・ナイトへの当てつけでした。

実力では文句なしでオリンピックメンバー入りするはずだったバークレーは、3次選考でカットされます。

「私に逆らうとこうなるんだぞ。」と、ボビー・ナイトの見せしめにされたのです。

こうして、オリンピックの金メダルを手にできなかったバークレーは、ドリームチームで初めての金メダルに挑戦することになりました。

1984年のNBAドラフト全体5位でフィラデルフィア・76ersに指名されると、高さはないものの圧倒的なパワーとスピードで一気にスター選手の仲間入りをしたバークレー。

バークレーのルーキーイヤーに、カンファレンスファイナルまで進んだ76ersでしたが、ラリー・バード擁するボストン・セルティックスに1勝4敗で完敗します。

1983年のレギュラーシーズンMVP&ファイナルMVPのモーゼス・マローンが1986年に放出され、1987年にドクターJことジュリアス・アービングが引退すると、明らかに戦力不足と指摘されるようになった76ers。

バークレーの大活躍もあり、プレーオフには進むものの、1回戦を勝ち抜くのがやっとの状態。

バークレーは戦力補強をチームのフロントに訴えるも、有力な選手を獲得するにはいたらず、次第に76ersへの忠誠心は失せていきました。

バルセロナオリンピック直前の1991-92シーズン、ついに76ersは35勝47敗でプレーオフを逃します。

自分がいくら頑張っても、戦力強化に動かないフロントに、不満を募らせたバークレーは、今でこそよくみられる、〝選手からの移籍希望″を、行います。

時代を先取っていますね。

そして、バルセロナオリンピックを2か月後に控えた6月、ジェフ・ホーナセック、アンドリュー・ラング、ティム・ペリーと3対1のトレードで、バークレーのフェニックス・サンズへの移籍が決定。

移籍会見で意気込みを聞かれると、「フェニックスなら、毎日ゴルフができるな。」とバークレーらしい言葉で、笑いを誘いました(バークレーは、ゴルフ大好きだけど、めちゃめちゃへたくそです)。

自分が望んだトレードで、サンズに移籍したばかりのバークレーは、ドリームチームで生き生きと躍動します。

アメリカ大陸予選のスタッツは・・・

16.3得点 6.7リバウンド 0.6アシスト FG58.6% 3P40.0%

スーパースターが揃ったドリームチームの中でも、平均得点は1位。

NBAの試合球より、少し大きい国際試合の試合球や、ルールの違いにほかの選手が戸惑う中、細かいことは気にしないバークレーは、躍動します。

そして、バルセロナオリンピックでは8試合中4試合に先発し・・・

18.0得点 4.1リバウンド 2.4アシスト FG71.1% 3P87.5%

パワーとスピードで相手を圧倒し、ここでもチーム1位の平均得点をあげる活躍をみせました。

他のスーパースターが、余裕をみせてプレーしていたのに対して、バークレーだけは、他国の選手と対等に、がむしゃらに戦っていたように思います。

特に初戦のアンゴラ戦(116-48)でみせた、相手への肘打ちは、強烈な闘争心を感じました。

いつでも手を抜かない、熱い男、チャールズ・バークレーを、世界に広めた一撃でしたね。

ドリームチームで金メダルを獲得し、さらに評価をあげたバークレーは、1992-93シーズン、フェニックス・サンズをNBAファイナルに導く大活躍。

バークレー自身も、シーズンMVPを獲得し、日本での「エースコック 豚キムチ」のCM出演に、つながっていくのです。

初代ドリームチーム 8 スコッティ・ピッペン 

所属 シカゴ・ブルズ 背番号33
201㎝ 当歳26歳
通算 1178試合 16.1得点 6.4リバウンド 5.2アシスト FG47.3% 3P32.6%
1991-92 21.0得点 7.7リバウンド 7.0アシスト FG50.6% 3P20.0%

1992年のバルセロナオリンピックのために集められた、スーパースター軍団、ドリームチーム。

1991年9月21日に、まずドリームチームに選ばれたNBA選手10人が発表されました(クライド・ドレクスラーと、大学生のクリスチャン・レイトナーを除く)。

その10人の中で、1人だけ「エーッ!マジで?」と思った選手がいました。

それが、スコッティ・ピッペンです。

今の若いNBAファンからは、歴史に残る名フォワードと認識されていると思いますが、1992年当時は、ほかのスター選手と比べると一段落ちるイメージでした。

ドリームチームが結成された当時、オールスター出場歴は、1990年の1回のみ。

ディフェンス能力が高く、オールラウンドな選手でしたが、所属するシカゴ・ブルズには、絶対的エース、マイケル・ジョーダンがいたため、チームではバイプレイヤー(脇役)的な役割を担っていました。

NBA各チームの絶対的エースが揃った初代ドリームチームに、ピッペンの選出を熱望したのは、ヘッドコーチのチャック・デイリー。

チャック・デイリーは、シカゴ・ブルズがレイカーズを破って初優勝した、1991年のファイナルでのピッペンのプレーを観て、スモールフォワードのナンバー1として、選考委員会に推薦したのです。

ロサンゼルス・レイカーズとのファイナルで、ピッペンは絶対的エースのマジック・ジョンソンにマッチアップ。

激しいディフェンスでマジックを追い込みながら、自身は平均20.8得点 9.4リバウンド 6.6アシストと、オールラウンドな活躍をみせ、初優勝に貢献しました。

ブルズでは、ファイナルで平均31.2得点 6.6リバウンド 11.4アシストのモンスタースタッツを残したジョーダンに注目が集まりがちですが、チャック・デイリーHCは、ピッペンの献身的なプレーに感銘を受けたのです。

ドリームチーム入りが決まると、1991-92シーズン、ピッペンはオールNBAセカンドチームに選出される大活躍で、シカゴ・ブルズの2連覇に貢献しました。

ちなみに、オールNBAファーストチームは、マイケル・ジョーダン(シカゴ・ブルズ)、クライド・ドレクスラー(ポートランド・トレイルブレイザーズ)、クリス・マリン(ゴールデンステイト・ウォリアーズ)、カール・マローン(ユタ・ジャズ)、デビッド・ロビンソン(サンアントニオ・スパーズ)。

セカンドチームは、ティム・ハーダウェイ(ゴールデンステイト・ウォリアーズ)、ジョン・ストックトン(ユタ・ジャズ)、スコッティ・ピッペン(シカゴ・ブルズ)、チャールズ・バークレー(フィラデルフィア・76ers)、パトリック・ユーイング(ニューヨーク・ニックス)。

なんと、オールNBAのファーストチーム、セカンドチームの10人のうち、9人がドリームチームメンバー!

この9人に、レジェンドのマジック・ジョンソンと、ラリー・バードを加えた11人ですから、もう初代ドリームチームを超えるアメリカ代表は、現れないでしょうね。

スーパースター軍団に、大学生のクリスチャン・レイトナーを入れたのも、個人的にはとても良かったと思います。

話がそれましたが、ピッペンは、自らの活躍で、ドリームチーム入りに対する世間の声を、黙らせたのです。

アメリカ大陸予選でのスタッツは・・・

8.0得点 4.3リバウンド 6.2アシスト FG66.7% 3P33.3%

ジョン・ストックトンがケガで2試合の出場にとどまるアクシデントもあり、ピッペンは主にポイントガードとして出場。

持ち前のオールラウンドな能力で、見事にスター選手たちをあやつり、〝ポイントガードが引退しているマジック一人″というピンチから、チームを救いました。

バルセロナオリンピックでは8試合中3試合に先発し・・・

9.0得点 2.1リバウンド 5.9アシスト FG59.6% 3P38.5%

ストックトンに続き、マジックもケガで離脱するピンチにおちいりながらも、またしてもピッペンがポイントガードとしてチームに落ち着きを与えました。

バルセロナオリンピックでの平均アシスト5.9は、チームトップの数字です。

当初、ドリームチーム入りを疑問視された、ブルズ第2の男は、見事な活躍でチームの危機を救い、金メダル獲得に大きく貢献したのです。

まとめ

今回とりあげた、ジョーダン、バークレー、ピッペンの3人の関係は、現在それぞれに問題を抱えています。

ジョーダンとバークレーは、かつては親友として有名でしたが、現在は関係が断絶されています。

シャーロットホーネッツオーナーとしてのジョーダンの手腕を、バークレーが面白おかしく批判したことで、ジョーダンが激怒したためです。

ジョーダンとピッペンは、最近ネットをにぎわせていますね。

ESPNで放送された(ネットフリックスでも視聴可)、「マイケル・ジョーダン ラストダンス」の内容に、ピッペンが納得がいかず、インタビューや、自分が執筆した本で、マイケル・ジョーダンへの批判を繰り返しています。

ジョーダンへの批判を繰り返すピッペンに、黙っていなかったのが、かつてヒューストン・ロケッツでチームメイトだったバークレーです。

ピッペンは、ジョーダンだけではなく、バークレーに対しても、ラジオのインタビューで攻撃していました。

ロケッツ時代を振り返り、「正直、チャールズは私が思っていたほど、献身的ではなかった。」と批判。

これに対し、バークレーが黙っているはずがありません。

「マイケルを攻撃し、今度は俺だ。ただ大物狩りをしたいだけだ。クリックして、(自分が書いた)本が売れるのはわかっているからね。」「伝えたいことがあるなら、本じゃなくて直接言えってことさ。」と、ピッペンの対応に苦言を呈しています。

正直、「ピッペンどうしちゃったのよ・・・」と寂しい気持ちになっちゃいますね。

ドラフト5位でブルズにサプライズで指名されたピッペン。

もし、ブルズではなく、ほかのチームに指名されていたら、ドリームチーム入りするような選手には、なっていなかったと思います。

ただのグッドプレイヤーで終わっていたでしょう。

神と呼ばれるマイケル・ジョーダンの右腕として認められ、厳しく指導されたからこそ、大きく成長し、バスケ史に残るオールラウンダーに成長したのです。

ジョーダンやバークレー、フィル・ジャクソンHCなどに、攻撃を繰り返すのではなく、当時の仲間やライバルたちと、思い出を語り合えるようになってほしいですね。

現在、U-NEXTでは、「ドリームチーム 世界を変えたバスケ界のレジェンドたち」という番組が配信されています。

1話41分、全5話でドリームチームの結成から、非公開だった紅白戦の様子、メンバーの引退後など、興味深い内容になっています。

ぜひご覧ください。

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