先日「【76ersまとめ①】エンビード&マキシー中心の76ers 好調の理由」と題して、現在のフィラデルフィア・76ersについて、記事をまとめました。
当ブログ「ハッピーなるブログ NBA」の副題は、「かつてNBAに夢中だったあなたへ」。
マイケル・ジョーダンやコービー・ブライアントに夢中だった、かつてのバスケ仲間たちが、今のNBAをまったく知らないことにショックを受けたことから、「現在のNBAの楽しさ、凄さ、ワクワクを伝えよう」と始めたブログです。
そしてもう一つのテーマが、今のNBAファンに、「昔のNBAの熱狂と興奮を伝えよう」。
NBAに夢中になってから、はや35年が経ちました。
わたくしリトルを興奮の渦に巻き込み続けてきたNBAという世界の楽しさ、面白さの歴史を、今のファンにも伝えたいのです。
と、いうことで・・・今回は現在好調のフィラデルフィア・76ersの歴史を語っていきたいと思います。
わたくしリトルが実際に観てきたフィラデルフィア・76ersの約35年間の思い出を語っていきますので、ぜひご覧ください。
レッツラゴー!
フィラデルフィア・76ersのイメージ
ペンシルバニア州フィラデルフィアがホームタウンの「フィラデルフィア・76ers」。
チーム名の「76ers」は、1776年にアメリカ独立宣言が、当時の首都であったフィラデルフィアで行われたことに由来しています。
これまでNBAチャンピオンには3回輝いていますが、1955年、1967年、1983年と、3回ともわたくしリトルがNBAに夢中になる前の出来事です。
NBAを35年間観つづけてきたわたくしリトルが思う、フィラデルフィア・76ersのイメージは、「スーパースターとタンク」ですね。
76ersには、35年の間に、3.5人のフランチャイズプレイヤー、いわゆるスーパースターがいました。
チャールズ・バークレー(1984-1992)、アレン・アイバーソン(1996-2006)、アンドレ・イグダーラ(2004-2012)、ジョエル・エンビード(2014-)。
4人ではなく、3.5人としたのは、他の3人に比べて、イグダーラがちょっと弱いかなと思ったからです。
イグダーラさん、そしてイグダーラファンのみなさま、すみません。
76ersというチームは、チームの核となるスーパースターがいる間は、戦力を高めて、全力で優勝を目指すのですが、いざスーパースターがチームを離れたり、勝てなくなってくると、今度は全力で負けに行く傾向があります。
翌年のドラフト上位指名を獲得し、スーパースターをゲットするため、NBAの最下位を目指して負け続けるのです。
いわゆる「タンク」ですね。
NBAを見渡しても、これほどタンクによるチーム造りが成功してきたチームは、ないんじゃないでしょうか?
強豪期と弱小期を繰り返してきた76ersの歴史を、その時代のフランチャイズプレイヤーを中心に振り返ります。
76ersの歴史 チャールズ・バークレー時代
バークレー 76ers在籍中スタッツ他
身長 198㎝
ポジション PF
610試合出場
23.3得点 11.6リバウンド 3.7アシスト 1.7スティール FG57.6% 3P24.1%
わたくしリトルがNBAを観始めた1987-88シーズン、フィラデルフィア・76ersは1983年に優勝した時の主力が去り、完全にチャールズ・バークレーのワンマンチームになっていました。
チームは負け越し、プレーオフにも出れないシーズンでしたが、バークレーのエネルギッシュなプレーには、衝撃を受けましたね。
ずんぐりむっくりした巨体からは考えられないスピード。
ぎこちないのに、なぜかスルスルと相手を抜き去っていくドリブル。
時折繰り出すノールックパス。
身長は低いのに(198㎝)何度も何度もジャンプを繰り返し、相手から強引にもぎ取ってしまうリバウンド。
そして、器用に決めるアウトサイドシュートと、真骨頂のスラムダンク。
常に殺気を放ち、野獣のように敵に向かっていく姿と、愛嬌たっぷりお茶目な一面も持つバークレーは、マジックやバード、ジョーダンなど、他のスーパースターとは一味違う魅力に溢れていました。
正直、76ers時代のバークレーが、一番好きでしたね。
フェニックス・サンズに移籍してからシーズンMVPを獲得し、絶頂期をむかえるバークレーですが、サンズでは優秀なサポーティングキャストも揃っていたため、ローポストを主戦場に、インサイドで強さを発揮していました。
しかし76ers時代はワンマンチームだったため、そしてバークレー自身もまだ若かったため、コート上ですべてのことを一人でやっていたようなイメージがあります。
とにかく、圧倒的な存在感でした。
翌1988-89シーズンはプレーオフに進むものの、1回戦でニューヨーク・ニックスにスウィープされ、その後2シーズンはマイケル・ジョーダン擁するシカゴ・ブルズに、カンファレンスセミファイナルで一蹴されます。
1991-92シーズン、35勝42敗でプレーオフ進出を逃すと、チーム強化を図らない76ersフロントに不満を爆発させたバークレーは移籍を志願。
フェニックス・サンズとのトレードがまとまり、76ersのバークレー時代は終わりを告げました。
バークレー時代のチームメイトで印象に残っているのは、ハーシー・ホーキンスですね。
191㎝のシューティングガードで、オフェンス能力の高い、美しいシュートフォームが印象的な選手でした。
1990-91シーズン、ホーキンスは1試合平均22.1得点を記録し、オールスター戦にも出場しています。
いやあ、懐かしいです。
わたくしリトルがNBAを観始めた1987-88シーズン以降の「76ersバークレー時代」は、最高成績が1989-90シーズンの「レギュラーシーズン53勝29敗 プレーオフはカンファレンスセミファイナル敗退(対ブルズ 1勝4敗)」と、決して成功とはいえないチームでした。
しかし、自分たちがプレイしてきたバスケットボールとは全く違う、異次元の戦いの中で躍動するバークレーの姿は、NBAと出会ったばかりの高校生だったわたくしリトルに、驚きと興奮を与えてくれました。
ただし、バークレーを放出したあと強烈なタンク期に入り、7シーズン連続でプレーオフを逃したフィラデルフィア・76ersの姿に、リトル青年の心は離れていったんですけど・・・。
76ersの歴史 アレン・アイバーソン時代
アイバーソン 76ers在籍中スタッツ他
身長 183㎝
ポジション PG⇨SG
722試合出場
27.6得点 3.9リバウンド 6.1アシスト 2.3スティール FG42.1% 3P30.9%
1995-96シーズン、タンク路線まっしぐらの76ersは18勝64敗と、記録的な弱小チームになります。
76ersよりも勝率が下だったのは、このシーズンにチーム創設1年目だったバンクーバー・グリズリーズ(15勝67敗)だけでした。
全力で負け続けたタンク作戦がついに実を結び、76ersは1996年のドラフト1順目全体1位指名権を獲得します。
76ersが全体1位で指名したのは、身長183㎝の小さな点取り屋、アレン・アイバーソン。
通常、ドラフト上位で指名されても、私たち日本人にはその選手の凄さはわからないのですが、ドラフト前年の1995年、福岡で開催されたユニバーシアードにアメリカ代表として参加していたアイバーソンの凄さは、十分に見せつけられていました。
ドラフトで当時のコミッショナー、デビッド・スターンが「フィラデルフィア76ersセレクト、アレン・アイバーソン フロム ジョージタウンユニバーシティー」と読み上げた映像を見たときは、ちょっと震えましたね。
売れる前から応援しているバンドが、メジャーデビューしたような気分でした(ちょっと違うか)。
アイバーソン ルーキーシーズンから運命のプレーオフまで
アイバーソンは、1年目から強烈な光を放ちます。
まさに、今年ドラフト1巡目全体1位でスパーズに指名された、ビクター・ウェンバンヤマと同じような衝撃です。
身長224㎝のウェンバンヤマと、183㎝のアイバーソン。
身体の大きさは違いますが、ハートの大きさはアイバーソンも負けていません(笑)。
1年目から23.1得点 4.1リバウンド 7.5アシストと、圧倒的な活躍をみせ新人王を獲得。
新人記録の「5試合連続40得点以上」も達成し、ルーキーながらフィラデルフィア・76ersのフランチャイズビルダーとして、誰もが認めるスター選手となりました。
ルーキーながらマイケル・ジョーダンに1on1を挑み、クロスオーバーからのジャンプシュートを見事に決めたシーンは、あまりにも有名ですね。
しかしアイバーソンの活躍は注目を集めたものの、チームは22勝60敗とドアマットを抜け出すことはできませんでした。
そこで76ersのフロントは動きます。
ヘッドコーチに、ラリー・ブラウンを招聘。
ラリー・ブラウンは、2022年2月にNBAがリーグ創設75周年記念で発表した、歴代の「偉大なヘッドコーチ15人」にも選ばれた名将です。
グレッグ・ポポビッチや、フィル・ジャクソンのように、比較的長期間強豪チームを指揮するタイプのヘッドコーチではなく、短期間で弱小チームを強豪チームに変えて、次のチームに移るというタイプだったラリーブラウン。
指導力は誰もが認めるところでしたが、自分にも周りにも厳しく、選手ともフロントとも衝突を繰り返す完璧主義者だったため、一つのチームを長く指揮することはなかったのです。
劇薬であるラリー・ブラウンHCが加入し、アイバーソンを中心としたチームづくりをすすめた76ersでしたが、肝心のアイバーソンとブラウンHCが衝突を繰り返します。
厳格なラリー・ブラウンに対し、アイバーソンは根っからの練習嫌い。
一時はラリーブラウンHCが、フロントにアイバーソン放出を進言するまでに、関係は悪化していました。
183㎝で練習嫌いで、NBAのスーパースターになるって、どうなってんですかね。
ブラウンHCが加入して1年目は31勝51敗に終わりましたが、2年目の1998-99シーズンは28勝22敗(短縮シーズン)で勝ち越し、8シーズンぶりにプレーオフ復帰を果たします。
アイバーソンは、初めての得点王にも輝きました。
3年目の1999-00シーズンも、49勝33敗を記録し、プレーオフに進みますが、2年連続カンファレンスセミファイナルで敗退。
そして運命の2000-01シーズン。
アイバーソンを中心に、ポイントガードのエリック・スノウ、ディフェンスに定評のあるアーロン・マッキー、タイロン・ヒル、そしてレギュラーシーズン前半に、平均12.4得点3.7ブロック(NBA1位)を記録したテオ・ラトリフらの活躍で、開幕から10連勝を記録した76ers。
衝突を繰り返していたラリー・ブラウンHCとアレン・アイバーソンにも信頼関係が築きあげられ、チームはオールスターブレイクまで41勝11敗と、イースタンカンファレンス首位の座を走っていました。
当然のようにアイバーソンはオールスターの先発にファン投票で選出。
そしてもう一人、76ersの快進撃を支えた守護神、センターのテオ・ラトリフも初めてファン投票でオールスターの先発出場を決めていました。
しかし、オールスター直前にラトリフは右手首を骨折、シーズン絶望となってしまいます。
76ersのフロントとラリー・ブラウンHCは、ここで非情な決断を下します。
シーズン前半の快進撃を支えたラトリフを、トレードで放出したのです。
代わりに獲得したのは、オールスターでラトリフの代わりに選出され、大活躍したディケンベ・ムトンボ。
ヘッドコーチとしてチームイーストを指揮したラリー・ブラウンが、優勝するためにと、ムトンボの獲得を熱望したのです。
ちなみに、2001年のNBAオールスターは最高に盛り上がった試合だったのですが、それは別の記事で。
2001年プレーオフ 対トロント・ラプターズ
ムトンボが加入して以降、チームケミストリーの構築に苦しみながらも、レギュラーシーズンを56勝26敗、イースタンカンファレンス1位でプレーオフに進出した76ers。
1stラウンドでペイサーズを下し、進んだカンファレンスセミファイナルの相手は、ビンス・カーター擁するトロント・ラプターズでした。
1試合目を落とし、迎えたGAME2で、アイバーソンは大爆発。
球団記録となる54得点を決め、76ersは勝利します。
しかし、GAME3はビンス・カーターが50得点を記録し、ラプターズ勝利するなど、一進一退の攻防を繰り返し、勝負はGAME7へ。
最終戦で、アイバーソンはシュートが不調な中、チームメイトへ16アシストを供給し、88-87と1点差で勝利。
アイバーソンは自身初めてのカンファレンスファイナルに進出します。
2001年プレーオフ 対ミルウォーキー・バックス
カンファレンスファイナルの相手は、サム・キャセール、レイ・アレン、グレン・ロビンソン擁するミルウォーキー・バックス。
76ersのラリー・ブラウンHCとバックスのジョージ・カールHCの、名将対決としても注目が集まりました。
ラプターズとの死闘を制した代償として、76ersの選手たちは満身創痍。
特にアイバーソンは尾てい骨を負傷し、思うようなプレーができない状況でした。
GAME1、アイバーソンは成功率37.1%とシュートタッチに苦しみながらも、34得点を記録し76ersが勝利。
GAME2は尾てい骨の痛みをこらえながら44分25秒出場したものの、26本中5本(19.2%)しかシュートが決まらずバックスに完敗。
GAME3、アイバーソンはついに欠場し、76ersは敗戦。
1勝2敗とリードを奪われ、先発フォワードだったジョージ・リンチもケガで失っていた76ersは、土俵際まで追い込まれたかと思われました。
しかしGAME4でアイバーソンが復帰すると、76ersは息を吹き返します。
GAME4、GAME5に連勝し、王手をかけた76ersでしたが、GAME6をバックスが勝利し、勝負は最終GAME7へ。
最終戦は、アイバーソンは口腔内から多量の出血をともなうケガを負いますが、審判にバレないよう血を飲み込みながらプレー。
44得点をあげる大活躍をみせ、ついにNBAファイナル進出を果たしました。
2001年NBAファイナル 対レイカーズ
ファイナルの相手は、シャキール・オニール&コービー・ブライアント擁する前年のチャンピオン、ロサンゼルス・レイカーズ。
歴代最強チームにもあげられるこの年のレイカーズは、プレーオフでポートランド・トレイルブレイザーズ、サクラメント・キングス、そしてサンアントニオ・スパーズまでもスウィープし、無敗のままファイナルに進出していました。
早々にファイナル進出を決めたレイカーズは、9日間の休養をはさみ、万全の態勢。
対する76ersはラプターズ、バックスと、2シリーズ連続7試合を戦い、満身創痍。
誰の目にも、レイカーズ有利は明らかでした。
そして、NBAの歴史に残る一戦の幕が切って落とされます。
どちらもレギュラーシーズンは56勝26敗、対戦成績も1勝1敗と、差はつかず。
相手カンファレンスのチームに対する勝率で、レイカーズがリードしたため、ホームコートアドバンテージはレイカーズが獲得しました。
チーム状況に加え、ホームコートアドバンテージをレイカーズが獲得したことで、ファイナルでもレイカーズがスウィープし、「史上初めての無敗での優勝を観たい」という声が大きくなっていたように思います。
しかし、第1戦が始まるとアイバーソンが絶好調。
前半だけで30点を記録し、勝負の後半へ。
第3クオーターは、シャックの8連続得点でレイカーズが2点差まで追い上げます。
そして運命の第4クオーター。
レイカーズのフィル・ジャクソンHCは、意外な作戦でアイバーソンを抑えに来ます。
183㎝のアイバーソンに対し、同じ183㎝のティロン・ルーをマンマークで張り付かせたのです。
自分と同じ身長の選手との対戦で、いつもの感覚が狂ったのか、アイバーソンの得点はぴたりと止まりました。
最終クオーターでレイカーズがついに逆転しますが、76ersはチームで対抗し、エリック・スノウのシュートで、オーバータイムに持ち込みます。
オーバータイムの5分間は、お互いのプライドが交錯する、大興奮の展開でしたが、主役となったのは、やはりアイバーソンでした。
残り1分20秒で速攻から3ポイントを決め、2点リードとすると、レイカーズがパスミス。
ここで、歴史に残るプレーが生まれます。
右サイドでボールを受けたアイバーソンは、右にドライブすると見せかけてステップバックシュートをヒット。
必死でチェックに飛んだティロン・ルーが、アイバーソンの足にひっかかり倒れると、アイバーソンは自分の力を誇示するように、ルーをドカドカとまたいで、ディフェンスに戻ったのです。
アイバーソンといえば、このシーンを思い出す人も多いのではないでしょうか?
試合時間は残り46.7秒。
103-99で76ersリード。
残り33.9秒で、コービーがフェイダウェイシュートを決め103-101。
この緊張感が張りつめた場面で、残り10.5秒、伏兵エリック・スノウが見事なランニングジャンパーを決め、勝負はきまりました。
最終スコアは107-101。
この年のプレーオフで、レイカーズに唯一の黒星をつけました。
アイバーソンはこの試合48得点 5リバウンド 5アシスト 5スティールを記録し、76ersの勝利に大貢献。
アイバーソンの人気が爆発したのはもちろん、マッチアップしたティロン・ルーも大注目されるようになりました。
ルー自身も、「あのファイナルがなければ、自分のNBA人生もここで終わっていたかもしれないし、今こうしていることもなかったかもしれない」と語っています。
ティロン・ルーは現在、76ersからジェームズ・ハーデンを獲得したことで注目を集めている、ロサンゼルス・クリッパーズのヘッドコーチ。
アイバーソンとマッチアップしたことで、大きく人生が変わったのです。
残念ながら、第1戦で力尽きた76ersは、その後4連敗。
レイカーズがNBA2連覇を果たしました。
たった1勝しかできなかった76ersですが、2001年NBAファイナル第1戦は、今でも心に深く強烈に残っています。
ちなみに2000-01シーズン、76ersの選手たちが受賞した個人タイトルと、スタッツリーダーをまとめると・・・
76ersNBAアワード受賞者
シーズンMVP アレン・アイバーソン
最優秀守備選手賞 ディケンベ・ムトンボ
シックスマン賞 アーロン・マッキー
最優秀コーチ賞 ラリー・ブラウン
オールNBA1stチーム アレン・アイバーソン
オールNBA2ndチーム ディケンベ・ムトンボ
76ersスタッツリーダー
得点 アレン・アイバーソン 31.1得点
リバウンド ディケンベ・ムトンボ 13.5リバウンド
スティール アレン・アイバーソン 2.5スティール
ブロックショット テオ・ラトリフ 3.7ブロック※
※76ers⇨ホークス ホークスではケガのためプレイせず
どれだけ、76ersの選手たちが、記録的なシーズンを送ったか、おわかりいただけたでしょうか?
ファイナル後のアイバーソン~退団まで
ファイナル進出で一気にNBAファンの心をつかんだアイバーソンは、翌シーズン以降も圧倒的なスタッツを残します。
2002年と2005年には得点王に輝き、2002年と2003年にはスティール王に輝いています。
しかし、チームとしては、再び2001年の輝きをとりもどすことはありませんでした。
チームは戦力強化につながらないトレードを繰り返し、勝率は5割前後。
2003年にラリー・ブラウンHCが退団してからは、次々とコーチが代わりました。
アイバーソンは、ラリー・ブラウンがチームから去ると、ますます問題を起こすようになり、2006年12月19日、ついにデンバー・ナゲッツへトレードで放出されてしまいます。
こうして、フィラデルフィア・76ersのアレン・アイバーソン時代は終わりを告げてしまったのです。
アイバーソンが放った強烈な光は、今でもわたくしリトルの心に強烈に焼きついています。
数々のトラブルを起こし、批判されることも多かったアイバーソンですが、これほど魅力的な選手もなかなか生まれないでしょう。
今回のブログでの、アイバーソン時代の長さで、わたくしリトルの思い入れの深さがつたわるのではないでしょうか(笑)。
76ersの歴史 イグダーラ時代
イグダーラ 76ers在籍中スタッツ他
198cm
ポジション SG⇨SF
615試合出場
15.3得点 5.8リバウンド 4.9アシスト 1.7スティール FG46.1% 3P33.1%
アイバーソン時代後期、ラリー・ブラウンHCが退任した翌年の2004年に、76ersがNBAドラフト1巡目全体9位で指名したのが、アンドレ・イグダーラでした。
イグダーラの特徴は、圧倒的な身体能力と献身的なプレースタイル。
独力で敵を突破し、大量得点をあげるアレン・アイバーソンとは違い、勝利するためにアシストやリバウンド、そしてディフェンス、勝つためにチームに求められることはなんでもやる、オールラウンドプレイヤーでした。
ロールプレイヤー的な働きでチームに貢献しながら、時折みせるとんでもないダンクで、ファンの心をがっちりつかんでいましたね。
アレン・アイバーソンとのガードコンビは、2人の頭文字をとって、「ダブルAI」と呼ばれ高い人気を誇っていました。
ディフェンスの穴となり、ボールを独占しながらも圧倒的な得点能力を誇るアイバーソンと、得点にこだわらず勝利するために最適なプレーをするイグダーラのコンビは、相性バッチリでしたが、2006年12月19日、アイバーソンがデンバー・ナゲッツに移籍し、「ダブルAI」の時代は終わりを告げます。
単独エースとなった2006-07シーズン、イグダーラは平均得点を前年より6点上乗せし、1試合平均18.2点を記録。
5.7リバウンド、5.7アシスト、2.0スティールと、得点以外のオールラウンドな働きは変わりませんでした。
しかしチームは35勝47敗と大きく負け越し、プレーオフ進出はならず。
翌2007-08シーズンはプレーオフに進むものの1回戦で敗退。
当初、フィラデルフィアでのイグダーラ人気は高かったのですが、2008年オフに6年8000万ドルの大型契約を結んでからは、情熱的なフィラデルフィアのファンから、バッシングが強くなります。
唯一無二の大エースだった、アレン・アイバーソンに比べ、イグダーラは地味で真面目過ぎました。
キャラクターが圧倒的に違いましたね。
練習嫌いで、ヒップホップカルチャーを好み、夜の街、特にストリップが大好きで、金遣いの荒いアイバーソンに対し、練習の虫、地味なファッション、夜の街とは無縁、大学時代の成績はオール5だったイグダーラは、優等生すぎたのかもしれません。
比べられる相手が悪すぎました(笑)。
76ersはイグダーラがエースの時代、プレーオフに進出しても1回戦での敗退を繰り返します。
2009-10シーズン、フィラデルフィア・76ers史上最高のスター、アレン・アイバーソンがチームに復帰したものの、かつての力はなく、多くのトラブルも抱えていたためインパクトを残すことはできず、1シーズンでNBAから離れてしまいました。
イグダーラ時代の最高成績は2011-12シーズンの、レギュラーシーズン35勝31敗(ロックアウトによる短縮シーズン)、プレーオフではカンファレンスセミファイナル敗退(対ボストン・セルティックス 3勝4敗)と、大きな成功をつかむことはできませんでした。
イグダーラは2012年オフに突如トレードされます。
移籍先はアイバーソンの時と同じようにデンバー・ナゲッツ。
イグダーラがトレードの報告を聞いたのは、ロンドンオリンピックでチームUSAの一員として戦っている最中。
76ersのフロントから、エース失格のハンコを押されたようなトレードでした。
まさか、3年後にファイナルMVPを獲得するなんて、地球上の誰一人想像していなかったと思います。
そして、フランチャイズプレイヤーを失った76ersは、再び戦力を整えるための長いタンク期に入るのです。
76ersの歴史 エンビード時代
エンビード 76ers在籍中スタッツ他
身長 213㎝
ポジション センター
408試合出場
27.4得点 11.2リバウンド 3.5アシスト 0.9スティール 1.7ブロック FG50.0% 3P33.6%
※ 2023₋24シーズン14試合経過時点
76ersは、イグダーラを失った2012-13シーズン、34勝48敗と負け越し、翌2013-14シーズンは19勝63敗とNBAで下から2番目の成績でした。
ちなみに、2013-14シーズン、リーグ最下位はヤニス・アデトクンポがルーキーだったミルウォーキー・バックス。
当時強烈なタンクを行っていた2チームが、現在優勝争いをしている現状が、タンクを行う理由をあらわしていると思います。
76ersはタンクの甲斐あり、NBAドラフト1巡目全体3位指名権を獲得。
2014年のNBAドラフト1番の目玉選手は、カンザス大学のアンドリュー・ウィギンズ。
当時のNBA情報誌「ダンク・シュート」では、高校生の頃からちょくちょく「ドラフト1位間違いなし」と記事でとりあげられており、めちゃくちゃ期待していた選手でした。
ウィギンズはクリーブランド・キャバリアーズが当然のように全体1位で指名。
76ersが全体3位で指名したのは、ウィギンズと同じカンザス大学のセンター、ジョエル・エンビードでした。
この指名には驚いたのを覚えています。
カンザス大学で1年間プレーしたエンビードは、大学時代1試合平均11.2得点 8.1リバウンド 2.6ブロックを記録。
エースのウィギンズとともにカンザス大学で頭角をあらわしたエンビードでしたが、NBAドラフト前の6月に、メディカルチェックで右足を疲労骨折していることが判明。
手術も行い、1年目は確実にプレーできない状況でした。
どうしても頭をよぎるのは、グレッグ・オデン(ポートランド・トレイルブレイザーズ)の悲劇。
圧倒的な実力を誇りながらも、ケガでプレーできなければ意味がないのです。
それでも、エンビードに賭けた76ers。
エンビードは1年目を全休し、2年目に備えていましたが、リハビリがうまくいかず、2015年8月に右足を再手術。
2年目も全休となった時は、「76ers、やっちまったな」と思っていました。
エンビード&シモンズで強豪へ
エンビードが出場できない間、76ersはタンクを継続。
2014-15シーズン、18勝64敗と大きく負け越したものの、もっと負けたチームが2つあり、ドラフトでは再び全体3位指名権を獲得。
ジャリル・オカフォーを指名しますが、正直期待外れに終わります。
76ersフロントは考えたのでしょう。
「もっと負けなきゃダメだ!」
2015-16シーズン、76ersは驚異の10勝72敗と豪快に負け続け、ついにドラフト1巡目全体1位の指名権を獲得します。
ようやく手した全体1位の指名権で獲得したのが、後にリーグ全体を揺るがす大事件を巻き起こす、オールラウンダー、ベン・シモンズでした。
シモンズはトレーニングキャンプ中の9月30日に右足を骨折。
エンビードと同じく、1年目は全休します。
チームは28勝54敗と、前年より大きく勝ち星を伸ばしたものの、プレーオフには全く手が届かず。
そして、エンビード、シモンズがようやく揃った2017-18シーズン、ついに76ersは強豪への復活を果たします。
この年、セルティックスとのトレードで得た2年連続となるドラフト全体1位指名権でマーケル・フルツを獲得。
フルツはやや期待外れの成績に終わりますが、チームは52勝30敗、イースタンカンファレンス3位と大躍進。
プレーオフではカンファレンスセミファイナルで、ボストン・セルティックスに1勝4敗で敗れたものの、大きな可能性を感じさせるシーズンとなりました。
2018-19シーズンには、ミネソタ・ティンバーウルブズからジミー・バトラー、ロサンゼルス・クリッパーズからトバイアス・ハリスを獲得し、勝負をかけたものの、またもやカンファレンスセミファイナルで敗退します。
トロント・ラプターズとのカンファレンスセミファイナル第7戦、90-90の同点で迎えた最後のプレーで、カワイ・レナードの劇的なブザービーターが決まり、あと一歩のところで敗れたのです。
ベン・シモンズの乱
バトラーがチームを去った翌シーズンはプレーオフ1回戦でセルティックスにスウィープされた76ers。
そして、運命の2020-21シーズンのプレーオフで大事件がおきます。
カンファレンスセミファイナルに進んだ76ersは、若きエース、トレイ・ヤング擁するアトランタ・ホークスと対戦。
レギュラーシーズンでイースタンカンファレンス1位(49勝23敗 ※コロナの影響で短縮シーズン)を記録した76ersが圧倒的有利と思われたシリーズは、第7戦までもつれる大接戦となります。
苦戦した最大の原因はベン・シモンズの深刻なシューティングスランプでした。
2020-21シーズン、ベン・シモンズのフリースロー成功率は55.7%と、ポイントガードとしては致命的な弱点でした。
ホークスは、当然のようにシモンズへのハック作戦を敢行。
何度もフリースローラインに立ち、大事なフリースローを外し続け、シモンズは自信をなくしていきます。
そして最終第7戦、第4クオーター残り3分31秒、86-88の大事な場面で、シモンズが戦犯となる決定的なプレーが生まれました。
ローポストでの1on1から、ディフェンスのガリナリを抜き去り、ゴール下ノーマークの状況をつくったシモンズ。
誰もが豪快なダンクを期待しましたが、シモンズはまさかのパスを選択。
パスをもらったマティス・サイブルがシュート体制に入った時には、すでにディフェンス二人がチェックに飛んでいました。
サイブルはファールを受け、フリースローを放ちますが、1本しか決めることはできず。
勢いを失った76ersは、第7戦を落とし、シーズンを終えてしまいました。
この年、プレーオフでのシモンズのフリースロー成功率は、たったの34.2%。
ホークスとのカンファレンスセミファイナル、第4戦から第7戦にかけて、勝負どころの第4クオーターでのシモンズのフィールドゴール試投は、1本もありませんでした。
熱狂的なフィラデルフィアファンは、戦犯シモンズへ、容赦のない罵詈雑言を浴びせます。
プレーオフ敗退が決まったあと、記者からの「ポイントガードがシモンズで優勝を目指せるのか?」という意地悪な質問に、ドッグ・リバースHCが「今はわからない」と答えたことも、火に油をぐことに。
選手を守るべきだったヘッドコーチの、あまりにも率直な受け答えに、シモンズのチームへの忠誠心も消えてしまいました。
2021-22シーズン前のキャンプが始まっても、ベン・シモンズはメンタルの不調を理由にチームへの合流を拒否。
一度は練習に参加したものの、やる気のない態度をくずさない姿勢に、ドッグ・リバースHCは激怒。
一貫してシモンズを擁護してきたエースのジョエル・エンビードも、「僕たちの仕事はベビーシッターじゃない」と、あきれ返ります。
シーズンが始まっても、罰金を払いながらプレーを拒否するシモンズは、2022年2月10日のトレードデッドライン当日、ついに76ersから放出されます。
トレードの相手は、ブルックリン・ネッツ。
シモンズの代わりにエンビードの相棒となったのは、ネッツで移籍志願を公言していたジェームズ・ハーデンでした。
皆さんご存じの通り、ハーデンもシモンズ同様、フィラデルフィアにカオスを巻き起こすのですが、それは別記事で。
エンビードでチャンピオンリングを勝ちとれるのか?
ベン・シモンズ、ジェームズ・ハーデンと、相棒の問題で振り回されてきたエンビード。
エンビード自身は、素晴らしい成績を残し続け、2022-23シーズン、ついにレギュラーシーズンMVPを獲得しました。
今シーズン、ようやくハーデン問題も落ち着き、チームも好調なスタートをきっています。
これまで大変な思いをしてきたエンビードには、ぜひチャンピオンリングを勝ちとり、最高の笑顔をみせてほしいですね。
今シーズンの76ersには、十分チャンスがあると思うのですが、果たして・・・
まとめ
今回は、フィラデルフィア・76ersの歴史について語ってきました。
NBAを35年間観つづけてきた中での、76ersの思い出をふりかえり、ついつい長い記事になってしまいましたね。
特にアイバーソンがエースでファイナルに進出した、2001年のプレーオフに関しては、ついYouTubeで懐かしい動画を漁りまくってしまいました。
わたくしリトルがNBAを観つづけてきた35年の間、76ersの優勝はありません。
ジョエル・エンビードがエースの間に、悲願の優勝を果たせるのか?
またもやチーム解体し、豪快にタンクを行うのか?
これからの76ersに要注目ですね!
最後に、Flashscoreという、とんでもないサイトをお知らせします。
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最後までご覧いただき、ありがとうございました!