1992年、バルセロナから世界中に熱狂を巻きおこした、初代ドリームチーム。
これまで、①マジック&バード、②ジョーダン&バークレー&ピッペン、③ストックトン&マロ―ン、④ユーイング&ロビンソン、4回にわたり初代ドリームチームのメンバーを語ってきました。
最後に残ったマリンとドレクスラー。
というより、最後に残したのが、特に思い入れの強いマリンとドレクスラーです。
今回は最後に残ったクリス・マリンとクライド・ドレクスラー、そして唯一大学生からメンバー入りした、クリスチャン・レイトナーについて語ります。
年齢は、ドリームチームのアメリカ大陸予選が始まった、1992年6月28日時点でのものです。
初代ドリームチーム 13 クリス・マリン
所属 ゴールデンステイト・ウォリアーズ 背番号17
201㎝ 当歳28歳
通算 986試合 18.2得点 4.1リバウンド 3.5アシスト FG50.9% 3P38.4%
1991-92 25.6得点 5.6 リバウンド 3.5アシスト FG52.4% 3P36.6%
NBAを35年間観つづけてきたわたくしリトルが、最も好きなNBA選手が、クリス・マリンです。
16シーズンに渡って、ゴールデンステイト・ウォリアーズと、インディアナ・ペイサーズで活躍しました。
1988-89シーズンから、5シーズンに渡って平均25得点以上を記録するなど、NBAトップクラスのシューターとして、リーグを席巻していましたね。
1992-93シーズンに右親指じん帯断裂の大ケガを負った後は、ケガと年齢による衰えからスタッツは下がったものの、衰えないシュート力と、バスケIQの高さで、チームに多くの勝利をもたらしました。
マリンといえば、なんといっても圧倒的なシュート力。
今ほど3ポイントシュートが重視されていなかった1990年代、マリンも特別積極的に3ポイントを打つ選手ではありませんでした。
しかし、当時では珍しく〝ラン&ガン″を得意としていたドン・ネルソン監督のもと、一瞬でもディフェンスとのズレが生じれば、すかさずミドルシュートを打ち、高確率で決め続けていました。
NBAには、これまで多くの名シューターと呼ばれる選手がいましたが、最もシュートが美しく、最もディフェンスとの駆け引きが上手い選手が、マリンだと思います。
当時、衛星放送でゴールデンステイト・ウォリアーズの試合をビデオに録画し、何度もマリンのプレーを繰り返しみて研究していましたね。
ちなみに、バルセロナオリンピック前の1991-92シーズン、NBA全チームの1試合平均、チームで7.6本の3ポイントシュートを試み、33.1%の確率で成功していました。
それが2022-23シーズンでは、NBA全チームの1試合平均、チームで34.2本の3ポイントシュートを試み、36.1%の確率で成功しています。
1991-92シーズンに比べ、2022-23シーズンは、NBA全チームの平均で、3ポイントシュートの試投数が、4.5倍にもなっているのです。
もし、マリンが現代のNBAでプレーしていたら、3ポイントシュートを武器に、さらに得点力をアップし、手のつけられない選手になっていたかもしれません。
その根拠となる動画をご覧ください。
動画は、50歳の頃のクリス・マリンです。
引退してずいぶん経つマリンですが、恐ろしいシュート力ですね。
1980年代後半から1990年代にかけて、もっと積極的に3ポイントシュートを打っていたら・・・と思う気持ちがわかっていただけたでしょうか?
マリンは、大学時代から、スーパースターでした。
名門セント・ジョーンズ大学のエースとして活躍し、マイケル・ジョーダン、パトリック・ユーイングらとロサンゼルス・オリンピックに出場しています。
ロサンゼルス・オリンピックでは、マイケル・ジョーダン(17.1得点)に次ぐ平均得点11.6得点を記録し、アメリカの金メダル獲得に大きく貢献しました。
身体能力が平均以下であることを不安視され、1984年のNBAドラフトでは、1巡目全体7位まで順位を落としますが、ゴールデンステイト・ウォリアーズに指名されると、1年目から1試合平均14.0得点と活躍。
2年目には82試合すべてに先発出場し、15.1得点を記録。
ウォリアーズを、10年ぶりのプレーオフに導く原動力となりました。
しかし、3年目のシーズン中に、アルコール依存症の診断を受ける事態となります。
チーム内で心を許せる仲間がおらず、孤独やストレスから、アルコール量が次第に増えていったのです。
当時のヘッドコーチ、ドン・ネルソンは、マリンにトラブルに立ち向かうよう諭し、アルコール依存症治療のために施設に入所することを勧めました。
シーズン中のNBA選手にとっては異例のことです。
1987年12月から1か月半に渡り、施設で治療を行い、マリンは生まれ変わりました。
1月20日にNBA復帰すると、1987-88シーズン、ついに平均得点を20.2得点とし、スターの証となる平均20点の壁を破ったのです。
4年目の1988-98シーズン、1試合平均26.5得点を記録し、その後5年間平均25得点以上を記録する、得点マシーンとして、ウォリアーズの躍進に貢献しました。
特に1989-90、1990-91シーズン、2年間にわたってNBAを席巻した、RUNーTMCは、当時大人気でした。
1988年にNBAドラフト1巡目全体5位でウォリアーズが指名したミッチ・リッチモンドと、1989年に1巡目全体14位で指名したティム・ハーダウェイ、そしてクリス・マリンのトリオは、ドン・ネルソンHCのラン&ガンの戦術にピタリとはまり、毎試合走りまくり、シュートを打ちまくり、高得点試合を連発していました。
1990-91シーズン、RUNーTMC(ティム・ハーダウェイ ミッチ・リッチモンド クリス・マリン)3人のスタッツは・・・
1990-91 RUN-TMCスタッツ
ティム・ハーダウェイ 22.9得点 4.0リバウンド 9.7アシスト FG47.6% 3P38.5%
ミッチ・リッチモンド 23.9得点 5.9リバウンド 3.1アシスト FG49.4% 3P34.8%
クリス・マリン 25.7得点 5.4リバウンド 4.0アシスト FG47.6% 3P30.1%
同じチームに1試合平均22得点以上の選手が3人揃う、エキサイティングなチームでした。
とにかく、3人ともセルフィッシュな選手ではないため、コートを走り回り、パスを回し、隙があればシュートを放つ、流れるようなオフェンスを展開していました。
バスケットの魅力がつまっていましたね。
残念ながら、ミッチ・リッチモンドのトレードにより、RUNーTMCは2年間で解体となりましたが、その2年間が、今でも語り継がれているのですから、当時のインパクトの大きさを感じていただけるのではないでしょうか?
1991年9月21日に、ドリームチームの10人の選手が発表(クライド・ドレクスラーとクリスチャン・レイトナーを除く)された時に、当然クリス・マリンの名前もあり、ほっとしたことを覚えています。
当時の人気の高さと、実力から、マリンのドリームチーム入りは文句なしのものでした。
最近、ネットで「なぜ初代ドリームチームにクリス・マリンが・・・」という書き込みをみましたが、1991年当時のマリンのプレーは、圧倒的でした。
正直10人の選手の中に、スコッティ・ピッペンの名前を見つけた時に、「えっ!なんで?」とは思いましたが(笑)。
6試合すべてに出場した、アメリカ大陸予選でのスタッツは・・・
14.3得点 3.0リバウンド 2.3アシスト FG63.3% 3P50.0%
チャールズ・バークレー(16.3得点)、カール・マローン(14.8得点)に次ぐ、チーム第3位の得点を記録。
純粋な3ポイントシューターがいない、初代ドリームチームの中で、アウトサイドシュートを確実に決めていました。
8試合中2試合で先発出場した、バルセロナオリンピックでのスタッツは・・・
12.9得点 1.6リバウンド 3.6アシスト FG61.9% 3P53.8%
オリンピック本番でも、高確率でアウトサイドシュートを決め続けました。
特に3ポイントは、NBAよりも国際ルールの方が3ポイントラインが近いこともあり、余裕をもって決めていましたね。
美しい3ポイントシュートを、何度もビデオテープを巻きなおして観ていました。
ドリームチームの中では、マリンのアシストも目立っていました。
マリンのノールックパスから、バークレーのダンクなど、多くのハイライトシーンを生み出しています。
とにかく、バスケセンスのかたまり、クリス・マリンは、当時大学生のわたくしリトルを、夢中にさせていました。
オリンピック後の1992-93シーズン、マリンは右親指じん帯断裂のケガのため、46試合の出場にとどまるものの、1試合平均25.9得点を記録。
3ポイントシュートは、45.1%の高確率を記録しました。
しかし、マリンはここからケガに悩まされるようになり、欠場が増えるとともにスタッツも下降、チームのエースの座をおりることになります。
ただ、チームの黒子的存在となっても、活躍できるのは、ドリームチームで証明済み。
1997年にインディアナ・ペイサーズに移籍してからは、レジー・ミラーを支える存在として、バスケセンスを十分に発揮していました。
NBAを35年間観つづけている、わたくしリトルにとって、最高のスモールフォワードは、レブロンでもKDでもなく、今でもクリス・マリンです!
初代ドリームチーム 10 クライド・ドレクスラー
所属 ポートランド・トレイルブレイザーズ 背番号22
201㎝ 当歳30歳
通算 1086試合 20.4得点 6.1リバウンド 5.6アシスト FG47.2% 3P31.8%
1991-92 25.0得点 6.6 リバウンド 6.7アシスト FG47.0% 3P33.7%
ポートランド・トレイルブレイザーズの象徴だったクライド・ドレクスラー。
「クライド イズ グライド」の愛称がつくほど、長い滞空時間からのダンクは、迫力とともに美しさを兼ねそなえていました。
常に笑顔で、知的で温厚な性格にも、勝手に親近感をかんじていましたね。
常にマイケル・ジョーダンと比較され続けていたのは、正直かわいそうでしたが、歴史に残るシューティング・ガードだったと思います。
ジョーダンよりも1年早い、1983年のNBAドラフト1巡目全体14位で、ポートランド・トレイルブレイザーズに指名されたドレクスラー。
翌年、ドラフト2位指名権を持っていたポートランドが、マイケル・ジョーダンではなく、ビッグマンのサム・ブーイを指名したのは、前年に獲得した、同じポジションであるドレクスラーの能力を、チームが高く評価していたためと言われています。
もったいないことしましたね、ブレイザーズ。
ジョーダンとドレクスラーのコンビも観たかったですが、やっぱりジョーダンにはブルズのユニフォームが似合いますかね。
ドレクスラーも、大学生の時から注目されていました。
ドレクスラーが所属したヒューストン大学は、「ファイ・スラマ・ジャマー」と呼ばれる、ダンカーが揃う派手なチームでした。
中心選手は、ドレクスラーと、NBA史に残る名センター、アキーム・オラジュワン。
後にヒューストン・ロケッツで共に優勝を勝ちとる二人が、大学時代にもコンビで旋風を巻き起こしていたのです。
残念ながらNCAA優勝にはとどかなかったものの、ファイナル進出1回、ファイナル4進出2回と、すばらしい成績で、ヒューストン大学の黄金期を築きあげました。
NBAでは、ルーキーシーズンこそ出場時間が限られ、1試合平均7.7得点と平凡な成績に終わりますが、ドレクスラーの能力に、ブレイザーズのフロントは気づいていました。
翌年ブレイザーズは若返りを図り、ドレクスラーを中心としたチームづくりを進めます。
期待に応えたドレクスラーは、平均17.2得点と一気にブレイク。
年々支配力を増すと、1988-89シーズンには、自己最高の平均27.2得点を記録し、ドレクスラーの成長とともに、ブレイザーズも、強豪チームとして認知されるようになっていきました。
1989-90シーズン、ブレイザーズはついにNBAファイナルに進出。
敵はアイザイア・トーマスを中心に、ビル・レインビア、デニス・ロッドマンなど、ならず者が集まる、〝バッドボーイズ″デトロイト・ピストンズでした。
前年のチャンピオン、ピストンズに経験の差をみせつけられ、1勝4敗で敗れたものの、それまでなかなかプレーオフ1回戦を突破できなかったブレイザーズとドレクスラーにとって、大きな成長をみせた1年となりました。
翌1990-91シーズン、ブレイザーズはNBAトップの63勝19敗を記録。
ドレクスラーも、オールNBAセカンドチームに選出される活躍をみせ、最も優勝に近いチームとみられていました。
しかしプレーオフでは、カンファレンスファイナルでマジック・ジョンソン擁するロサンゼルス・レイカーズに、2勝4敗で敗れ、ファイナルに進むことはできませんでした。
この年、イースタンカンファレンスを制したのは、マイケル・ジョーダン擁するシカゴ・ブルズ。
ファイナルでも圧倒的な強さで、ケガ人が続出したレイカーズを倒し、NBAはシカゴ・ブルズとマイケル・ジョーダンの話題で持ち切りとなりました。
ブレイザーズを強豪に押し上げ、自信もトップシューティングガードとしての地位を築き上げたドレクスラーでしたが、同じポジションにマイケル・ジョーダンがいることで、まるでジョーダンの影のように見られていた気がします。
それでも、知的で温厚なドレクスラー自身は、あまり気にしていない様子でしたが。
1991年9月21日に、バルセロナオリンピックに挑む、ドリームチームに選出された10名が、全米のテレビ中継で発表されましたが、そこにドレクスラーの名前はありませんでした。
残る2人のうち、1人は大学生を加えることが決まっていたため、NBA選手から最後に選ばれるのは誰になるのか、議論が白熱・・・・はしませんでしたね。
わたくしリトルの周りでも、「ドレクスラーやろ。」で意見が一致していました。
1991-92シーズン、ドレクスラーはついにオールNBAファーストチーム入りする大活躍。
ブレイザーズも57勝25敗でウエスタン・カンファレンストップの成績を残します。
レギュラーシーズンMVPの投票では、マイケル・ジョーダンに次ぐ2位の票を獲得し、1992年5月12日に発表されたドリームチーム最後の2人に、デューク大学のクリスチャン・レイトナーと共に選出されました。
この年、プレーオフではファイナルまで進み、シカゴ・ブルズと戦いますが、マイケル・ジョーダンに格の違いをみせつけられ、2勝4敗で敗れています。
5試合に出場した、ドレクスラーのアメリカ大陸予選でのスタッツは・・・
13.8得点 2.6リバウンド 6.6アシスト FG69.2% 3P45.5%
アシストの多さと、シュート確率の高さが目立ちます。
決して3ポイントが得意な選手ではないんですが、5試合で11本の3ポイントを打ち、5本を決めています。
圧倒的な戦力を誇るドリームチームの中で、余裕のあるプレーができていた証拠ですね。
8試合中3試合で先発出場したバルセロナオリンピックでのスタッツは・・・
10.5得点 3.0リバウンド 3.6アシスト FG57.8% 3P28.6%
オリンピック本番では、3ポイントの確率は低かったものの、高確率でシュートを決め、時おり滑空するような豪快なダンクで、会場を沸かせていました。
バルセロナオリンピックで金メダルを獲得した後、ドレクスラーはケガにより以前のような支配力を失っていきます。
平均20点前後を記録するものの、クリフォード・ロビンソンら若手に主役の座を奪われたドレクスラーは、1994-95シーズン途中、大学時代のチームメイト、アキーム・オラジュワンがエースとして君臨するヒューストン・ロケッツに移籍。
前年のチャンピオンであるロケッツは、47勝35敗とレギュラーシーズン苦しんだものの、ドレクスラーを獲得する大博打が功を奏し、連覇を果たします。
オラジュワンとともに、ラリー・オブライエントロフィーを掲げるドレクスラーは、本当にうれしそうで、感動したことを思い出しますね。
2005年、熊本のホテルで、クライド・ドレクスラーを囲む会という、夢のような催しが行われました。
知人に誘われましたが、仕事の都合で泣く泣くあきらめたのですが、ぜひ一度一緒に食事したかったなあ・・・。
初代ドリームチーム 4 クリスチャン・レイトナー
所属 デューク大学 背番号32
211㎝ 当歳22歳
通算(NBA) 868試合 12.8得点 6.7リバウンド 2.6アシスト FG48.0% 3P26.1%
1991-92(デューク大学)21.5得点 7.9 リバウンド 2.0アシスト FG57.5% 3P55.7%
初代ドリームチーム唯一の大学生、クリスチャン・レイトナー。
長いNCAAトーナメントの歴史の中でも、トップクラスに活躍した大学界のスーパースターでした。
ドリームチームの大学生枠は、デューク大学のレイトナーと、ルイジアナ州立大学のシャキール・オニールの争いと言われていました。
能力的には、1992年のNBAドラフト1巡目全体1位指名まちがいなしと言われていたシャック。
実績では、1991年、1992年とNCAAトーナメントを始めて連覇したデューク大学の不動のエース、レイトナー。
世論は二つに分かれていましたが、選ばれたのはレイトナーでした。
もし、1992年当時、現在のようにSNSが発達していれば、大問題となっていたかもしれません。
なぜなら、レイトナーには、アンチがとても多かったからです。
1992年のNCAAトーナメント、前年の優勝校デューク大学は、後のアメリカ代表監督コーチKこと、マイク・シャシェフスキーのもと、最強のチームをつくりあげていました。
チームのエースは、4年生のセンター、クリスチャン・レイトナー。
3年生には、当時大学ナンバー1ポイントガードと言われていたボビー・ハーリー。
2年生には、後にバスケットボール殿堂入りするスモールフォワード、グラント・ヒル。
レギュラーシーズン34勝2敗で終えると、NCAAトーナメントを勝ち抜き、2連覇を果たすのですが、当時のデューク大学は熱狂的なファンとともに、多くのアンチも抱えていました。
理由は、レイトナーの傲慢ともいえる、激しいプレーと態度によるものです。
白人のハンサムな大学生は、チームを勝利に導くため、身体能力の低さを、テクニックと闘争心でカバーしました。
時にダーティーなプレーもいとわず、ただ勝つために全力で戦ったのです。
特に問題となったのは、NCAAトーナメントファイナル4をかけた、ケンタッキー大学との試合で起こった、レイトナーの踏みつけ事件。
ゴール下でファールを受けたレイトナーは、倒れたケンタッキー大学のアミヌ・ティンバーレイクを故意に踏みつけたのです。
審判の判定は、テクニカルファウル。
スター選手であるレイトナーが退場になることはありませんでした。
この判断が、試合を決めるレイトナーのブザービーターにつながります。
第4クオーター残り2.1秒、102-103でケンタッキー大学が1点リード。
相手ゴールのエンドラインからスローインを投げたのは、グラントヒル。
逆サイドのフリースローライン付近で、二人のディフェンダーに囲まれながらも、パスをキャッチしたレイトナーは、1回ドリブルをつきフェイクを入れると、フェイダウェイシュートを放ちます。
試合終了のブザーが鳴る中、美しい放物線を描いたシュートは、ゴールの真ん中を通過。
アリーナは揺れ、抱き合いながらフロアに倒れこむデュークの選手たちと、呆然と立ち尽くすケンタッキーの選手たち。
長いNCAAの歴史の中で、おそらく最も熱狂を生んだ試合だったのではないでしょうか?
レイトナーが、NCAAのスター選手から、歴史に残るスーパースターになった試合にもなりました。
レイトナーが、もし踏みつけ行為によって、退場になっていれば・・・とアンチが考えてもおかしくないですよね。
結果、デューク大学はトーナメントを制し、レイトナーは在学4年すべてでファイナル4に進出、すべての試合で先発した唯一の選手となりました。
いくらシャックがモンスター級の能力を持っていても、1992年当時、大学ナンバー1選手は、レイトナーで間違ってなかったと思います。
レイトナーのアメリカ大陸予選のスタッツは・・・
7.3得点 2.7リバウンド 0.3アシスト FG58.1% 3P42.9%
NBAスターたちから、優しいパスをもらって、確実にシュートを決めていました。
特に、バークレーからは、可愛がられて(いじられて)いましたね。
バルセロナオリンピックでのスタッツは・・・
4.8得点 2.5リバウンド 0.4アシスト FG45.0% 3P33.3%
ケガで出場時間が限られたジョン・ストックトンとともに、先発出場はありませんでしたが、全試合に途中出場しました。
正直、レイトナーのバスケットボール選手としてのピークは、1992年だったと思います。
ただ、1992年のNBAドラフト1巡目全体3位でミネソタ・ティンバーウルブズに指名され、2005年に引退するまでの17シーズンに渡り、NBAの世界で闘ったレイトナーは、一流のロールプレイヤーでした。
1997年には、オールスターにも選出されていますしね。
まとめ
今回は、クリス・マリンとクライド・ドレクスラー、わたくしリトルが大好きな二人のスターと、唯一の大学生、クリスチャン・レイトナーについて語りました。
プレーも素晴らしく、人格的にも優れたマリンとドレクスラー。
大学時代に、輝かしい記録を残しながらも、傲慢な態度で敵も多かったレイトナー。
NBAの世界で、トップスターとして活躍した2人と、ロールプレイヤーに終わったレイトナーの違いなんでしょうか?
ただ、当時レイトナーの選出は当然だったと思います。
当時「白人だからシャックではなく、レイトナーが選ばれたんだ。」「デューク大だから、レイトナーが優先されたんだ。」という批判が飛び交っていました(ドリームチームのアシスタントコーチとして、デューク大のマイク・シャシェフスキーが選ばれていた)。
もし、シャックがドリームチームの一員だったら・・・今考えると、実力的には、シャックの方がドリームチームの一員として、ふさわしいのかもしれません。
それでも1992年のNCAAトーナメントで、数々の奇跡を起こし、デューク大を2連覇に導いたレイトナーは、ドリームチーム入りするに値する選手だったと思います。
デューク大学で42年に渡りヘッドコーチを務め、2022年に勇退した〝コーチK″こと、マイク・シャシェフスキーHCは、多くのNBA選手を育ててきましたが、インタビューで、特に印象に残った選手として、グラント・ヒルとクリスチャン・レイトナーを挙げています。
やはり、2連覇した最強のデューク大の時代は、コーチKにとっても、特別なものだったんでしょうね。
レイトナーのことは、NCAAで歴代最高の選手だと絶賛しています。
もっとも、レイトナー自身にとって、ドリームチームはよい思い出ではないようですが。
チームメイトが凄すぎて、劣等感にさいなまれたようです。
周囲からのブーイングも、大学生のレイトナーにはつらいものだったのでしょうね。
これまで、5回にわたり初代ドリームチームのメンバーについて語ってきました。
今思い返しても、当時の興奮がよみがえってきます。
初戦のアンゴラ戦で、マジックがノールックでバードにパス、キャッチした瞬間バードが3ポイントを決める・・・。
オールスターでも東西別のチームだった、NBA最高のライバルである二人が、初めて同じチームでプレーしている現実。
ジョーダンの華麗なダブルクラッチ。
バークレーの肘打ち(笑)。
すべてが、大学生のわたくしリトルを夢中にさせました。
あれから31年。
今年の世界選手権では、アメリカ代表がどんなプレーを見せてくれるのか、楽しみに応援したいと思います。
もちろん、日本代表も心から応援しますよー!
現在、U-NEXTでは、「ドリームチーム 世界を変えたバスケ界のレジェンドたち」というドキュメンタリー番組を視聴することができます。
1話41分、全5話で、当時のNBAの盛り上がりから、ドリームチーム結成の経緯、当時非公開だった紅白戦やバルセロナでメンバーが過ごす様子、そしてドリームチームが世界に与えた影響など、とても興味深い内容となっています。
特に、バルセロナで選手たちがファンに囲まれ身動きが取れない中、ストックトンの家族だけは誰にも気づかれず、普通に街に繰り出している様子がおかしかったですね。
貴重なインタビューや、当時の大迫力のプレー映像満載で、オリンピックだけでなく、当時のNBA人気が爆発する様子を体験できる素晴らしいスポーツドキュメンタリ―です。
ぜひご覧ください。