夏が来れば思い出す・・・そう、バルセロナの地で、圧倒的な強さと、華麗なプレーの数々で、世界中の人々を魅了した、初代ドリームチームです。
これまで、①「マジック&バード」②「ジョーダン&バークレー&ピッペン」③「ストックトン&マローン」を語ってきました。
今回は、ビッグマンの二人、パトリック・ユーイングとデビッド・ロビンソンについて語ります。
2020年代のNBAでは、センタープレイヤーの重要性がかなり下がっているのが現状です。
インサイドでしっかりポジションをとり、ゴール下で確実に得点し、ディフェンスでもゴール下で肉弾戦を繰り広げ、ブロックに全力で飛ぶ、筋骨隆々のビッグマン。
正直、現在のNBAでは重宝されなくなってしまいました。
カットしてくるプレイヤーのために、アウトサイドに出て、スペースをつくり、フリーになれば3ポイントを高確率で決めるシュート力。
ディフェンスでは、ゴール下だけでなく、相手のガードのスピードについていける機動力も求められています。
また、味方にアシストする能力も、現在のセンタープレイヤーに求められる資質ですね。
戦術が複雑化し、センタープレイヤーに求められるハードルが高くなっています。
正直、オールスターレベルのセンターといえば、二コラ・ヨキッチ(デンバー・ナゲッツ)とジョエル・エンビード(フィラデルフィア・76ers)くらいでしょうか。
二人とも、外国籍選手(セルビア フランス)ですね。
しかし、かつてはアメリカはビッグマンの国でした。
最強ビッグマンたちがしのぎを削っていた時代に、初代ドリームチームに選ばれた二人の名センターを、今回紹介していきたいと思います。
初代ドリームチーム 6 パトリック・ユーイング
所属 ニューヨーク・ニックス 背番号33
213㎝ 当歳29歳
通算 1183試合 21.0得点 9.8リバウンド 1.9アシスト 2.5ブロック FG50.4%
1991-92 24.0得点 11.2 リバウンド 1.9 アシスト 3.0 ブロック FG52.2%
ニューヨークの象徴、〝キングコング″こと、パトリック・ユーイング。
いかつい風貌と、筋肉におおわれたごっつい身体からは想像のつかない、繊細なシュートタッチを持った、テクニカルなセンタープレイヤーでした。
ニューヨークという大都市で、常にマスコミの批判を一身に受けていたイメージがありますね。
大事な場面で、インサイドでガツガツ勝負するのではなく、ミドルシュートを選択し、よく批判されていました。
ユーイングほどの選手は、勝負所でWチームをしかけられたり、対策を取られるため仕方がないんですが、ちょっとハートが弱いととられることもありました。
まさに、湘北高校の赤木ですね。
大学時代のユーイングは、間違いなくスーパースターでした。
名門ジョージタウン大学で名将ジョン・トンプソン監督の指導を受け、数々の個人賞を受賞します。
チームとしても、1984年のNCAAトーナメントで、アキーム・オラジュワン擁するヒューストン大学を破って、初優勝を果たしました。
そして、1984年のロサンゼルスオリンピックのアメリカ代表に、マイケル・ジョーダン、クリス・マリンらとともに選出され、金メダル獲得に貢献しています。
大学時代のユーイングを語るときに、必ず出てくるフレーズが、「NBAドラフトを変えた男」。
当時、ジョージ・マイカン、ビル・ラッセル、カリーム・アブドゥル・ジャバーら、レジェンドセンターと比較されていたユーイングを獲得しようと、多くのチームがタンキング(試合にわざと負けること)を行うことが予想されました。
ユーイングを獲得する = NBA優勝への最短距離、とみられていたのです。
前年の1984年のドラフトまでは、両カンファレンス(イースタン・ウエスタン)の最下位チームが、コイントスを行い、全体1位指名権獲得チームを決めていました。
とにかく、カンファレンス最下位になれば、2分の1の確率で、1位指名権を獲得できるため、多くのチームが露骨にタンクを行っていたのです(今もあんまり変わりないけど)。
前年コミッショナーに就任したばかりのデビッド・スターンは、さっそくドラフト改革に乗り出します。
プレーオフに進出できなかった7チーム(当時NBAは全23チーム)がドラフトロッタリーに参加し、1位指名権の確率を均等にしたのです。
7位指名権から、順にチームロゴが入った封筒を開封し、最後に残ったのはニックスとペイサーズ。
2位指名権でペイサーズのロゴが出た瞬間「BASKETBALL is BACK in NEWYORK CITY」と実況が語るシーンは、あまりにも有名です。
とんでもない期待を背負ってNBA入りしたユーイングは、当然のように新人王を獲得します。
しかし、ケガのため1年目は50試合の出場にとどまり、平均20.0得点 9リバウンド。
当初の期待値があまりに高く、最も注目されるニューヨークという土地がらもあり、ユーイングは1年目から批判の対象となってしまいました。
前年にNBA入りした、アキーム・オラジュワンや、マイケル・ジョーダンがリーグに大きなインパクトを与えたことも、ユーイングへの攻撃につながっていました。
いかつい風貌とは裏はらに、知的で繊細な一面をもつユーイングにとっては、本当につらかったと思います。
しかし、着実にNBA選手として成長し、3年目には初めてニックスをプレーオフに導くと、ニックスを去る2000年まで、すべてのシーズンプレーオフに進出する強豪チームの象徴となったのです。
1988年から2年連続でオールNBAセカンドチームに選出されると、1990年にはついにファーストチーム入りし、NBAでトップセンターとして認められます。
そして、1991-92シーズン、パット・ライリーがヘッドコーチに就任すると、ニックスはユーイングを中心としたカチカチディフェンスで、NBA屈指の強豪チームへと変貌していきました。
そんな中、1991年9月21日に、バルセロナオリンピックに挑むドリームチームが発表され、当然のようにユーイングも選出されます。
当時、センターではアキーム・オラジュワン、デビッド・ロビンソン、そしてユーイングで、ナンバー1の座を争っていましたが、オラジュワンが当時まだアメリカ国籍を取得していなかったため(ナイジェリア出身)、ユーイングとロビンソンの選出に、異を唱える人はいませんでした。
迎えたアメリカ大陸予選でのスタッツは・・・
11.8得点 5.2リバウンド 0.4アシスト FG62.8%
危なげないプレーで、アメリカ代表チームに安定感を与えていました。
バルセロナオリンピックでは8試合中4試合に先発出場し・・・
9.5得点 5.3リバウンド 0.4アシスト FG62.3%
流れるようなパスで、敵を翻弄したドリームチームでは、最後にノーマークでユーイングやロビンソンに回ってくることが多く、悠々とプレーしていた印象があります。
ニューヨークの象徴である、パトリック・ユーイングは、ドリームチームにおいても、ゴール下で圧倒的な存在感を放っていました。
まさに、キングコングのように。
ドリームチームの一員として、自信2個目の金メダルを獲得したユーイングは、パット・ライリーHCのもと、強豪ニューヨーク・ニックスの要として、より存在感を高めていったのです。
初代ドリームチーム 5 デビッド・ロビンソン
所属 サンアントニオ・スパーズ 背番号50
216㎝ 当歳27歳
通算 987試合 21.1得点 10.6リバウンド 2.5アシスト 3.0ブロック FG51.8%
1991-92 23.2得点 12.2 リバウンド 2.7 アシスト 4.5ブロック FG55.1%
筋骨隆々でありながらも細身のフォルムは、北斗の拳のケンシロウのようで、個人的に理想のボディだと思っていたロビンソン。
216cmの高さを誇りながら、スピードと瞬発力で、他のビッグマンをよせつけない、新しいタイプのセンタープレイヤーでした。
スピードを生かしたランニングプレーや、ブロックショットはもちろん、ミドルシュートもうまく、穴のないビッグマンでしたが、「リーダーシップがない」「土壇場に弱い」と批判されることもありましたね。
大学の時から全米ナンバー1プレイヤーと呼ばれ、NBA全チームから注目されていたのは、先輩のユーイングと同じような状況でした。
バスケだけでなく、学業も優秀であるところも、重なる部分を感じます。
違ったのは、ロビンソンが進学したのが普通の大学ではなく、「海軍士官学校」だったことです。
ロビンソンは、海軍の軍人である父の姿にあこがれ、優秀な成績(学業)で海軍士官学校に進みます。
海軍士官学校バスケ部史上、最高の選手として、4年間で圧倒的な成績を残し、1987年にアメリカ大学バスケ界最高の栄誉とされる、ネイスミス賞とウッデン賞を受賞。
名実ともにアメリカ大学界ナンバー1プレイヤーと認められました。
同年のNBAドラフト、当然のように1巡目全体1位で、サンアントニオ・スパーズに指名されます。
しかし、通常の大学とは違い、海軍士官学校には、5年間の軍役義務があります。
ロビンソンは、潜水艦基地で軍務につきながら、2年目の1988年にソウルオリンピックのアメリカ代表に選出されました。
前回1984年のロサンゼルスオリンピックでは、マイケル・ジョーダン、クリス・マリン、パトリック・ユーイングなど、史上最強とも言われる大学生選手が集まり、圧倒的な強さで金メダルを獲得したアメリカ代表。
しかし、この圧勝劇の中には、一つ大きなカラクリがありました。
当時アメリカの最大のライバルだったソ連(ソビエト連邦 現ロシア)が、敵国アメリカで行われるオリンピックへの出場をボイコットしていたのです。
1988年のソウルオリンピックでは、当然ソ連は最強チームを送り込んできました。
チームの主力は、のちにゴールデンステイト・ウォリアーズなどで活躍する、サルナス・マーシャローニスと、世界ナンバー1センターといわれ、のちにポートランド・トレイルブレイザーズで活躍したアルビダス・サボニス。
マーシャローニスは、NBAにユーロステップを広めた選手。
サボニスは、現在サクラメント・キングスのインサイドを支える、ドマンタス・サボニスの父親です。
ソ連チームは、打倒アメリカに燃えていました。
ロビンソンを筆頭に、ミッチ・リッチモンド(元キングスなど)、ダニー・マニング(元クリッパーズなど)など、のちのNBA選手をそろえたアメリカチームでしたが、準決勝のソ連との戦いでは、経験の差が出てしまいます。
76-82で、ソ連の勝利。
ロビンソンは19得点12リバウンドをあげたものの、母国を勝利に導くことができませんでした。
結局、この敗戦が、ドリームチーム結成の原因となります。
バスケの母国アメリカは、金メダルを獲得しなければならないのです。
ロビンソンは、特例で軍役を2年で終えると、1989-90シーズンに満を持してNBAデビュー。
1年目からサンアントニオ・スパーズのエースとして大活躍をみせ、1試合平均24.3得点 12.0リバウンド 3.9ブロックのモンスタースタッツを残します。
チームも前年の21勝61敗から、56勝26敗に大きく成績を伸ばし、ロビンソンは文句なしの新人王を獲得。
ルーキーシーズンからオールNBAサードチーム入りすると、アキーム・オラジュワン(ヒューストン・ロケッツ)やユーイングら、リーグを代表するセンタープレイヤーをおさえ、2年目(1991年)3年目(1992年)には、2年連続オールNBAファーストチーム入り。
トップセンターの一人として地位を確立しました。
バルセロナオリンピックに挑むドリームチームにも、文句なしで選出されます。
アメリカ大陸予選でのスタッツは・・・
11.8得点 5.3リバウンド 0.8アシスト FG76.2%
ほぼユーイングと同じスタッツ(笑)。
みんなのアシスト力が高いため、センターがノーマークになる瞬間を見逃されないんですね。
ロビンソンもユーイングも、余裕たっぷりでプレーしていました。
バルセロナオリンピックでのスタッツは・・・
9.0得点 4.1リバウンド 0.9アシスト FG57.4%
本番のバルセロナオリンピックでも、他国のセンターにスピードとパワーの差をみせつけていました。
ドリームチームの一員となったことで、さらに自信をつけたロビンソンは、1993-94シーズンに得点王、1994-95シーズンにはレギュラーシーズンMVPに輝くなど、NBAを代表するセンターの一人として活躍を続けました。
大事なところでチームを勝たせることができないと批判されることもありましたが、1997年、スパーズにドラフトでティム・ダンカンが加入すると、1999年、2003年と2回のNBAチャンピオンを獲得。
優勝を決めた試合が現役ラストゲームという、ロビンソンにとって、これ以上ない最高の引退試合でした。
ロビンソンは温厚で知的な人柄で、常に仲間に信頼され、チームワークを大切にしたリーダーでしたね。
ショーン・エリオットや、エイブリー・ジョンソンなど、心から信頼できるチームメイトに恵まれた選手だったと思います。
あっ!デニス・ロッドマンは除きますけどね(笑)。
まとめ
今回は、ドリームチームのセンタープレイヤー、パトリック・ユーイングとデビッド・ロビンソンについて語りました。
現在の国際大会では、アメリカ代表の弱点とされているセンターポジションですが、1992年当時は、ユーイングとロビンソンに対抗できる選手は、どこにもいませんでした。
オリンピックの舞台にNBAのスター軍団が出場したことで、世界中のプレイヤーに、NBAの基準が伝わりましたね。
その後世界中から、優れたビッグマンが誕生したのは、ドリームチームの功績だと思います。
ただ、やはりトップセンターがアメリカから出てこないのはちょっと寂しいです。
ぜひアメリカ人から、ヨキッチやエンビードに匹敵する本格派センターが、今後出てきてほしいですね。
現在、U-NEXTでは、「ドリームチーム 世界を変えたバスケ界のレジェンドたち」というドキュメンタリーを視聴することができます。
1話41分、全5話で、当時のNBAの盛り上がりからドリームチームの結成の経緯、当時非公開だった紅白戦、メンバーがスペインで過ごす様子、そしてドリームチームが世界に与えた影響など、とても興味深い内容になっています。
貴重なインタビューや、当時の大迫力のプレー映像満載で、オリンピックだけでなく、当時のNBA人気が爆発する様子を体験できる、素晴らしいスポーツドキュメンタリーです。
ぜひご覧ください。